77話
ただでさえ陽の光が届かない、夜闇に包まれた暗い森の中を駆ける。背後からは無数の足音が迫る。もうどれほど走ったのかも分からない。同じような景色が永遠と続き、どこへ逃げているのかも分からなかった。
奴らに捕まるわけにはいかない。自分が死んでしまえば、二度と取り返しのつかないことになってしまう。
でも………
「はぁ………っ!はぁ………っ!」
既に呼吸は荒く、息を吸っているつもりが上手く肺に空気が入らない。最早喘ぎとも言えるそれは、確実に私の限界が近いことを告げていた。戦い続けた肉体はボロボロで、走り続けた足は堅い鉄のブーツの中で血が滲んでいるのが分かる。動きやすさを重視した軽い鎧が今までにないほど重く感じた。
ひんやりとした夜の森であるはずなのに、真夏以上の熱さを感じる。背負っているマントが風を受けているだけで、異様なほどに強い風を受けているように感じた。全力で走り続けているのに、徐々に近くなってくる足音。
その時、左足に耐えがたい激痛が走る。
「あぐっ!?」
肉が裂ける音と共に私は地に倒れる。痛みに耐えながら自分の足を確認すると、太股に黒い棘が深々と突き刺さっていた。血が止めどなく溢れ、既に傷だらけだった私の身体から一気に力が抜けていく。
「ギャオオオオオオッ!!!」
「ガルルルッ!」
迫る鳴き声。以前までは理解できない言語を話すだけだったというのに、今は私たちが理解できるような鳴き声を発するようになっていた。いや、それだけじゃない。
「ヤット、捕マエタゾ」
「我々ノ野望ニ、貴様ハ邪魔ダ」
片言ながら、はっきりとした言語で話す獣のような二体の邪神の眷属。彼らにとって、唯一星命樹を奪還する可能性を持った私は、彼らにとって不穏因子であることは間違いない。
そのまま私にゆっくりと近付いてきて、前足で私を踏みつける。
「ぐぅっ………!」
「星命ノ子デアレバ、供物トシテハ使エルカ」
「な、何を言って………!」
「貴様ヲ我ラガ父ニ捧ゲル。コレデ、コノ星ハ我ラガ父ノ物ニナッタモ同然」
「そんなことが………あぁっ!?」
その瞬間、右足を噛まれる。そのまま私を引きずって行こうとする邪神の眷属。こんなところで終わるわけにはいかないと、右手に持った細剣に力を込める。しかし、もう一匹の邪神の眷属がそれを弾く。
「無駄ダ」
「いや………こんなところで………!」
抵抗も虚しく、足が引きちぎられるかと言う強さで引っ張られ、そのまま連れていく私の身体。土を掴もうと、ただ虚しく手の跡を付けるだけだった。
「あら、女の子に乱暴とは感心しないわね」
「っ!?」
その瞬間だった。森の木陰から誰かが飛び出して来る。それに反応する邪神の眷属だったが、それよりも早く飛び出してきた誰かは大きな武器を振るう。私を連れ去ろうとしていた二体の眷属が一気に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。彼らの黒い血が周囲に飛び散った。
解放された右足からも、私の血が流れていた。両足に深い傷を負い、立つことすら叶わない私は目の前の人物を見上げる。
「あ、あなたは………?」
「大丈夫じゃないわね。大人しくしていなさい」
私を見下ろす朱色の瞳。長い純白の髪と、平均よりは少し高めの身長に黒を基調とした服装。この付近ではあまり見ないデザインの帽子を被った美しい女性は、私の傷を見ながら呟く。
その右手には自身の背丈より大きな斧持って地面に突き立てていたが、それは普通の斧には見えず、何らかのカラクリが仕込まれているようだった。
私が声を返そうとした時、吹き飛ばされた二体の眷属が立ち上がる。
「貴様………!」
「大人しくおねんねしていた方が良いわよ?無事にパパの下に帰りたいならね」
女性はそういったが、構わず突撃してくる二体の眷属。それに対し寧ろ愉快そうな笑みを浮かべて斧を構える。そのまま一体目が飛びかかる態勢に入った瞬間、一瞬でその懐に入った。重い武器を持っているとは思えない程軽やかで素早い動きに反応する間もなく、振り上げられた斧に胴体を両断される。
二体目がその背後から飛びかかるが、振るった斧を遠心力のまま薙ぎ払い、眷属の開いた口から身体を上下に裂かれる。黒い血だまりを作りながら地に落ちる二体の眷属の死体。僅か一瞬の出来事に目を疑う。
「脆いわね。がっかりだわ」
そう言って、斧を地面に突き刺して私に歩み寄って来る女性。そのまま私の傍で座り、傷を見ていく。
「酷い傷ね………取り敢えず止血はするけど、この付近で知り合いの医者はいる?」
「い、いない、です………」
「そう………仕方ないわね。本来人と関わることのない星命の子だもの。なら、私の知り合いの所へ連れて行こうと思うんだけど、異論はないわね?」
「で、でも!私はフォレニアに行かなきゃ………!」
「あら、フォレニアを目指していたのね。なら、随分と遠くまで来たというか………ここからフォレニアまでは、人の足じゃどう頑張っても四日掛かるわよ」
「えっ………」
衝撃の事実に言葉を失う。この森に入って既に三日。その間、襲い掛かってきた魔物や邪神の眷属と戦い、逃げながら小さな洞窟や樹上で限界の仮眠を取りながら進んでいたというのに、寧ろ離れていたという事が信じられなかった。
フォレニアまで人の足で四日は掛かる。つまり、王都ヴァーミリアまでは更に長い時間が掛かるという事だ。
そして、私の重傷を負った身体と両足では辿り着けるかすら分からない。葛藤が駆け巡る中、女性が私の傷に触れる。どこから取り出したのか、白い包帯を持っていた。
「いっ………!」
「痛いわよね。でも我慢して。このまま血を流し続けたら、治療をするまでもなく死んでしまうわ」
「は、はい………っ!」
私は必死で声を抑えながら、女性が包帯を巻いていくのを見ていた。何らかの薬品が塗られているのか、包帯は少しだけ湿っていた。
「これはね、傷口の化膿と出血を抑える効能があるの。まだ使命が残っているのに、手足を切除することになんてなりたくないでしょう?」
「………あなたは………?」
「私?そうねぇ………イビルハンターと言えば分かるかしら?」
「イ、イビルハンター!?」
驚いて大きな声を上げた瞬間、それが全身の傷に響く。痛みに顔を顰めると、女性は口元に指を当てて静かにするように促した。
「大きな声を出しては駄目よ。ここは彼らの場所だもの。夜は静寂でなければならないわ」
「す、すみません………でも、イビルハンターは二百年前に………」
「絶滅した、かしら?でも、生憎と私はまだ生きているわ」
にこりと微笑むと、そのまま立ち上がる女性。取り敢えず、身体の見える場所には包帯が巻かれていた。早くも多くの血が滲んでいたが、心なしか少しだけ痛みが引いた気がする。気がするだけだが。
「さっきも言ったけど、フォレニアまではここから四日は掛かるわ。どこを目指しているかは分かっているつもりだけど、その傷じゃとても治療なしでは耐えられる旅路ではないわね。近くに住んでる医者を一人知っているから、一緒に行くわよ」
「すみません………」
「気にしないで?星命の子が目の前で死んだなんて、とても縁起が悪いじゃない」
女性は地面に突き刺さっている斧を片手で引き抜き、そのまま空いている手で私を支える。その腕は柔らかく、まるで筋肉など付いていないかのように華奢であるにも関わらず巨大な斧と私を支えてなお一切苦にした様子がない。
「その、お名前は………」
「マリンと呼んで。あなたは?」
「シエルです………助けていただきありがとうございます」
「えぇ、どういたしまして」
それが、私とマリンさんの出会いだった。
ソファーに座って、僕は本を読んでいた。魔術学院での授業も終わり、家に帰った僕はここ最近では珍しくなくなったように、今回はソルガルドの事について調べていた。でも、彼女の存在こそ示唆されているものの詳しい情報は載っていない。
彼女が太陽神であり、フラマガルドの娘であること。邪神戦争で戦死したことのみが記されており、彼女が肉体を再構築され、転生させた少女の魂を使って祭壇の中枢として利用したなどとはどこにも書かれていなかった。
封じられた歴史。つまりはそういう事なのだろう。神々にとってこの星を守るための最善策であったのだろうとは思う。けど、何の罪もない一人の少女を転生させて永遠とも思える孤独と苦しみを与えるのは正しかったのかと思ってしまう。
そんな事を考えていたら、ステラが僕の顔を覗き込む。フラウは既に自分の部屋に戻っている。それもそのはずで、本来なら皆自室で眠っている時間だからだ。
僕は少し夜更かしをして調べものをしようと思ったんだけど、何故かステラが一緒にいた。別に迷惑じゃないし構わないのだけど、寝なくて大丈夫なのかな。
「………眠くないかい?」
「大丈夫よ。それより、難しい顔をしていたけど………」
「まぁね。やっぱり、今回の件は自分の足で調査する事も重要みたいだ」
「………無理はしないでね?」
「勿論だよ」
ホットミルクを飲みながら、僕の顔を見ているステラ。二人きりと言えば最早当たり前になったかのように、僕の背中には翼があった。そのまま僕が本を読み進めていた時だった。
不意に玄関の扉がノックされる。
「………え?」
「誰………?」
こんな時間に。時計を見れば、既に日が回った頃だ。まともな客だとは思えない。ロッカも訝しげに扉を見ていた。しかし、もう一度扉がノックされる。今度は少し強く。
どうしようかと迷っていた時だった。扉の奥から声が聞こえた。
「ねぇ、起きているわよね?窓から光が漏れているわよ。急患がいるからすぐに開けなさい」
「え、その声は………」
僕がそういうと、ロッカとステラが僕を見る。僕は扉に近付き、鍵を開ける。そのまま扉を開くと、その先には知っている………けど、初対面の女性がいた。
相手も少しだけ驚いた顔をするけど、それは一瞬だった。
「やっぱり、もう代替わりしていたのね。噂は聞いていたけど………まぁいいわ。あなた、ハウラの記憶も受け継いでいるんでしょう?早くこの子を治療して頂戴」
「………ふむ」
彼女が支えている少女を見る。僕と変わらない程度の年齢に見え、意識はあるようだけど既に言葉が話せないほどに衰弱している。そして、その背に羽織ったマントの紋章から彼女が何者であるかも理解した。応急処置がされているからか、今日中の命と言うほどではないけど………間違いなく致命傷を負っているのは理解できた。
「分かった。シーツを敷くから、あそこのソファーにお願いできるかな」
「私が用意するね」
「うん。頼むよ」
ステラが立ち上がり、布類を入れている棚に歩いていく。そのまま一枚のシーツを取り出し、それをソファーに掛けると、女性が少女をそこに寝かせる。荒い息と赤くなった顔。
以前にも見覚えがあるけど、傷が原因で熱を出しているようだ。包帯があるから見えないけど、どこかしらが炎症を起こしているか化膿しているかな。
「包帯を取るよ」
「………」
少女が小さく頷く。包帯を解くと、それには薬品が塗られていることに気付く。とは言え、これほどの傷じゃ誤魔化しにしかならないだろうけど。
少女の傷は以前のフラウ以上に酷い状態で、特に足に刻まれたものはステラが思わず目を背ける程のものだった。縫うだけじゃしんどいかもなぁ………
「………ここまで来たってことは、切除は無しなんだよね」
「………」
少女は再び頷く。正直に言ってしまうと、ここまでの傷となるといっその事切ってしまった方が良い。とは言え、両足を失えば彼女は今後の使命を全うするどころか人としての生活を満足に遅れなくなる。
全く、こんな時間に大仕事が来るとは思わなかったよ。
「僕が眠っていたらどうするつもりだったんだい?」
「扉を蹴破るに決まっているでしょう?」
「………はぁ。聞いた僕が間違いだったよ。準備をするから少し待っていて。ステラは部屋に戻っておくと良い。ちょっとショッキングだからね」
「う、うん………それじゃあ、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
ステラはそう言って階段を上っていく。その後ろ姿を見つめていた女性が小さく呟く。
「まさか有翼族と同居しているなんてね。それに、気配を感じるところ魔族まで一緒にいるのね」
「まぁね。でも二人共凄く良い子だから、君の狩りの対象にはならないよ」
「分かっているわよ。それより早くして頂戴」
君から始めた会話だけどね。そんな言葉を呑み込んで、僕は自分の工房に向かう。必要な薬品、医療道具などを消毒済みのバットに入れてリビングに戻る。
そのまま薬品を注射器にセットしながら話し始める。
「そうだね………まずは、君が目覚めるのは明日の昼頃になることを覚えておいて。流石に意識が覚醒した状態でこの傷を治療するのは拷問に等しいからね。それと、傷の進度によっては切除しない保証は出来ない。出来るだけ頑張るけど、もしそうなってしまったら僕を恨んでくれて構わない。けど、最善を尽くした結果だってことは覚えておいてほしい。理解できたかな?」
「………」
小さく頷いたのを見て、僕も頷き返す。
「それじゃあ、始めるよ」
誤字報告ありがとうございました。それと同時に対応が遅れ申し訳ありませんでした。今後は出来るだけ誤字は自分で見つけたいと思っていますが、もし見逃しがあれば指摘いただけると本当に助かります。
今後ともよろしくお願いいたします。




