30 嫁入り
『男を連れ込む乱れた王女』。
元々、蔑まれてきた黒髪の王女の話だ。
人々は好き勝手に悪い噂に尾ひれをつけていった。
スザンヌは、しかし、折れることはなかった。
この事件により、スザンヌは婚約を破棄することができたからだ。
意外なことに、経緯を聞いた父王が怒り狂い、問答無用で王家の方から婚約破棄となり、それだけでなく、婚約者の家の爵位を没収して、家ごと男を没落させたのである。
スザンヌは何も言わなかった。
やりすぎだと思いながらも、逃げ続けながらも苦しかった婚約期間の思い出が脳裏をよぎり、動けなかったのである。
「それでいい」
「スタンリー兄様」
「お前は何も悪くない」
どうやら、今回の件は兄のスタンリーも相当に怒っているらしかった。
不注意で心配をかけてしまって本当に申し訳ないと謝ると、「お前は悪くない」と再度兄は呟いていた。
けれども、スザンヌはきっと、自分の存在が悪いのだろうと思った。
王族なのに、黒髪に生まれて、こんなふうに周りの気持ちを乱している。
「修道院に入ろうと思うのです」
兄には独断で、父スルトに謁見を申し出たスザンヌは、開口一番にそう告げた。
久しぶりに正面から見る父スルトは、スザンヌの知る姿よりも、野心にギラついているような気がした。
他にも、気になることはある。
しかし、とにかく用事を済ませて、父王の目の前から去ることが急務だ。
下手に目をつけられて、折檻が始まってしまってはたまらない。
頭を下げるスザンヌに、父スルトはしばらく黙った後、「わかった」と呟いた。
「えっ」
「何を驚く。お前が言い出したことだ。修道院に入りたいなら、好きにするがよい」
「……ありがとう存じます」
今一度頭を下げると、スザンヌは足早に退室した。
もう、結婚しなくても済む。
そう思うと、浮き足立つようだった。
悪評名高いスザンヌには、まともな婚約の申し込みは来ていなかった。瑕疵ある王女をめとりたいと願う者は、一癖も二癖もある家の者ばかりだ。歳が三十も離れていたり、四度目の結婚であったり、前妻が不審な死を遂げていたり。
それに、スザンヌは兄スタンリー以外の男が怖かった。
成長するにつれ、体つきが女性を意識させるものとなってからというもの、男からジロジロと見られることが多かったからだ。元婚約者や、あの酔った貴族の男がスザンヌを見るときと、同じ目だ。あらゆる意味で抵抗する力のないスザンヌにとって、恐ろしくて、それはたまらないものだった。
だから、女性しかいない場所に行くことは、スザンヌにとってなによりも救いだった。
後からスザンヌの修道院行きを知ったスタンリー兄様は絶句していたけれども、これでいいのだ。
元々、スザンヌは要らない存在だった。
だから、慎ましやかに、誰の目もない場所で、それなりに生きて、ひっそりと生を終えたい。
そう思って準備をしていたところに舞い込んできたのが、エタノール王国からの婚約の申し入れだった。
正直、驚いたし、理由が全然わからなかった。
なぜ、こんな悪評のあるスザンヌを。
「スタンリー兄様。もしかして、エタノール王国は私の評判を知らないのでは」
「スザンヌ」
「すぐにお伝えください。であれば、この話はきっと、なかったことに」
「知っている」
「えっ」
「向こうはすべて知っている。エドワード王弟殿下が、よくしてくださるはずだ。お前は何も考えずに嫁ぎなさい」
「で、でも、私は修道院に……」
「これは王太子命令だ」
初めてスザンヌに向けて強権をふるう兄に、スザンヌは何も言えなかった。
それに、スタンリー兄様が望むのであれば、スザンヌには従わないという選択肢はなかった。
結婚は怖い。
けれども、自分の身を差し出すことで兄スタンリーの役に立つのであれば、それが当然に優先される。
だから、スザンヌは何も考えないことにした。
心を殺して、ただ流れに身を任せる。
生きることは、つらくて、とても苦しい。
それは最初から、わかっていたことだから。
後から、スザンヌの隣国への嫁入りについて、父スルトと兄スタンリーが相当にやりあったのだと風の噂で聞いた。
それはそうだろう。父スルトは、スザンヌを国外どころか、王宮の外にも出さなかったのだ。
国外に出すなど、もってのほかのはず。
父スルトの最後の意趣返しなのか、スザンヌは婚姻のその日まで、夫となるウィリアム王太子と話をすることができなかった。
ただ、彼が国に帰る前に、遠目にその姿を見ることはした。
ふわふわしたホワイトブロンドの髪に、青い瞳に太い眉の、男らしく整った顔つきの男だった。
淡い色の、高貴な髪の色。
将来国王になる彼の妻に、私のような女がなっていいものなのだろうか。
嫁入りのための出立のその日、見送りに来た家族は兄スタンリーだけだった。
でも、スザンヌはそれで構わない。
顔を見たいのは、兄のスタンリーだけだったから。
「今まで、ありがとうございました」
深々と頭を下げるスザンヌに、兄のスタンリーは安堵した顔をしていた。
スザンヌが不思議に思って兄を見ていると、兄は「幸せになりなさい」と言った。
けれども、スザンヌは素直に頷くことができない。
苦笑する兄に、スザンヌはつい、ずっと疑問に思っていたことを聞いてしまった。
「スタンリー兄さまは、何故、私に優しいの?」
すると、兄のスタンリーは、悲しそうな顔で首を横に振った。
「私は、優しくなどない」
「兄様」
「何もできなかった」
この場で兄の言葉を否定することは簡単だ。
けれどもそれは、兄の気持ちを変えるものではないのだろう。
スザンヌがおし黙っていると、スタンリーは周りには聞こえない声で、小さく呟いた。
「お前は、この国から逃げろ」
それだけ言うと、スタンリーはスザンヌを促して、馬車に押し込めてしまった。
スザンヌは、馬車の窓から、ずっとスタンリーを見ていた。
兄は一体、何をその心の内に秘めていたのだろう。
もう、スザンヌにはそれを知る由はない。







