81話
今回少し短いです。申し訳ありません。
暗い場所。ただ流れゆく水の音だけが聞こえて来る。光が一切届かないそこで、私はゆっくりと目を開く。ため息を付くと、口から出たのは空気の泡だった。
「—————————————」
「………いやだ」
頭に響く声。まるで暗闇の奥から聞こえてくるようでもあり、私の頭の中から聞こえるようでもある。それは餌を求めていた。
もっと養分を寄越せと。だから私は拒絶した。私の中に入り込んでくるその意思はまるで子供の用だった。いや、実際にそうなんだろう。
だってこの子は………
「———————————————————」
「………違う。私はそんなこと望んでない………!」
それでも語り掛けてくるそれは、とある提案を持ちかける。とても残酷なのに………心の奥底で、それが酷く甘美に思えてしまった私自身を否定する。
耳を塞ごうと、変わらず響く声。呻くような低い声は、いつの間にか赤子の鳴き声のように脳内を反響していた。目を閉じる。この夢から早く目覚めたかった。
頭が痛い。吐き気が襲ってくる。目から涙がこぼれるかと思ったその時、その泣き声が止まった。ゆっくりと目を開ける。
「——————————————————」
目の前に輝く大きな赤い瞳が、私を覗き込んでいた。
「っ!!!!」
飛び起きる。息が苦しい。激しく呼吸を繰り返して、私は周囲を確認する。いつもと変わらない私の部屋。それを見て少しずつ落ち着きを取り戻した私は、大きくため息を付く。それと同時に気付いた。
「………最悪」
全身が濡れていた。汗を掻いていたなどという話どころではなく、間違いなく水の中にいたと言える程に服と髪が濡れて肌に張り付き、秋の夜と言う事もありとてもひんやりとした空気が不快感を助長させていた。
そして、微かに鼻を突く潮の匂い。ベッドのシーツまで水は滴り、これではまるで………
「っ………」
すぐにベッドを下りて、乱暴にシーツを剥ぎ取って部屋を出る。そのまま一階に降りていく。ソファーにはシエルが眠っていた。そして、部屋の隅でじっとしていたロッカが私を見る。
「!?」
びしょびしょに濡れた私の姿を見て、ロッカが驚く。心配するように近付いて来ようとしたロッカに、人差し指を唇に当ててジェスチャーをする。シエルを起こすわけにはいかない。
不思議そうにしながらも、静かにその場から動かなかったロッカを見て、私はそのまま脱衣所に入る。脱衣所と浴室の明かりをつけた後、シーツを洗い物を貯めている場所に放り、風呂を沸かすためのスイッチを押す。
こんな深夜にお風呂に入るのは初めてだけど、こんな全身が濡れたままで眠ったら風邪を引くのは目に見えていた。シオンにも心配をかけてしまうし、それだったらこっそりお風呂に入っていた方が良い。
脱衣所に常備している私の服とタオルを取り出し、今着ている服を脱ぐ。服が濡れているから肌にくっついて脱ぎにくい。さっきの夢の事もあってイライラしながら服を脱ぎ、それを放って浴室に入る。
『権能』が用意したマジックアイテムという事もあり、お風呂が用意できるのは一瞬だ。水や動力源がどこから来ているのかは知らないけど、シオンからは気にせずに使って良いと言われている。シャワーで身体を一度洗い流し、浴槽に入る。
丁度良く温められた温度で、冷たい身体が熱を取り戻していく。本当に、心の底から昔の家族の家を飛び出して良かったと思っていた。
浴室を出る。いつもよりは少し短めだけど、あんまり今の時間に長く入りすぎるのは眠る時間がなくなってしまう。身体と髪をしっかりと拭いて、濡れていたのとは別の服を着る。
起きた時の不快感は完全に無くなっていて、これなら風邪を引かずに済むだろう。棚に入っている予備のシーツを取り出して部屋を出た時、一瞬だけ呼吸が止まる。
「大丈夫かい?」
「………なんで、起きてるの?」
いつものように穏やかな声で話しかけてきたのはシオンだった。シエルを気にしてか声は少し抑えめで、彼女が眠っているソファーの反対側にあるソファーの手すりに腰を掛け、心配そうに私を見つめていた。
ロッカを見ると、困った事を示すように頭を掻く仕草をする。
「寝ている時、妙な気配を感じてね。僕と君の部屋は隣だからすぐに分かったんだ。理由は何となく察しているつもりだけど」
「………怒らないの?」
「どうしてだい?」
「………黙ってたこと」
「怒らないさ。人間誰しも、言いたくない事の一つや二つはあると思っているからね。でも、僕にとって唯一無二の存在である君が苦しんでいるのは見たくないかな」
そう言って立ち上がり、私にゆっくりと近付いてくるシオン。いつも鈍感なくせに、こういう時だけ驚くほど鋭い。優しい翡翠色の瞳は変わらず私を見つめていたけど、私の前に立ったシオンはゆっくりと腰を下ろす。
まるで子供を相手しているかのような態度に、また文句でも言ってやろうかと思った時………私の身体が抱きしめられた。
「………シオン?」
「いいかい?君が僕に言ったように、僕も君を失いたくないんだ。あの日の約束は、僕だけが守る物じゃないだろう?」
「………」
「全て話してほしいとは言わない。けど、君一人で全て抱えないといけないなんてことは無いんだ。家族は迷惑をかけあって生きるものなんだよ」
「………うん」
しばらくそのままだったけど、ゆっくりとシオンが私の身体を離して立ち上がる。その時にさりげなく私の頭を撫でようとしていたから、いつものようにその手を叩く。
「………子ども扱いしないで」
「はは。そうだったね………また今度、君の覚悟が決まった時に話してくれると嬉しい。もしそれがどんなことでも、僕は全力で力になるから」
「………うん。ありがとう」
シオンがにこりと微笑む。彼は自覚がないけど、その優しい笑みに惹かれる人は多いと思う。なんでも受け入れてくれるんじゃないかと思う程広い器と、彼自身が纏う温かい雰囲気が警戒心や緊張感をすぐにほぐしてしまう。
アズレインからセレスティアの話を聞いた時、凄く驚いたのを覚えている。でも、意外だとは思わなかった。それでも、ちょっと納得できなかったけど。
「それじゃあ、無理しないうちにちゃんと寝るんだよ。おやすみ」
「………おやすみなさい」
そう言ってシオンは階段の方に向かう。けど、離れていくその背中を思わず追っていた。そして、いつもみたいにシオンの袖を掴む。
「ん、どうしたんだい?」
「………屈んで」
「………?」
シオンは言われた通りに腰を下ろしてくれた。不思議そうな表情を浮かべているシオンの頬に、私は一瞬だけ口付けをする。
彼の驚いた顔を見る事もなく、私は急いで階段を駆け上がる。寒さとは全く逆の意味で、眠れるか分からない。
「あはは………驚いたね」
フラウが階段を駆け上がっていったのを見送り、小さく呟く。ロッカがからかうように、人間ならば口がある場所に右手を当てていた。
勿論、普段スキンシップがかなり控えめなフラウが取った行動に驚いた部分はある。けど、彼女なりの感謝だったのだろうと思う。前世の施設にいた子供達も、似たような行動を取ることはあった。流石にここまで直接的ではないけどね。
特に取り乱すこともなく、ほんの少しだけ微笑ましい気持ちになりながら階段を上っていく。明日は彼女の照れた顔が見れるかもしれないね。そう思うと、今から少しだけ楽しみになっていた。
暗い丘を歩く。私が持つ戦斧は月光を反射し妖しく輝いていた。この綺麗な月光すら、邪な存在の魔力で星を侵し続けていると思うと残酷な話ね。今宵は満月。特に月の力が強くなる日だった。
私の思った通り、日に日に彼の復活は近付いている。私の一族に伝わる、恐ろしい悲劇そのもの。彼の影響を受けた存在を、古の者と言う。私たちは、それを狩ることが生業だった。
昔は邪な魔力の影響を受けるのは魔物ばかりだった。そう言った魔物は独自な変化を遂げ、高い知性を得ると同時に邪神を信仰し、復活のために暗躍した。信仰心は力の維持に、暗躍は徐々に形へ。そんな厄介な存在を狩り、邪神復活を阻止する………そんな使命は二百年前から終わらせねばならなかった。
徐々に魔物だけでなく、人間すらも影響を受けるようになっていた。人間の場合、姿などは変わらず………思考だけが侵されて行った。一番に影響を受けていたのが、私の一族。
その後は………あら、家が見えて来たわね。あの子はしっかり眠っているかしら。ゆっくりと扉を開く。
「!」
「えぇ、ただいま」
ロッカと呼ばれていたゴーレムが手を振る。それに小声で返し、ソファーに寝かされているシエルの顔を見る。穏やかな寝息を立てていて、まるで命に関わる怪我をしていたとは思えなかった。
巻かれている包帯の結びが変わっている所を見るに、しっかりと怪我の経過は確認したんでしょう。勿論何かあったら困るとはいえ、淡々と異性の身体を見る彼にはやはり『権能』の面影を感じる。適任を選んだのだと感じると同時に、それに少しだけつまらなさを感じてしまう。
『権能』の事を最もよく知ってるのは、後継者である彼を除けば私だと言う自負がある。彼らが俗世と関わりを断った後も、私は度々会いに行っていたから。
「………ふぅ」
ソファーに座る。私に睡眠は必要がない。眠れないという意味ではないのだけど。手すりに肘を乗せて、頬杖を付いて目を閉じる。こうして意識を微睡みに任せるのは、何年振りだったかしらね。
前回登場したラウンの名前をブレイクへ変更します。理由は語感が悪いと言うのと、似た名前のキャラがいたと気付いた事です。