10 リキュール伯爵の受難 ※リキュール伯爵視点
リキュール伯爵視点の過去編です。
「つまらない男」
最初の妻が最後に私に言った言葉は、こんなものだった。
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私はリキュール伯爵家の一人息子として、この世に生を受けた。
子どもの頃は、祖父母も生きていたし、従兄弟も3人いて、人数は多くないけれども、それなりに賑やかな血族だったと思う。
そして、成長するにつれ、わたしはリキュール伯爵家が、高位治癒魔法師を生み出す特殊な家系として特別視されていることに気がついた。
しかし、別にどうということはない。
ほんの少し他の貴族よりも縁談が多いというだけで、他は一介の貴族と変わらなかったからだ。
そして、親族が、次々に亡くなってから、事態は急変した。
野盗に襲われた父母や、戦で亡くなった従兄弟二人はともかくとして、最後に従兄弟夫婦が事故で亡くなったときは、治癒魔法など何の役に立たないと憤ったものだ。魔法の使い手が致命傷を負ってしまえば、治癒魔法を発動させることなどできない。役に立たない治癒魔法、その使い手を生み出すこの血に、いかほどの価値があるというのだろう。
そして、従兄弟夫婦が事故で亡くなった時、せめて私に妻がいれば、事態はまだマシだったのだと思う。
しかし、あのとき、私は既に、リーディアの母親とは別れていたのだ。
正確には、逃げられていた。
リーディアの母親であるカーラは、リーディアが生後半年のときに、署名済みの離婚届を置き去りに、不倫相手と共に出奔してしまっていたからである。
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カーラは、カウエン子爵家の長女だった。
そして、私とカーラの結婚が決まったのは、カウエン子爵家から婚約の打診があり、それを我がリキュール伯爵家が断りきれなかったからという、ただその一点に尽きる。
何やら、私の祖父はカーラの祖父に恩があったらしいのだ。なお、カーラが出奔したときは、余命いくばくかであった祖父は涙を流して私に謝っていた。
カーラは奔放な女性だった。
緋色の髪に、しっとりとしたタレ目が特徴的な、凹凸の激しい体つきで、常にしっかりと化粧を施していた。私が彼女の化粧を落とした素顔を見たことは、実は数えるほどしかない。
私とカーラが出会ったのは、私が20歳、彼女が19歳の時。
両親と二人の兄に囲まれ、蝶よ花よと育てられた彼女は、気位が高く、また社交界デビューを果たしていた彼女は、恋に奔放な女性でもあった。
そんな彼女が何故私に興味を持ったのかというと、ひとえに見た目と血筋によるものらしい。
「あなた、夜会の王子って呼ばれてたのよ。治癒魔法師を生み出す血筋っていうのも特別感があってよかったわね。私、あなたを捕まえたことが自慢だったんだから。こんな男だとは思わなかったけれど」
彼女は、出奔するしばらく前に、こんなことを言っていた。
彼女は婚約当初から仮面のような笑顔を貼り付けていて、私の方も正直、婚約や結婚とはこんなものかとつまらなく思っていた。
別に、お互いに恋をして結婚に至った関係でもない。
そもそも私には断る選択肢がなかったし、この婚姻を望んだ彼女が満足しているなら、仕方ないのだと割り切っていたのだ。
その代わり、彼女がある程度散財していても、見てみぬふりをしていた。
娘に私の血が入っているかどうかだけは心配で、私だけでなく父母も使用人達も心配していたくらいだった。生まれてきたリーディアがあまりにも私そっくりな顔だちであったため、一同、胸を撫で下ろしたことは記憶に新しい。
とにかく、私はカーラに自由に過ごさせていたのだ。
しかしそういう、彼女のすることに興味を持たない私の様子が、カーラにとっては非常に不満だったらしい。
「私、とても引く手数多の人気の令嬢だったのよ。なのに何よ。そんなふうに、一歩引いて、興味がなさそうにして」
「そういう訳では」
「何かあったときに静かになるところもいやだわ。本当に、失敗したわね……つまらない男」
以上が、彼女と最後に交わした会話だ。
そして、彼女は、署名済みの離婚届と、「彼と出ていきます」という置き手紙を残して、出奔した。
私は、ああこんなものかと思った。
彼女のしたことは伯爵夫人としてありえないものではあった。しかし私はなんとなく、彼女らしいなと思ったのだ。そのくらいには、私は彼女のことを知っていた。そして、私に足りなかったものがあったことも分かっていた。だから、妻であるカーラが出ていったと言うのに、まあお互い上手くいかなかったな、程度の気持ちしか湧かなかったのだ。
もちろん、リキュール伯爵家としてカウエン子爵家に対し、今後一切関わらないことを通告するぐらいのことはしたが。
問題は、リーディアだ。
私は、カーラと上手くやっていけなかったことについて、リーディアに申し訳ないと思っていた。
リーディアは生まれた時から、乳母アリスに育てられ、母親に抱かれることもなく育ってきた。カーラの口からリーディアの話題が出ることは殆どなく、その上、出ていってしまった。私は正直、後妻を娶れるとも思えない。リーディアはずっと、母を知らずに育つことになるのだと思うと、罪悪感で胸が痛かった。
そんな状況で、王家からのハニートラップ攻めが始まってしまったのだ。
私は、最初は大人の男として、寄ってくる女性達を必死に躱してきた。
気疲れはするけれども、嫌われている訳ではないのだから、愚痴を言うのも違うだろうと思い、耐えてきた。
しかし、精神的負担というものは知らず知らずのうちに蓄積していくもののようだ。
段々と体調を崩すことが増え、夜会で媚薬を盛られ、必死に馬車に乗り込んでリキュール伯爵家に逃げ帰った翌朝、私は女性に近づくことができなくなっていた。
室内に若い女性がいると、吐き気と眩暈がする。
乳母のアリスでさえも、私は寄せ付けることができなかった。
どうにかしないとだめだと思えば思うほど、症状は悪化していく。
そうして、ある日、私は自分を消してしまいたくなるような酷いことをしてしまった。
「パパ、顔色が悪いの。大丈夫?」
そう言って駆け寄ってきたリーディアの手を、5歳の娘の手を、私は思わず払ってしまったのだ。
なんてことをしているんだと自分でも思った。
けれども、体が動かない。リーディアの手を握り、なんでもないと伝えないといけないと思うのに、手を伸ばそうとすると、体が震えて動かないのだ。
リーディアはその場で泣き叫んだ。
私に近づかないようにしてくれていた乳母アリスが、壁際から飛んできて、泣き喚くリーディアを回収していった。
静かに涙を流し、「殺してくれ」という私に、執事は何も言わずにガウンをかけた。
そうして、3日間ほど寝台で休んでいたところ、王弟殿下とマティーニ男爵がやってきたのだ。