1 初恋を済ませている六歳
四話完結の番外編、完結まで投稿済みです。
時点は本編から一ヶ月後くらい、リーディアは六歳です。
「恋って素敵よねー!」
始まりは、廊下で聞いた侍女達のこんな会話だった。
「旦那様、奥様と結ばれて本当に幸せそうよね」
「奥様も、最近いつもフワフワなさっておいでなのよ」
「春! 伯爵邸の春だわ! 落ち着くところに落ち着いて本当によかったぁ」
(……)
彼女達を、廊下の影から見守っているのは、お花摘み帰りの幼いスナイパー(6歳)だ。熱のある眼差しで彼女達を見つめながら、掃除をする若い侍女達の雑談に耳を傾けている。
「お二人のお姿、本当に微笑ましいのよねー」
「分かる分かる! なんだか、私も恋をしたくなっちゃった」
「あら、あなたいつも誰かに恋してるじゃない」
「そんなことないわ、初恋もまだなのよ」
「この間、初めての恋は4歳で済ませたって言ってたくせに」
「早っ!? ……初恋といえば、旦那様ってもしかして、今回が初恋なのかしら」
きゃーっと盛り上がる侍女達。
それとなく小声の上、掃除の手が止まらないのは、伯爵家仕込みの侍女ならではである。
そして、銀色スナイパーは心のメモにそっと今のセリフを書き込む。
(はつこいは、済ませるもの……)
(パパは、今回が、はつこい……)
「前の奥様のときと全然違うものね」
「奥様が来たばかりの頃の優しい眼差し。いいわよねー!」
「最初はお気持ちを秘密にしていらっしゃっていて、それがまたもどかしかったのよねぇ」
「きっと秘めた恋だったからこそ、それがスパイスにもなって、成就した今最高に盛り上がってるのね。旦那様の最近の溺愛ぶりときたら、本当にすごいもの」
再びきゃーっと盛り上がる侍女達。やはり小声で、掃除の手も止まらない。
そして、耳の良い銀色スナイパーは、再び心のメモに書き留めた。
(ひめたこいは……スパイス……)
侍女達の会話は止まらない。
スナイパーは、続きに耳を傾ける。
しかしそこで、邪魔者が現れてしまった。
「あら、あなた達。掃除は終わったの?」
「「「はい、ただいま終わりました」」」
楚々と現れたメイド長に、侍女達は澄ました顔でお辞儀をする。
確かに、廊下は床も窓も棚の上も、これ以上なく磨き上げられていた。声も小さかったため、彼女達の会話は、耳を澄ませていた銀色スナイパー以外には届いていない。
メイド長は、廊下の様子を見ながら、それとなく廊下の奥に視線を投げる。
そこに、銀色スナイパーはいなかった。
優秀なスナイパーは、引きどきをわきまえているのだ。
****
「リーディアお嬢様、お帰りなさいませ」
子ども部屋にて、お花摘みから戻ったリーディアは、乳母アリスの元に駆け寄る。
今日の子ども部屋には、大好きな母マリアはいなかった。
今日のリーディアは、パパのお願いで、パパにママとの時間を譲ったのだ。
『ママと一番の仲良しのリーディアに、お願いがあるんだ』
『!! そ、そうよ。リーは、ママと一番仲良しなの……!』
『パパもリーディアみたいに、ママと仲良くしたいんだ。明日一日、パパにママとの時間を譲ってくれないかな』
『……』
『リーディア』
『……パパが言うなら、分かったの。明日は譲ってあげる』
『ありがとう。ママの一番なだけあって、リーディアは心が広いな……』
『!!! そうなの、リーはママの一番だから……!』
頬を染めて胸を張るリーディアに、パパは満足そうに笑っていた。これはもちろん、ママのいないところで交わされた会話である。
こうして快くパパにママとの時間を譲ったリーディア。
とはいえ、やはり寂しく思っていたことも否めない。
しかし、今は好都合だ。
スナイパーリーディアには、実は、ある考えが浮かんでいた。それを確かめるために、ママに内緒で、乳母アリスに聞かなければならないことがあるのだ。
「アリス、あのね。聞きたいことがあるの」
「なんですか? お嬢様」
「恋ってなぁに?」
ドサドサドサッ! と、乳母アリスは持っていた絵本を全て取り落とした。「アリス!?」という幼い驚きの声が上がる。
「お、お、お嬢様。一体どうなさったのです?」
「あのね。恋はとっても素敵なんだって。大好き、とは違うの?」
不思議そうな目で見つめてくる幼子に、乳母アリスは己の不幸を呪った。なぜそのような質問を、よりによって彼女の母マリアがいないときにしてくるのだ。
しかし、キラキラと輝く紫色の瞳は、逃げることを許してくれない。
乳母アリスは、覚悟を決めた。
「恋ですか……恋……」
「うん」
「その……大好き、と似てはいますが、少し違います。いつもその人のことばかり考えてしまうような、夢中になるような『大好き』なのです」
「夢中に……」
リーディアは思った。
リーディアはいつだって、大好きなママに夢中だ。
「その人といるととても幸せで、離れるととても辛くて」
リーディアは思った。
リーディアは、大好きなママといるととても幸せで、ママがいなくなるかもしれないと思うととても辛かった。今もそれを想像するだけで、涙が出そうだ。
「ずっと一緒にいてほしいと思いますが、相手がそうしてくれるかは分からない。なので、気持ちを告げるだけでも、とても勇気が要ります」
リーディアは思った。
リーディアは先日まで、ママがずっとこの家に居てくれるか分からなくて、ずっと不安だった。『ずっと居てね』と言っても、ママが頷いてくれるかは分からない。だから、パパに相談して、パパにママを落としてもらったのだ。リーディアは怖くて、直接気持ちを伝える勇気が出せなかった。
「そういう、特別な『大好き』を、恋というのです。リーディアお嬢様も、いつか経験なさいますよ」
リーディアは、満面の笑みを浮かべた。
「アリス。リーはね、もうはつこいを済ませているのよ」
「ええ!?」
仰天する乳母アリスに、リーディアは胸を張る。
そして、自分の考えに確信を持った、堂々たる顔つき――傍目にはただの愛らしい笑顔――をした。
(やっぱり! リーのはつこいは、ママ!)
そうではないかと思っていたのだ。
侍女達があんなにはしゃぐような『大好き』。
リーディアは、身に覚えがあると思っていた!
喜ぶリーディアの傍で、乳母アリスは青ざめていた。
何しろ、リーディアの周りには同年代の子どもがいないのだ。彼女の周りにいるのは、父リカルドに母マリア、そして使用人達である。
それなのに、リーディアは初恋を経験済みだと言う。すなわち、大切なお嬢様を誑かした不埒な男がいるということだ。
(誰なの、その不届な男は!)
「お嬢様。お、お相手は、どちら様で……」
「ひみつよ!」
「えっ」
「アリス、知らないの? ひめたこいは、スパイスになるのよ」
「!!?」
乳母アリスは動揺しきりだ。
もしや、可愛いお嬢様を誑かした不埒な男は、そのような小手先の入れ知恵で逃げようとしているのか。
これは重要案件だ。リーディアの父リカルドと母マリア、それに執事にも報告しなければならない。
「わ、わたしにも教えてくださらないのですか?」
「そうよ! スパイスなの!」
「……ええと、ええと…………」
「……? アリスはそんなに、リーのはつこいの相手が気になるの?」
「もちろんです!!」
「……??」
リーディアは、乳母アリスの剣幕にたじろぐ。
しかし、乳母アリスは引かない。引いてよしとされる戦いではないのだ。なにしろ、大切なお嬢様の未来がかかっている!
「リーディアお嬢様。初恋の相手というのは、とても大切なものなのです」
「そうなの?」
リーディアは思った。
大切な初恋の相手。それが大好きなママだ。なんの問題もない。むしろ嬉しい。
「リーディアお嬢様も、その……お相手様の初恋の人がご自分だと言われたら、嬉しいでしょう?」
「!!!」
リーディアは思った。
大好きなママの初めての恋の相手が、リーディア……。
なんということだろう、幸せな要素しかない!
しかし、他の人だったら……?
ウキウキの笑顔の後、愕然とした顔をしたリーディアに、乳母アリスは頷く。
「お嬢様、お分かりですね。初恋の人というのは、とても大切なのです」
「……! 分かったの、アリス。これはじゅうような問題よ」
「はい。それで、お嬢様。お嬢様のお相手は……」
「リーのはつこいの人の、はつこいの人……一体誰なの……!」
「お、お嬢様? そうではなく、お嬢様の……」
「リーじゃないのかな……で、でも……!」
「お嬢様ー!?」
話を聞いてくれないお嬢様に、乳母アリスは涙目である。
リーディアはそんな乳母には気がつかないまま、絵本に載っていた探偵さながらに、あごに手を当てて考え込んでいた。
(ママは、パパにも恋をしていると思うの。でも、リーの方が先にママと仲良くなったんだもの。リーが一番最初……の、はず……!)
「アリス!」
「はい!?」
「リーはがんばります!」
「何をですか!?」
こうして、リーディアはまたしても、ひみつのみっしょんを開始したのだ。