114話
時は少し遡る。シオン達が遺跡に向かった後の事だ。ソアレにある奴隷店で、一人の男が苛立ちを込めて店主を睨んでいた。その男は豪華な装いをしており、金髪で整った顔立ちをしているが、右頬に爪で引き裂かれたかのような傷跡が残っている。
「借りられた、だと?」
「はい」
金髪の男の背後には護衛と思われる武装をした二人の男が立っているのだが、イーサンは臆することなく答える。その態度が癪に障ったのだろう。その男は彼を掴みかからんばかりの勢いでカウンターに身を乗り出す。
「ふざけるなっ!あれは私が購入予定を出していたはずだ!」
「えぇ。しかし………期間まで他のお客様に貸し出してはいけない、という契約はございませんでした」
「貴様………私を舐めているのか?」
「まさかそのようなことは。私は一人の商人でございます。であれば、契約に則った商売をするのみ………フォルン公爵様に楯突く気など一切ございません」
相手が貴族であるにも関わらず、憤慨しているのを理解しながらも冷静にそう述べるイーサン。無論、立場と言う意味であれば相手の方が上であることに間違いはない。だがこの街では違う。三大商会程ではないとはいえ、イーサンも名の知れた商会に属する商人であり、商人が大きな権力を持つこの街では相応の力を持つ。相手がロアイア王国の公爵であろうと、この場でイーサンに手を出すのであれば間違いなく罪に問われるだろう。
それを理解している貴族の男は忌々し気にイーサンを睨みながらも身を引く。
「ふん………だが、契約には期間中に彼女が正式に購入されなければ、とあったな。未だに私との契約は有効だな?」
「左様でございます。しかし、彼女を貸し出している間は期間中に返還を願うことは出来ません」
「ちっ………相手は誰だ?どれくらいの期間借りると言っていた?」
「長くないとは仰っておられましたが、詳しい期間までは。また、誰が借りたと言うのは契約上の規則によりお答えする事が出来ません」
奴隷を貸し出す、という都合上どうしてもトラブルなどは起こりやすくなってしまう。イーサンは基本的には堅実な商売を心掛けているため、そういったトラブルとなる要因は最初から断っているのだ。無論、そうなれば自分がこのように詰め寄られることもあるのだが、それだけであれば商売には何の支障もない。
「これで彼女の純潔が奪われていたらどうする?貴様は責任を取れるのか?」
「今は所有権を貸し出している以上、私に責任はございませんので………」
「いい加減にしろ!貴様がここの責任者だろう!私との契約がありながら彼女を貸し出した貴様が何を言っている!?」
「何度も申し上げますが、貸し出してはいけないという契約はありませんでしたので。エコーを購入するのであれば、現在借りているお客様が彼女を返した後になります」
まぁ、もし彼がエコーを借りている客とぶつかったところで、破滅するのは目の前の男だろうと言う確信があったが。『権能』の名を知らない者はいない。そう言ってもおかしくない程の伝説の存在なのだ。
それこそ国を治めている程度の人間では、『権能』よりも立場が下だろうと断言できるほどに偉大な存在とされている。イーサンも商人であり、『権能』の噂は集めている。フォレニア王国では、次期国王を決める戦争の立役者となり、次期国王に決まった王女と個人的な交友すらあるという。
そのような人間に、弱小国ではないとはいえフォレニア王国よりも明らかに国力が劣っているロアイア王国の貴族が手を出すなど、そもそも不可能であろうと。
「ちっ………」
貴族はここで何を言っても無駄だと判断したのだろう。二人の護衛を連れて店を出て行く。それを見たイーサンは、やれやれとでも言いたげにため息を付くのだった。
「主様、おはようございます」
「あぁ、おはよう。昨日もそうだけど、君は随分と早起きだね」
体を伸ばしながらエコーに返す。久しぶりの野宿だったけど、案外熟睡できたから一安心だ。ただ、エコーは昨日に続きかなり早起きしていたけど。手帳を持っているから、恐らく内容を読み返したりしていたんだろう。
夜の見張りをしていたロッカに片手を上げて挨拶をした後、焚火に火を灯す。
「早起きは慣れていますから」
「なるほどね。カーバンクルは?」
「あの子なら………」
そう言って彼女が見たのは自分のテントだった。なるほど、と一言返して僕は朝食を作るための道具を出していく。ヘルハウンド達は昨日と変わらず湖の傍で寄り添って眠っていた。穏やかな朝に、少しだけ笑みが浮かぶ。まぁ、普通なら魔物がすぐ近くにいる中で夜を明かすなんて恐怖以外の何物でもないのだろうけどね。
「フォルルル!」
その時、空から聞き覚えのある鳴き声が響く。交代の時間かな。その鳴き声を聞いたヘルハウンド達も目を覚まし、上空を見る。
僕も同じように空を見上げながら、左手を掲げる。すると、その腕に留まったのは昨日と同じシルバーホークだった。
「おはよう。交代の時間かい?」
「フォルル」
「はは、なるほどね。じゃあ、よろしく頼むよ」
そう言って昨日と同じように生肉を取り出して与える。それを咥えたシルバーホークは腕から飛び立ち、定位置になりつつある木の上でそれを食べ始める。その後、僕はヘルハウンド達の方へ向かう。今更攻撃される心配なんてないだろうし、向こうも特に警戒する様子もなく僕を見ていた。
「君達もお疲れ様。何も食べてないだろう?」
「グルルル」
ヘルハウンド達の前に生肉を置くと、躊躇なくそれを食べ始める。やはりお腹が減っていたみたいだ。かなりの勢いで肉を平らげたヘルハウンド達は、シルバーホークに挨拶をするように一度咆えた後、森の中に帰っていく。
さて、そろそろ僕も朝食を作り始めないとね。
朝食を食べ終わった僕たちは、昨日とは別の方の調査に向かっていた。こっちは全く行ったことが無かった方角だし、もしかしたらまた新たな発見があるかもしれない。またあのリザードマン達のような魔物にあるのは勘弁だけどね。
結局、昨日は死体も残さず消滅させてしまったし。時間を掛けるとリスクが大きかったとはいえ、少し短絡的だったかもしれない。死体さえ残っていれば、もう少しあれがどんな存在だったのか知れたんだけどね。
「主様は、動物や魔物の言葉が分かるんですか?」
「いや?分からないよ」
実際には聞いてみたいと思うけどね。ただ、ある程度の感情などは見えるから、そこから何を言いたいかは察する事が出来る。そういう意味では、意思疎通は可能、と言うべきだね。
「でも、彼らの扱いに慣れていたように見えました」
「まぁ………僕は『権能』だからね。多少の知性がある魔物なら、コミュニケーションだって出来るさ」
「………『権能』は偉大な魔法使いで、魔物使いだと言う話は聞いた事が無いんですけど」
「まぁね。でも、それを言うなら君だって随分とその子の扱いに慣れているじゃないか」
彼女が抱えているカーバンクルを見ながら言うと、視線を向けられたカーバンクルは「構ってくれるの?」というように僕と目を合わせ、彼女の腕を抜け出して僕に飛びついてくる。
「はは。突然飛び出したら危ないじゃないか」
「クルルルゥ!」
カーバンクルを受け止め、軽く注意しても本人は楽しそうに鳴き声を上げるだけだった。そんな様子に苦笑しながら昨日と同じ果実を取り出して彼に見せるや否や、大きく口を開けて貰う体勢に入る。その口に果実を放り込み、美味しそうに目を細めて鳴くカーバンクルに笑みを浮かべる。
「完全に愛玩動物だね」
「そうですね………」
そんな様子を見ていたエコーも笑みを浮かべている。そういえば、今の彼女を見てふと思うことがあった。
「君、随分と口調が柔らかくなったね」
「え………あ、そうだったかもしれません。申し訳ありません」
「いや、咎めてるわけじゃないんだ。寧ろ、僕としてはそのままでいてくれた方が良いかな」
「はい、分かっていますよ。でも、突然どうされたんですか?」
彼女が首を傾げて尋ねてくる。それより質の悪い冗談はやめてほしいと言いたかったけど、突拍子がなかったことも理解しているから、まずは質問に答えることにした。
「最初はかなりお堅い印象だったからね。今はそれと比べたら、随分と話しやすいと思っただけだよ」
「最初は………………緊張していたので」
かなりの間が空いた後、返って来たのは取ってつけたような理由だった。少し伏せられた視線が、恐らくそんな理由ではないのだろうと言うことを示していた。実際、あの時の彼女に緊張している様子が無かった訳ではない。でも、それ以上に僕が感じたのは自分を抑えようとする強迫観念にも似た自制心だった気がする。
「ふむ………まぁ、今は少しでも楽しめているのなら、それでいいんだけどね」
「はい。主様のおかげで、今は毎日が新鮮で楽しいです」
そう言った彼女の言葉には、今度は嘘を感じられなかった。恐らくこれは本音なのだろう。まぁ、流石に僕ですら少し楽しんでいる状況を、初めて外の世界を見たであろうエコーに一切の感動を与えられていなかったとしたら少し悲しかったけど。
取り敢えずはそんなことは無いみたいだから一安心だ。さて、喋ってばっかりもいられないし、調査に集中しようか。
「………本当に………今が楽しいです」
それから、僕たちは森を進んでいたけど、特にこれと言った発見はないままに昼も過ぎていた。昼食は簡単に作って食べたけど、それから歩きっぱなしなのだからここは想像以上に広いね。一旦こっちは諦めて、明日はまた違う方角へ向かった方が良いと判断し、今は拠点に戻っている所だった。それでも何もなければ拠点を移すか、または………
「ただ、君がいるからね………」
「クル?」
エコーに抱きかかえられているカーバンクルが首を傾げる。その姿は愛らしいけど、だからこそ再び危険な場所に連れて行こうとは思えなかった。お目付け役もいるしね。
ただ、彼を突き放すのも心が痛い。僕一人が傷つくならいいんだけど、カーバンクルやエコー、ロッカだって悲しんでしまうだろう。となれば、やっぱり気が済むまで一緒にいてあげた方が良いとは思うんだけど、この様子じゃいつ別れるか分からないね。僕も可愛いと思っているから、懐いてくれているのは嬉しいんだけど。
それと、午前の話題の後からエコーが少しだけ静かになっていた。何か考え事をしているようだから黙っていたけど、何か気に障ることを言ってしまったかな。
「………主様は」
「ん?」
「主様は………その………」
顔を伏せて黙り込むエコー。その様子にロッカとカーバンクルもエコーを見る。エコーは腕の中で自分を見上げるカーバンクルを少し撫でると、再び顔を上げた。
「主様は………何故そうも隔たり無く優しく出来るのですか?」
「………何故?」
「はい。この子やシルバーホーク、一度は襲ってきたヘルハウンドどころか、奴隷である私にすら当然のように優しくするのは………」
難しい質問をするね。僕はこの調査で奴隷としてではなく助手として扱うと言ったのだけど、彼女が求めている答えはそういう事じゃないんだろう。誰かに優しくする理由、か………
「ふむ………………ないかな」
「………え?」
「ないよ。だって、理由を考えて誰かと接するなんて面倒じゃないか」
特に考えても出てこなかった僕の答えはこれだった。それを聞いて、再び顔を伏せてしまうエコー。
「で、でも!私は奴隷で………」
「ふむ」
「わっ!?」
顔を伏せているエコーの頭が撫でやすそうな位置にあったから、取り敢えず興味本位で撫でてみる。突然の事に驚いたのか、慌てて顔を上げながら素っ頓狂な声を上げる。
「あ、主様!?いったいなにを………!」
「いや、丁度いい所に撫でやすそうな位置にいたからね。ついつい」
「つ、ついついって………」
困ってそうな表情が面白くて、思わず吹き出す。それを真面目に答えていないと受け取ったのか、エコーは抗議の声を上げる。
「私は真面目に………」
「はは、僕はふざけてないよ。人付き合いに、そんなに深い理由はいらないと思うんだ。楽しいから、一緒に居たいから。それだけで十分な理由にならないかな」
「………楽しい、から?」
「あぁ。だから頭を撫でたのも深い理由はないかな」
「それとこれとは話が別です!?」
誤魔化せなかったか。まぁ、それは一旦置いておくとして。改めて考えても、やっぱり理由何て思いつかない。僕の目線では、少なくとも間違ったことをしているとは思っていないし、特別なことをしているつもりもない。
ただ、個人的な価値観に基づいて相手への対応を変えているだけだ。その中に、僕は奴隷と言う相手を道具だと見る判断はない。それだけの話だった。
「まぁ………本当に答えられることは無いんだよ。この解を得るには………そうだね。もう少し頭を撫でさせてくれれば—————————」
「嫌です!」
「はは、冗談だよ」
取り敢えず、仕返しは十分かな。