33 初めてのデート
デート。
それは、男女が、異性として仲を深めるために行う儀式である。
「ナタリー。なんてことなの。具体的なことが全然書いてないわ」
「それは国語辞典だからです」
「言葉の意味を調べると言ったら、辞典と決まっているのよ」
「昔からスザンヌ様には申し上げているではありませんか。普段から恋愛小説をたしなんでおくべきだと」
「だって、忙しかったし……」
「世のご令嬢は、忙しくても進んでお読みになるものなんです」
「私の身にこんなことが起こるなんて、誰も思わないでしょう?」
「私は思っていましたから、前々からご指摘しておりましたよ」
「ナタリーだけだったのよ」
「意見が採用されず、大変遺憾でございます」
不安から涙目で震えているスザンヌに、故国から連れてきた侍女ナタリーは「今泣いたら許しませんよ。化粧が全滅します」とつれない態度だ。
結局、夫ウィリアムとのデートは、週末に行うことにしたのだ。
そして、週末というのが残念なことに、二日後であった。
来週は、国際会議の開催や、それに伴う王宮での夜会が行われる。
それより先に延ばすのは、お互い耐えられなかったので、他に選択肢はなかったのだけれども、それにしても日にちが近すぎた。
予習をする時間が全く足りない。
「何を言いますか。スザンヌ様が予習なんかしたら余計おかしなことになりますよ。これでよかったんです」
「そんなことないわよ。沢山勉強したら、それだけ身になるものなんだから」
「これは勉強を妄信すると足をすくわれる分野だと思いますよ」
ふくれているスザンヌに、侍女ナタリーは楽しそうに笑っている。
こんなにもスザンヌが困っているというのに、実に頼りにならないことだ。
実は、今日のデートの件は、マリアにも相談したのだ。
しかし、「楽しんできてください」としか言ってもらえなかった。
「それが極意だからですよ」
「そんなはずないわ。きっと、幸せな女性だけが知っている、私が知らない秘密が隠されているはずよ」
「じゃあ、ウィリアム様とその秘密を探ってきてください。ほら、できましたよ」
スザンヌはそう言われて、鏡に映る自分を見る。
今日着ているのは、ウィリアムが今年、スザンヌに贈ってくれた冬用のデイドレスだ。
まだ着る機会がなかったので、ちょうどいいとばかりに、今日のデートの衣装に選んだ。
真っ白な布地の温かいドレスには、淡い金色と青色の糸で刺繍が施されていて、そこには、雪に溶け込んでしまいそうな、儚い美しさがある。
あの幼い伯爵令嬢の髪の色と合わせたら、空から舞い降りた天使と見間違ってしまいそうだ。
しかし、スザンヌの豊満な体を包み、編み込んで後ろでまとめた長い黒髪、紺色の瞳に合わせると、なんだか一気に堕天してしまったような気がする。
「全然着こなせていないわ」
「スザンヌ様は、ご自分のことになると急に正常なご判断ができなくなりますよね」
「何を言い出すのよ」
「めちゃくちゃ似合ってますよ。さすがは王太子殿下です。ご自身の妃に合う服装をよくご存知でいらっしゃる。知的で清楚な色気がビシバシ出ていて、私は目が痛いです」
「何よ、あなたも直視できないんじゃないの。下品じゃないかしら」
「もはや下品と言っていいくらい、王太子殿下の色が盛り込まれていますね。見事な独占欲ですこと」
「!」
彼の、ホワイトブロンドの髪に、青色の瞳が、脳裏に浮かぶ。
そして、目の前の鏡に映る、美しいデイドレス。
淡い金色と青色の、こまやかな刺繍が、真っ白な布と共に、全身を包むような……。
「着替えるわ」
「もう時間がありませんよ」
「で、でも、変な意図があると疑われたら、困るでしょう」
「普段はお色味を合わせてお出かけなさるではありませんか」
「公務は違うの! 夫婦仲がいいところを見せるのが仕事なんだから」
「今日は仕事のときなんかよりもっと力を入れて、仲がいいところをお互いに見せ合う日だと思いますけど」
「……!」
白磁の肌を真っ赤に染め上げるスザンヌに、ナタリーはくすくす笑っている。
結局、着替えることなく、白いドレスで夫ウィリアムを迎えたところ、ウィリアムはこれ以上なく喜んでくれた。
「スザンヌ、綺麗だ」
「……ありがとうございます」
「似合うと思っていたんだ。あなたの知的な美しさが清廉な白色と合わさって、雪の精霊のようだ」
思わぬ褒め言葉に、スザンヌは高鳴る胸を慌てて手で押さえる。
おかしい。
夫はこんなふうに饒舌な人だったであろうか。
もっとこう、王太子としての威厳を気にしているのであろう、鹿爪らしい雰囲気の男だったように思う。
スザンヌが真っ赤な顔で俯きながら、「あなたも……素敵です」と言うと、ウィリアムは花が綻ぶような笑みを浮かべていた。
実際、今日の彼は本当に素敵なのだ。
白がベースのスーツを選んだのは、スザンヌが白いドレスを着ると使用人越しにことづけておいたからなのだろう。
ところどころにグレーの差し色が使われ、淡い金色と深い紺色の刺繍が施されたその衣裳は、なんだかスザンヌのドレスと同じデザイナーの気配を感じる。
淡いホワイトブロンドの髪と合わせると、全体的に儚げな色合いで、夢の国の王子様のようだ。
こうしてスザンヌは、初めてのデートに出陣した。
エスコートされながら、小物を見たり、公園を歩いたり、食事をしたり。
高揚する気持ちはあるものの、戸惑ったのは、一緒にいる夫が、いつもよりも快活で、表情が明るいことだ。
いや、明るいというか、なんだかはしゃいでいるような気がする。
スザンヌと目が合うと、蕩けるような笑みが返ってくるし、スザンヌの話を聞くだけで、とても嬉しそうにしていて、なにかにつけ、饒舌にスザンヌを褒めちぎってくる。
おかげで心臓が忙しくて、全然落ち着くことができないのだ。
「すみません。我ながら、タガが外れているのは自覚しています」
エスコートされながら、雪景色の美しい公園を歩いていると、夫がぽつりと呟いた。
「あなたとこうして、私的な時間を過ごすことができるとは、思ってもみなくて」
恥ずかしそうに長いまつ毛を伏せる夫に、スザンヌは思わず俯いてしまった。
なんだか彼を見ていると、眩しくて、体温がどんどん上がってきて、直視することができない。
(この人、私のことが、好きなんだわ……)
きっと、彼は本当に、スザンヌのことが好きなのだ。
夫は、スザンヌに恋をしている……。
じわじわと胸が熱くなってきて、スザンヌは無意識に、彼の右腕に添えた手に力を入れてしまった。
すると、ウィリアムが、消え入りそうな声で、そっと尋ねてきた。
「……あなたの手を、握ってもいいだろうか」
「えっ」
「いや! なんでもない。その、私は……」
「か、構いません!」
スザンヌが慌ててそう口にすると、ウィリアムは動揺した様子でスザンヌを見る。
「……ウィリアム様なら、構いません」
なんとかそれだけ搾り出したスザンヌに、ウィリアムは少し泣きそうな顔をしながら、そっとスザンヌの左手を握りしめた。
指を絡めるわけでもなく、ただ包み込むようにしたそれは、きっとスザンヌを怖がらせないように気を遣ってのことなのだろう。
そして、自分でも不思議なほど、スザンヌはウィリアムがこうして近づいてきても、怖いとは思うことはなかった。
エタノール王国に来てからというもの、夫は日中の公務でも夜会でも、スザンヌをそういった目から守ってくれていた。特に夜会では、常にスザンヌの傍から離れず、庭園には近づかせないし、自身が離れる際には必ず王妃殿下やエドワード王弟殿下にスザンヌを預けて、決して彼女を一人にはしなかった。
彼の近くはスザンヌにとって、安全な場所なのだ。
それほど大切にしてもらってきたのだと、スザンヌは気がついた。
「……」
込み上げるものがあって、目は潤んでくるし、なんだか胸の奥がむず痒くてしかたがない。
気持ちの赴くまま、そっと彼の指に自身の指を絡めてみる。すると、一瞬こわばった彼の手が、しっかりとスザンヌの手を握りしめてきた。
二人は何も言わない。
ただ、心臓の鼓動と、手の温かさばかりが意識にのぼって、スザンヌもウィリアムもまったく景色が目に入っていない。
各所から見守る護衛達が、あまりの激熱空間にその場で溶けてしまいそうになっていることも、今の二人の目には入らない。
スザンヌ編はあと一話の予定です。