31 期待
スザンヌが嫁入りのために連れてきた侍女は、乳母の子であるナタリーだけであった。
乳母は、体を悪くしていたので、ついてくることができなかった。
ナタリーにも国に残るように伝えたけれども、彼女は「何を言いますか」とスザンヌの言葉に怒ってくれた。
「他国に嫁ぐのに、侍女の一人もついていないなんてありえません!」
「ナタリー」
「私は好奇心の塊ですから、他の国も見てみたいんです。母には兄夫婦もついていますから、大丈夫です。スザンヌ様についていかせてください」
スザンヌ付きの侍女ということで、ナタリーが他の使用人達から冷たく当たられていることをスザンヌは知っていた。
侍女を辞めることもできただろうに、それでも彼女はスザンヌの傍に居てくれて、これからもついてきてくれると言う。
泣き出したスザンヌに、ナタリーは「スザンヌ様は泣き虫ですねぇ」と笑っていた。
「私が泣くのは、ナタリーの前だけなのよ」
「その殺し文句、私に言ってどうするんですか」
二人でひとしきり笑った後、スザンヌは馬車の中からエタノール王国を眺めた。
きっと悪いことばかりではないはずだ。
エタノール王国では王太子妃として生きるのだ。
きっと、王宮の中に閉じ込められることはないだろう。
こんなスザンヌでも、色々なものを見て、知って、誰かに笑顔を作れる、そんな存在になれるはず。
そうしてやってきたエタノール王国で、夫となる王太子ウィリアムとは、結婚式までは殆ど話をしなかった。
一応、二人きりになることはなかったものの、話しをする機会はあったのだ。
ウィリアムはスザンヌとあまり会話をしたくないのかもしれない。
スザンヌの姿を見ると、頬を赤らめた後、ぱっと顔をそらしてしまうことが多い。
「甥はとても恥ずかしがり屋なんですよ」
「叔父上」
「それにしても、御父上はスザンヌ殿下をたいそう気にかけていらっしゃったのですね。婚姻するまで、あなたを男と二人きりにしてはならないとは」
「申し訳ございません」
「いえいえ、責めているわけではないのですよ。ただ、甥はつらいかもしれませんね」
くつくつと笑っているエドワード王弟殿下に、王太子ウィリアムは憮然とした顔をしていた。
スザンヌはよくわからないまま、愛想笑いを浮かべることしかできない。
「スザンヌ殿下。本当に、我が国に来てくださって、本当にありがとうございます」
そう言って笑ってくれるエドワード王弟殿下は、不思議な人だなと思った。
兄スタンリーのようだ。
スザンヌの固く冷えた心に、温かい何かをくれる人。
そうして、初夜がやってきた。
半分体が透けてしまうような、一体なんのためにあるのか首をかしげるような布切れに身を包み、スザンヌは寝台の上で夫を待つ。
噂のことを思うと、自分の豊満な体つきが恥ずかしい。
それになにより、スザンヌは怖かった。
これからすることを思うと、あの暗かった庭園で起こった出来事が、まざまざと脳裏に浮かんでは沈む。
ふと、父スルトはこれを望んでいたのだろうと思った。
スザンヌが、悲鳴を上げて、スルシャール王国に逃げ帰ってくることを望んでいるのだ。
王太子スタンリーが無理に押し切ったこの縁談。
スザンヌが王太子妃として役に立たないと、公の場に出せる状態ではないとなれば、話は別なのだ。
だから、男が怖くてしかたがないスザンヌを安心させないよう、夫となる男からスザンヌを引き離した。
けれども、伝え聞いている話が本当なのだとすれば、王太子ウィリアムはスザンヌのことを好いていてくれるはずだ。
少なくとも、スザンヌの見た目が彼の好みに合うことは、間違いがない。
お願いをすれば、きっと優しくしてくださるはず。
震える手をもう片方の手でなんとか押さえつけながら、真っ白な顔で固まっていると、寝室にウィリアムが現れた。
ようやく夫と話をするのだと、そう思ったけれども、体が動かなくて、声が出ない。
そんなスザンヌを見たウィリアムは、自嘲するように笑うと、「すまない」と一言呟いた。
「寝耳に水で申し訳ないが……私は、あなたを愛するつもりはない」
言われた言葉がよく理解できなくて、毛布で体を隠したまま、スザンヌはひたすら、寝台から少し離れた位置に立っている夫を見つめる。
「あなたは元々、修道院に入る予定だっただろう」
「……はい」
「二年で婚約無効とする。その後、修道院に入るといい」
「……」
「アレクセイ兄さんが戻ってくれば、もっと時期を早めることができる」
「何故、私と結婚なさったのですか?」
スザンヌが紺色の瞳で真っすぐにウィリアムを見ると、彼は顔を赤らめた後、そっと目を伏せた。
「私が立太子するにあたり、祝い事が必要だった。それに、あなたの存在は、叔父上の進めている政策を有利にするものだった」
「政策……」
「そういった事情もあって、エドワード叔父上は積極的にこの話を進めてくださったんだ。私は、その……本当に、申し訳ないことをした……」
うなだれるウィリアムに、スザンヌは心臓を握りしめられるような、ひどい気持ちに見舞われた。
ああ、またやってしまったのだ。
スザンヌがそこにいることで、この人にも迷惑をかけてしまった。
「構いません」
「……え?」
「私のことは、捨て置いてくださいませ。気にかけてくださる必要はございません。こんなことになってしまい、本当に申し訳ございませんでした」
「あなたは悪くない! わ、私が悪いんだ。本当にすまなかった。もっと早く、この話をするべきだった。しかし、その……立ち入ったことを話す機会がなくて……」
「お気遣い、ありがとうございます」
心を叱咤し、なんとかほほ笑むと、ウィリアムは「朝になったら初夜の偽装をしにまた来ます」と言って、夫婦の寝室の脇にある内扉から、夫の寝室へと戻っていった。
スザンヌは、しばらくその場から動けなかった。
男に触れられなくてもいいというその事実。
それは間違いなく、スザンヌにとって吉報のはず。
けれども、心がそれを受け入れてくれない。
どのぐらいの時間そうしていただろうか。
スザンヌはようやく寝台から立ち上がると、ふらふらとした足取りで夫が出て行った方向とは反対側にある扉を開き、自分だけの寝室に身を滑り込ませた。
扉を閉めると同時に、体から力が抜けて、その場で座り込んでしまう。
涙が零れ落ちて、声を出すことも、それをぬぐうこともできずに、スザンヌはただ、床の上で固まっていた。
(なんて愚かなの)
諦めていたはずだった。
この結婚に、何も希望を抱いていないと、そう思っていた。
けれども、愚かなスザンヌは、心のどこかで夢を見てしまったのだ。
家族として、妻として愛されるかもしれないと、期待を抱いてしまった。
スザンヌは、隣国を出立する前に、失踪しているべきであったのだ。
こんな噂のある自分を、黒髪の王女を、妻に迎えたい人がいるわけがなかった。
この結婚は、政略結婚。
エタノール王国としても、黒髪で愛人の子に過ぎない王女、虐げられているスザンヌが扱いやすそうだから指名したのかもしれない。
王国としてはスザンヌの何かが都合が良かったのだろう。
けれども、夫となるウィリアムからしたら、とんでもないことだ。
なのに、受けてしまった。
長兄に命じられたけでなく、家族ができるかもしれないという自分の欲のためにこの場に来たのだと、ようやくスザンヌは気が付いた。
『美しいと、私は思う』
「スタンリー、兄様。兄様……」
スザンヌは、全然、美しくなんてない。
欲深くて、迷惑な存在で、こんなにも醜悪な。
『踊るとき、お前はいつも先を見ている』
何も見えない。
もう、何も……。
初めて、スザンヌは何も見えない真っ暗な闇の中で、ただひとり背を丸めて泣いた。







