131話
彼は眠っていた。未だに幼きその身に流れ込む血を受け、少しずつ意識が作り出されていく。それと同時に存在したのは、憎悪、憤怒、殺意、悪意。行き場のない感情を持った幼き者は赤き瞳を開く。
既に枯れ果てた胎内に満たされる赤い液体。体に繋がれた幾本もの管から流れ込む母の血。自分が何者かは分からなかった。そんな中でも、はっきりと理解していること。
「………」
滅ぼさなければ。この星に住まう者を全て。奪わなければならない。この星そのものを。やがて途絶える母の血。それと同時に管は彼の体から千切れ、彼はもがき始める。
彼は枯れた胎内の壁を殴る。たった一度の殴打によって大地は鳴動する。壁に罅が走る。もう一度殴る。いや、一度と言わずに何度でも邪魔なそれを殴り続けた。
殴るたびに、彼の中に怒りが高まっていく。彼の赤き瞳が鋭い閃光を放つ。轟音、爆風、浮遊感が同時に襲い掛かる。自らを囚えていた監獄は木っ端微塵に吹き飛び、彼は宙へと投げ出された。
しかし、彼はそのまま地に落ちることは無い。その背に生えた一対の大きな白き翼を広げる。そして、彼は見据える。自らの邪魔をせんと歯向かう愚者の姿を。
「………クヒッ」
彼は凶暴な笑みを浮かべる。面白い事など一つもないのに、ただそうするべきだと本能が訴えていた。
突如として赤い閃光が放たれるとともに、大樹は砕け散った。それは比喩などではなく、見上げる程雄大な大樹は完全に消え去ったんだ。そして、空に浮かぶ一人の少年。肌も髪も、その背に生えた大きな翼までもが純白だった。
しかし、その白き姿とは真逆の禍々しい雰囲気を纏っていた。鋭い牙、鋭い目つき、赤く輝く瞳、頭部に生えた角。彼は僕達を見て哂う。
「これは………」
空が赤く染まっていく。強風が吹き始め、砂漠の砂が舞い上がる。世紀末と呼べる光景だった。あまりの景色、あまりの禍々しさに誰もが足を止め、幼き神を見上げるしかなかった。
「シオンさん………」
「あぁ………こうしていざ目の前にすると、想像以上だったよ」
セレスティアが呆然と僕の名を呼ぶ。しかし、僕も動揺しているのは同じだった。パハッドの言葉と彼の外見から、未だに成熟していないのは分かっていた。しかし、今まで出会ったどんな存在よりも強大であるとはっきりと理解できた。そんな僕達に邪神は身体を抱きしめるように身を縮める。大きな翼を閉じて体を隠す。
それを見た時、ここにいる全員の生存本能が警鐘を鳴らした。防げるとは思わなかった。ロッカはフラウを抱え、僕たちはすぐにその場から跳ぶ。
瞬間、白き翼が大きく広がるとともに赤い閃光が瞬き、僕たちのいた場所で巨大な爆発が起こる。襲い来るであろう瓦礫や爆風を防ぐために障壁を展開した。しかし、僕の予想に反して爆風や瓦礫に飛散などは起こらず、爆発が消える。しかし、直後に起こったのは爆心地に引き込むような暴風だった。
訳が分からないように思えるけど、『空の目』を見ればそうでない事がすぐに分かった。
「まさか、ここまでとはね………!」
爆発内の建物や大地は刳り貫かれたように消滅している。そこに存在したという痕跡すらなく、一切の要素すらも消え去っていた。それこそ、そこに存在した大気や空間までもが。いつか見た全ての要素を燃やし尽くすというベルダの炎があったけど、それどころの話ではない。
これだけで、邪神の持つ圧倒的な力を正確に認識せざるを得ない。暴風が収まり、邪神は笑みを浮かべたまま僕達を見ている。完全に見下していた。
「クヒヒ………!」
ただ、いつまでも驚いている場合ではない。彼を倒さなければ、この星の未来はないんだ。僕は右手に黄金の光を纏わせ、それを見た全員がそれぞれ武器を構える。とは言え、相手は空中にいる。攻撃手段は限られていた。
僕たちが戦闘態勢を取ったのを理解したのだろう。彼は不気味な笑みを深くし、両腕大きく開き赤いオーラを纏わせると同時にその背後に巨大な魔法陣が形成される。それを見た僕たちはそれぞれ別の方向へと走り出す。そして、魔法陣が輝きを増した瞬間に赤い光線が無差別に放たれた。
無論、先ほどの攻撃を考えれば当たった時にどうなるかなど想像に難くない。こちらからは攻撃しづらいけど、あちらの攻撃は当たればほぼ命はない物だと思った方が良いだろう。
「顕現せよ!メイアの権能!」
走りながら黄金の光を纏わせた右腕を振るい、大地から飛び出した光を纏った杭が次々と邪神に切っ先を向けて放たれる。
「………」
それを横目で一瞥した邪神は右手を杭の方へと向ける。その右手から一瞬だけ赤い光が放たれた時、向かっていた杭は全てが激しい音を立てて折れ、纏っていた光を失って地へと墜ちる。ロッカはフラウを抱えたまま左腕を変形させてリミッターを解除して石を放ち、フラウは魔法を放つけど、邪神はそれを守る素振りすらも見せない。
「烈火!我が道を切り開け!」
僕の反対側にいるセレスティアの剣から放たれた業火の斬撃。しかし、邪神はそれを左の翼で払うだけでかき消し、両手を胸の前で合わせてその間に赤い光を収束させていく。
「そんな………いとも容易く………」
「セレスティア様!呆けていてはいけません!」
そして赤き輝きが強くなった瞬間、その光を空へと放つ。その光は空の遥か高くで滞空し、その次の瞬間だった。光が爆発するように弾け、無数の赤い流星が地上へと降り注ぐ。
「シアトラの権能………!」
降り注ぐ流星を全て躱すのは難しかった。もし当たった時の危険性を考えれば、出来る手段で少しでも数を減らさなければいけない。立ち止まった僕は右手に白い光を纏わせ、それを空へと向けて開いた右手を閉じる。降り注ぐ流星の間に、激しい衝撃波と共に巻き起こった白い爆発が赤い流星を呑み込んだ。
『権能』の力ならば、何とか対抗出来ない訳ではないと言うのは分かっていた。しかし、相手は正真正銘の神であり、生まれながらにしての『真理』だ。ホムンクルスとは言え、人間の範疇にいる僕と彼の間には絶対的な差が存在する。
「顕現せよ!メイアの権能!」
大地に手を付くと、僕を中心にして巨大な罅が大地へと走る。そんな僕へと右手を向けた邪神。赤い光が収束し、それを見たロッカがこちらに駆け出そうとした。
「砕けろ!」
僕がそう叫んだ瞬間、周囲の大地が大きく砕け、砕けた地盤が宙へと浮かぶ。それと同時に邪神から放たれた赤い光弾が、先ほど僕がいた場所に直撃して爆発を起こす。そうして更に砕けた地盤も浮遊させ、空中には狭いとはいえ幾つもの足場が形成されていた。
空を飛ぶ相手に対し、地上から攻撃するのが不利なのは自明の理だ。しかし、こうすればそれは対等な条件となる。僕は浮遊している大地を操ることができるから、自由に動けないと言うことは無いはずだ。しかし………
「………クハハハッ!」
馬鹿にした様な笑み。対等だと言うことはつまり、相手の攻撃もこちらに届きやすいと言う事だった。一撃でも当たれば死が確定する僕と、セレスティアの炎すらも片翼でかき消す邪神。そんな相手が対等な土俵で戦う事が如何に無謀かなんて誰よりも分かっていた。
それでも、勝つためにはこれしかない。僕が右手を構えて赤い光を纏わせた瞬間、笑みを浮かべていた邪神から唐突に表情が消えて僕の目を見た。
「死ネ」
「っ………!」
その言葉と共に邪神の瞳が輝く。それを見た僕は足場を蹴って別の足場へと跳び移り、そこで右腕を振るって巨大な火球を四つ作り出して放つ。それぞれ違う軌道で弧を描くように飛来する火球を見た邪神は、翼を広げて大きく羽ばたく。
一気に上空へと飛行した邪神を追って火球も軌道を変え、上空へと向かっていく。邪神は上空から火球へと両手を向けて光を収束させる。
「顕現せよ!リードの権能!!」
光が放たれるよりも早く、雲が渦巻いて巨大な竜巻を形成して邪神へと襲い掛かる。竜巻が邪神を呑み込み、激突した火球の炎は竜巻に巻き込まれて巨大な炎の竜巻へと変貌する。全力で権能の力を使った二つの魔法。しかし、竜巻の中心から赤い光が放たれた瞬間だった。
炎の竜巻は一気に消し飛び、赤い光を纏った邪神が大きな翼を広げる。
「アアアアアアアア!!!!」
続く絶叫と共に周囲に放たれた激しい衝撃波。それによって周辺の足場は破壊されていき、僕は載っている足場を操作して邪神から距離を取ろうとしたその時、空から赤い光柱が降ってきて足場を掠める。それは一つではなく、次々と降り注いでは僕を撃ち落とそうと雨のように降り注ぎ、僕はそれを空の魔法で打ち消していく。
「波紋。荒波よ、穿って」
「星の息吹よ、貫け!」
「日輪!万象を焼き穿て!」
地上にいる彼女達も可能な限りの魔法で邪神へと攻撃を仕掛けるがあしらうように躱され、例え当たっても大して気にしていないような様子で僕の後を追ってくる。周囲に赤い小さな光が作り出されたと思えば、それを追尾弾として僕に放つ。
「君に名を与えよう!イグニス!」
僕は命を与えた真理の炎剣を作り出し、向かってくる追尾弾を切り落としていく。未熟ならばあるいはと思ったけど、やはりそんなに甘くはない。かつての義神とは比べ物にならず、あれとは違って死した存在ではないから僕の生命の力も特効になり得ない。
唯一、神と同じ力である『権能』としての魔法が有効打になるだろうけど、それでもさっきの有様なのだ。
「いい加減にしてほしいね………!ハウラの権能っ!!」
追尾弾を全て弾き、剣を消した僕はすぐに両手を重ねて水を圧縮して鋭い水流を放つが、邪神は赤いオーラを纏った左手で容易く受け止める。しかし、それを見た僕は左手に赤い光を纏わせた。今までは手の内を隠すという意味でも使ってこなかった奥の手だけど、ここで出し惜しみをしている場合じゃないだろう。
「ロアの権能!」
圧縮した水を放ちながら、周囲に展開した巨大な火球から熱線が放たれる。彼が受け止めていた水流は一気に熱されて気化し、激しい爆発を起こした。
流石に零距離での爆発を受けた邪神は吹き飛び、そのまま一つの建築物の壁へと叩きつけられる。それを見て飛び出したのはロッカとエコーだった。自身の攻撃が届く距離まで墜ちた邪神に目掛けて迷わず大地を蹴って飛び出し、自らの得物を構える。
「!!!!」
「迅雷………!」
「………」
しかし、それを見た邪神は面倒くさそうな表情を浮かべると同時に、ロッカの振るった拳を片手で受け止め、エコーの目にも止まらぬ速度での踏み込みを容易く翼で地面に叩き伏せたのだ。
「がっ………!」
「!?」
それこそ、ロッカ比べればあまりに小さく細い腕で何倍も大きな鋼鉄の拳を難なく受け止め、僕ですら捉えられなかった加速を行ったエコーを一瞥もせずに叩きつけると言う信じられない光景に息を呑む。しかし、次の瞬間に彼が受け止めている掌から赤い衝撃波が放たれ、空気の壁を突き破る速度でロッカは地面と水平に吹き飛んでいく。
勢いは途中で止まることを知らず、街道を抜けて建築物を幾つも破壊し、そのまま外壁を貫通して姿が完全に見えなくなる。僕たちはそんな冗談のような光景に言葉を失っていた。
体格差は圧倒的だった。ケラヴはロッカとほぼ同等の体格を誇っていたから互角に戦うのもまだ受け入れられたけど、一回り………いや、それ以上に小さな相手に容易く吹き飛ばされるのは相手が神だと分かっていても信じがたい光景だった。
「クヒッ………全テハ、無意味ダ」
そんな唖然とした僕達を見て可笑しそうに哂う。あまりの格の違いを見せつけられ、既にどうすれば勝てるか、というビジョンが一切浮かぶことが無かった。
諦めた訳じゃない。それでも勝ち筋を見つけれるかどうかは話が別だ。ロッカですら自分の土俵である地上付近での力比べに圧倒され、普通の魔法はダメージが無く、『権能』の魔法でも致命傷に至らない。次に取るべき行動は?彼を倒すための手札は?
必死に頭を回すけど、彼は再び翼を広げて空へと飛翔する。そのまま右手を天へと翳すと、赤い球体が生成され、それは徐々に巨大になっていく。空の目に映るあまりに巨大すぎる力に、これがこの街や周辺一帯の砂漠すらも消滅させ得るものだと言うのがすぐに理解できた。
「滅ビロ」
「………っ」
油断していたわけじゃない。全力は尽くしていた。一切諦めてなんかいなかった。しかし、こうも容易く僕たちは踏みつぶされる存在なのかと。彼は更に巨大化したその赤き光玉を地上へと
「————————フィナー・フィーニス!」
振り下ろそうとした直前、そんな叫び声と共に飛び出した影。逞しい巨体に赤いオーラを纏わせ、上空にいた邪神の翼を拳が捉える。
「グッ!?」
光玉は雲散し、邪神は地面へと叩きつけられる。そのまま僕たちの前へと立ったのは見覚えのある姿だった。しかし、同時にそれは有り得ない事でもあった。
「………何故、君が」
「私は戦士である。ならば、人として死ぬことが私の最期に相応しい」
「………ケ、ラヴ………?」
エコーがゆっくりと身体を起こしながら彼の名を呼ぶ。ケラヴはそれを見て小さく笑みを浮かべながらエコーに手を伸ばした。
「私に勝利した力はその程度か?更に滾れ。私と戦った時のように」
「………言われずとも」
エコーは彼の手を振り払って立ち上がると、再び太刀を構え直す。
「私は主様に仕える者です!言われずとも分かっています!」
「その意気だ。『権能』よ、前線は私とこの娘に任せるがいい。貴様は魔法使いとして、攻撃に集中しろ」
「………君を信じれる保証は?」
「この傷に誓おう」
彼の体に刻まれた深い傷からは未だに黒い血が流れていた。それが誰が刻んだ物かははっきりしていたけど。
そう言った彼の目に迷いや偽りは無く、この戦いで自分は死ぬのだという覚悟を秘めていた。
「………分かった。頼んだよ」
「任せるがいい。しかし、私もそう長くはない。大君は未だに不完全とは言え、私を遥かに上回るだろう………覚悟は良いな」
「あぁ………この戦いに臨んだ時から、覚悟なんてできてるさ!」
右手に黄金の光を、左手に赤い光を纏わせて構える。それを見たケラヴは無言で頷くと、地に落ちて立ち上がった邪神を見据えた。
「大君。この星は既に神々の物ではなくなった。そして、それは貴方と言えども例外ではない………故に、私は人として………貴方の前に立とう」
「………愚カナ」
その言葉と共に、街の様々な場所で不気味な咆哮が響く。その叫び声は、今まで幾度となく聞いたものだった。
「………眷属が来る」
「やれやれ………本当に厄介な相手ですね」
「………しかし、私達の役目が出来ました」
セレスティアの言葉に、アズレイン達が頷く。そして、代表してセレスティアが僕に話し始めた。
「シオンさん、私達は眷属を………悔しいですが、私達では彼に対抗する手段がありません」
「………すまないね。頼めるかい?」
「勿論です。ですからどうか、シオンさんもご無事で………そして、邪神を打ち破ってください」
「あぁ、勿論だよ」
僕の言葉に頷くと、セレスティア達は一斉に走り出す。それを見送ると、僕たちは邪神へと向かい合う。
圧倒的な戦力差が埋まったとは思わない。けれど、先ほどから飛ぶ様子が無いと言うことは翼に受けた一撃が効いているのだろう。ならば、再び空に逃げる前に決着をつける。
「必ず勝つよ」
「はい、主様」
「無論だ」




