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いままでのこと

作者:

忘れたくないことです。

忘れないように


今は2019/1/25。

わたしは20歳を1月13日に迎え、成人しました。


まず私の産まれたとき。

私は日本で産まれ、父方の祖父母の家で4歳頃まで育った。

そのときの記憶はないけど母にご飯を食べさせてもらって笑顔があって、そんな生活。


その後それまでいた祖父母の家から賃貸に引っ越し、そこで小学3年頃まで過ごした。


賃貸に引っ越した私たち家族は初めこそ庭にビニールプールを出して水を張って姉と私でぱちゃぱちゃしてるのを父がビデオカメラにおさめて、私がプールの水を飲みみんなで笑い…そんな日々だった。

父はよく笑う姉が可愛かったので、姉にかわいいかわいいとよく言っていたな。

私はあまり言われなかったけど。


私が物心もつきはじめた頃のこと。

私の父は怒るとこわかった。


そのはじめ方は、私の名前をいつも出さないような怒りを帯びた声で低く呼ぶ。

私は「あ、怒られる」と思い、「はい。」といつもよりはっきりちゃんと返事をしてすぐに父のいるところへいく。

そうすると

「ここに座れ。」

と言うので、

「座りたくない座りたくない」と思いながら震える足を誤魔化すよう、さらに怒らせないようすぐに父の横に正座をする。

すでに涙がにじむ。

なにかは分からないけど謝らなきゃいけない

「パパ、ごめんなさい。」

震えた声で。お願いだから叩かないで。

そうするとすぐに左から父の手が飛んできて私の左頬を力強く払う。

土木関係の仕事をしている父の力で。


私は勢いで右側に倒れる。

「ごめんっなさい…!」


母親が気づき私を支え、「パパ。」と困ったような怯えたような声で言う。


「なんで怒られてるかわかるか。」

わからない、けどわからないなんて言ったらまたはたかれるからなにも言えず、

わたしは嗚咽で喋れないフリをする。


そうしていると父が返事を催促してくる。

もう間が持たないなと思ったらやっと

「わかんない」と嗚咽まじりに言う。


そうすると父が怒った理由を説明してくれる。

そうして

「ぱぱごめんなさい。もうしません」

これで終わり。


すごく怒っているときは、一度叩いて倒れた私を乱暴に起こし、座らせもう一度叩く。


ものすごく怒っているときは、床に叩き落とされた。

大声で泣きわめくと

「うるせえ、泣くなら外で泣け。」


わたしが怒られる理由は、物を乱暴に扱った、とかごはんの時間にテーブルに座るのが遅れたとか、冷蔵庫を無駄に開けたとかそんな理由だった。


小学校中学年頃まではほかのみんなも怒られるときはこんな風に怒られるんだと本気で思っていた。


父はふとしたことで怒りやすく、家族で遠出をしたときも思ったようにいかないと、ふとスイッチが入り怒り出し、車に私たちを投げ入れずっとそこにいろ!という。


ずっと父を怒らせないように。

父の前ではビクビクし名前を呼ばれたら背筋がぴりり、物音がすると乱暴にしたと思われるから物音を立てないように静かに。


小学校中学年になると今住んでる家に引っ越すことになった、今度は賃貸ではない家にローンを組んで。


でも、うちはお金がない。

母がよく言っていた。


だから私もうちは貧乏なんだと思っていた。

物心つく前は店にいくとあれが欲しいこれが欲しいと母によく言っていたが、

9.9割かえってくる返事は

「お金がないからまた今度」

最初のうちはじゃあ今度があると思って、つぎ店に行った時に今度って言ってたやつ!

と言ってまたねだっていたけど、

それも「また今度ね」だった。


次第に私も今度はないんだと分かってきたのでそれからはなにか欲しいというのは誕生日以外にはなかった。


お金がないのに私を育ててくれて学校にもいかせてくれて優しいままとぱぱだと。


その家に越してから少し経った頃に犬を飼うことになった。

小型犬でみんなで可愛がった。


その後からだんだん父が怒りやすくなっていった。

今思うと出費が増えたのに父の勤める会社は待遇があまり良くなさそうだし、父はいつも日付が変わる頃に帰ってくる。

家に帰ってくると大抵疲れていて機嫌が良くなかった。

その頃も何かにつけて怒られ、なんども叩かれた。


そのうちに学校のみんなは叩かれたり床に叩き落とされたり、外に放り出されたりしないんだとわかってきた。

うちは「厳しいんだ」と。


ある日の夜中、姉が寝ている私をおこした

「ねえ、ぱぱ変じゃない?」

「どうしたの?」

「音が…」

姉が心配そうなのでわたしも二階の寝室から出て一階につづく階段の前で聞き耳を立てた。


…パリーン


『え、ぱぱ、どうしたの?』

母の声。

『…。』

『なんかあったの?』


どうやら父が不機嫌で母が心配しているみたいだ。


『ぱぱ…?』


『わからねえのか』


『何?…ごめん、ごめんねぱぱ。どうしたの』


バンッ!


『ぱぱ??ごめんね、なにかしちゃった?』


とうとう心配になった姉が階段の上から見えない父に声を出した。

「ぱぱ、ごめんなさい、怒らないで!ぱぱ。」

わたしも怖くなって

「ごめんなさい、ぱぱ。」


堪えられなくなった姉がとうとう泣き出す。

そうすると父の怒鳴り声が階段から聞こえてきて

ごめんねぱぱ、ごめんねと母が必死にあやまるのが後から聞こえる。


そのあとは自分たちの泣き声で聞こえなくなってしまったけど、落ち着いた頃母が階段から上がってきて姉と私を順番に寝かしつけてくれた。


姉を寝かしつけてる間わたしはなにを話しているのか聞き耳を立ててビクビクしながら暗い部屋でそわそわねれずにいた。


そのうち母が来て、申し訳なさそうな笑顔で私に言った。

「ごめんね、今度お出かけする予定なしになっちゃった、楽しみだったのにごめんね。」

「大丈夫だよ、ぱぱは?」

「うん、もう大丈夫、ごめんね。ままが車に傷つけちゃったの、ぱぱ車大事にしてたのに」


そうしてわたしに布団をかぶせて布団の上から私をぽんぽん、としてくれた。


時折母が鼻をすする音がした。

「…まま、大丈夫?」

「うん、もう寝な。」


この時の母の背中は忘れられない、何か諦めたような何か決断したようなそんなかんじで、わたしはその背中を見て離婚という言葉が頭に浮かんだ。


それほどそのときの母の背中は印象的だった。


翌朝、障子に穴が開いていて父の茶碗がいつもと違うものになっていた。


親の間にはぴりぴりした空気が流れていたが、その空気は次第になくなっていった。


そして小学校高学年。

私のクラスにはいじめがあった、いじめられていたのは私ではないけど学校が楽しくなくて朝は遅刻気味になり、嫌な授業はトイレで小説を読んでサボるようになった。


家も学校も楽しくないな。


人生って楽しくないな。


小学生ながらにそんなことを思ったりした。


そして私は中学生になった。


私はいわゆる陰キャで、ずっとマスクをして机で小説を読み、絵を描いていたりした。

男子が苦手で中学時代は男子とは口をきかなかった。

部活は吹奏楽に入った。


最初は楽しかったと思う。

新しい学校で、中学生で制服を着てちょっと大人になった感じがした。

部活もそれなりに頑張った。


その頃も父は怒ると手をあげていたけど、父の怒るツボがわかってきたので父に叩かれる頻度は減っていた。


中学3年生になり私はまた遅刻が目立つようになり、授業態度も寝ていたり小説を読んでいたりで悪くなっていった。

それでも部活は楽しかったから頑張った。


そんなある日の音楽の授業のときだった。

音楽の先生は厳しくも、明るい先生で思ったことをすぐ口に出す正直な人だった。

音楽の先生なので、吹奏楽の部活のときもたまに見にきてくれていた。


合唱の練習が終わり、先生が言う。

「みんな座ってー。…お前は立ってろ」

私に向かって言った。

早く立てとせかされ立ち上がる。


「みんな聞いて、こいつはなーひどい女だよ。授業じゃ口も開かないくせに部活だと真面目にやって性悪女だ。」


みんなのなかで一人だけ立って足を震わせて泣いた。

たしかに授業態度は最悪だったけどみんなの前で晒し者にする怒り方はやめて欲しかった。


その次の英語の授業まで嗚咽が止まらなかった。


私も流石に嫌だったので母に言ったら母が学校に電話してくれた。

わたしはそれ以降その先生の授業はサボった。


それから部活もさぼりがちになった。

部活の顧問が変わってその顧問がわたしから見るとすこし怖かったし、もう投げやりだった。


受験で高校を選ぶのもサボっても怒られなさそうなところにした。


でも受験勉強はすごく頑張った。

その甲斐あって合格し、入学した。


わたしは高校生になった。


高校に入ってからもマスクを外さなかった私はまんまとみんなから取り残された。

すぐに授業をサボるようになった。

部活は漫画研究部に入った。


文化祭にあるクラスマッチの練習のバレーボールの時間、班で円になってパス練習をした。

当然のように私にボールは回ってこない。

私はいなくてもいいから壁にうつかかって見ていたら、班の子が来て

「やる気ないならやんなくていいよ」

と言ってきた。

ボール回さなかったくせに…と思いつつ、わたしも体育は苦手なので次から授業に出なかった。


朝学校に行っても私の席に他の子が座っていたり、机の上に物が置いてあったりした、

「あー。わたしいないんだな」

そうして休む日が増えた。


最初は部室にこもった、文化祭のために1年の部員で漫画を描いていてそのラフを描いて提出用のカゴに入れた。


しばらくすると、わたしの描いたラフが部室の机の下に他のものとごちゃまぜになって落ちていた。

きっとわざとじゃない、ただここに落ちてしまったんだ。

そう思ってもその時のわたしには辛かった。


その後も学校まで行っても教室に入れない日があったり、玄関に入れない日もあった。


テストの日にサボってカラオケに行ったり。


そうしてるうちに授業料を払ってくれたのに、受験のために教材も買ってくれたのに、学校に行けない自分の罪悪感に心が負けてしまっていった。


なにをしていても涙が出てきた。

音を出さずに泣くのがうまくなった。


そうして休む日が増えていき、親も心配してくれた。


父の機嫌も悪くなりやすかった。


母の作ったお弁当を持って学校に行って、結局行けずに帰って部屋で食べた。


母は朝頑張ってねと見送ってくれる。

きっとこのお弁当も学校で、友達と喋りながら食べているものだと思って作ってくれたんだろうな。

その通りにできなくてごめんねまま。


泣きながら食べてごめんね。


一人でたべてごめん。


私はもうほとんど学校には行かなくなって、代わりにアルバイトをするもなかなか続かなかった。

父も心配だったのだろう。

私に対して

「なんで学校にいけないんだ、お前は対人恐怖症だ、精神病だ、自閉症だ。そんな態度だからみんなお前に嫌われててバカにされてると思ってるぞ」

と言ったりしていた。


いつもストレスがたまっているようだった、その上母は私を慰めてくれるためか、家に引きこもらせないためか買い物に行くときは連れて行ってくれて、家事も私に手伝うように言ってくれた。


それが父の目には姉を仲間はずれにして私と母2人で仲良くしているように見えていたらしい。


その日はフルーツがあった。

夕食を食べ終わってワクワクしながら母がフルーツを食べようと言ってフルーツをお皿に盛り、机に置く。

姉は夕食を食べるとすぐ部屋に行ってしまうのでそのときも部屋にいた。

父が姉を呼んで食べようという。

母が姉を呼ぶも、姉は後でいいと降りてこない。

母は姉用にフルーツを小皿に分けて部屋に持って行った。

じゃあ先に食べよっかと母がいう。


父が黙りだした、フルーツを進めても食べない。

父が口を開く。


「なんでそんなことするんだ」


「お姉ちゃん後でいいって…」

母の言葉を聞かず食い気味に父が言う

「仲間はずれにするな。」

母が焦ったように

「してないよ、ごめんねぱぱ」

「謝るなら姉にあやまれ!」


そう言った後、父の手が母の頬を叩き母が床に膝を落とし自分の頬を抑え小さく「痛い」と言った。

立ち上がりごめん、ごめんね…と言う。


姉が降りてくる。

「どうしたの?…大丈夫だよ?ぱぱ、ごめんね。」

母の後ろで泣きながら手足を震わし手をぐりぐり握りしめて立ちつくしていた私の手を、姉が心配そうな顔で握りさする。


そうして父はお風呂に入り、母は机を片付けていた。

シーンとした空気。


その日いつも同じ布団で父と母は寝ているのに母は二階の空き部屋で寝た。


声が聞こえなくなるから扉は閉めるなと父はよく言っていて、閉めると怒られたからいつもどの部屋の扉も開いていたが、その夜母のいる空き部屋の扉は閉まっていた。


次の日私は学校に行ったものの、机に座ると昨日のことを思い出してしまい涙が出てとても教室に居れず、1時間でかえった。


この時ばかりは音を出さずに泣く技とマスクと長い前髪が役に立った。


その日の夜も母は空き部屋で寝るようだった、父はまだ帰ってきてはいなくて姉と母が二階で何か話している。

二階に上がり、どうしたのかと聞くと明日から母方の祖父母の家に泊まるのだと。

1週間分ほどの荷物をまとめておけと。


どうやら、次に母が手をあげられたら家を出ると決めていたらしい。


母には悪いが私は少しワクワクしていた。


この家から出れるんだ、父の元から逃れられるんだと。

そうして準備をしていたらさすがに物音で父も異変を感じたらしい。

滅多に二階にこない父が上がってきて、もう寝る支度をしている母に言った。


「どこか行くのか」


父と母はその後2人で話し合いに外に出た。


「大丈夫かな。」「どこいったのかな」

そんなことを姉と言いながらそわそわして帰りを待っていた。


すると数時間後父と母が戻ってきた。

母は大丈夫だから寝なさいと言う。

明日家を出ることに変わりはないようだった。


次の日から祖父母の家に泊まった。

最初は愛犬も連れてきていたが、愛犬は家に帰りたがっていたので家に戻して、母が世話をしに通っていた。


祖父母の家はみんな暖かく、誰も怒ることもないし不機嫌になることもない。

従兄弟が遊びにきた時はトランプをして笑った。

ああ、普通の家族ってこんなのなのかなとそのとき思ったりした。


しばらくして家に帰ることになった。

祖父母には父が母を叩いたこと、私たち姉妹もたびたび手をあげられていたことを母が話していた。

祖父母は驚いていた。


でも母は明るかった。

父の暴力を話すときも、家に戻るときも。


父はもう手をあげないと母と約束したようで、なにか父から前の父にあった悪いものと少しの元気が抜け出ていた。


しばらくして父が私の話を聞く時間を設けてくれた。

机にノートを開き、私の言ったことを鉛筆でメモして。

まず、なぜ学校に行けないのか。

わたしはひとしきり泣いたあと、

「…わかんない」

といった。

父は前のように声を荒げることはなく、急かすこともしなかった。

私が泣いてる間ずっと待ってくれていた。


それまでの父にはなかった穏やかさで、わからないとノートにメモをする。


友達とうまくいかない?


…うん


話しかけてみるのはどう?


…できない…


そんなふうにしてその時間は終わって、せっかく入学したんだからもう少し頑張ってみようということになり、クラスの子に話しかけてみたりしようということになった。


次の日学校に行った。

教室に入り、席に着く。

今日は携帯を見ずに誰かに話しかけられるタイミングを探す。

HRが終わりみんなが席を立つ。


あたりを見渡すもいつも私を睨んでくるあの子と目が合うだけ。


…話しかけられないなあ。


1限目がはじまる。

授業が終わりみんなが席を離れる。

携帯に逃げてしまった。


そして体育の時間、頑張って出てみた。

野球の時間だった、ボールをペアで投げ合う。

ペアになった子が言う。


「体育来てくれたんだね!うれしい」


この言葉すごく嬉しかったな、ありがとう言ってくれて。


その調子でしばらく頑張って学校に行ってみたものの、"話しかける"という目標は達成できなかった。


移動教室でみんなが移動していくなか、私は席にずっと座って携帯をいじって、やがて授業が始まる。

廊下を通った先生がなにしてるんだ?授業は?と言ってきたりしたけど、もう私は頑張れなかった。


母にメールをした。

「帰っていい?」

「頑張れない?」

「うん」

「わかった。気をつけてかえってね。」


それから私は学校を辞めた。


辞めてからは家にこもった、母が見兼ねて家事を私にやらせていたけど私の罪悪感は紛れず、涙が勝手に出てくることもしばしばあった。


音を立てず泣いていたのに父が気づいて、母が慰めてくれたこともあった。


それから食べ物をあまり食べなくなった。

ずっと眠くて一日中寝ている日もあった。

そのせいで10キロ近く痩せていた。


それでも母が献身的に支えてくれた。

バイトを勧めてくれてはいたけど、その時の私はなにもできなかった。


すごく泣いてしまった日、母と話した。

父のこと。


父にされた暴力の数々は虐待だったと。

私は投げ飛ばされ、姉は鉄の棒で叩かれたこともある。

母はもう大丈夫と言って抱きしめてくれた。

もう大丈夫。

叩かないよ。ままが守るから。と


あるとき中学時代の友達が、アルバイトに誘ってくれた。

そのきっかけでバイトをするようになった。


バイトもはじめのうちは辞めてしまったけど、友達もバイトを転々としていたので私をよく誘ってくれた。

バイトもどんどん続くようになってきた。


それからその友達と夜遊ぶようになり、髪も明るくなって、痩せていたので彼氏もできた。


夜帰りが遅いことが続いて怒られた。

23時までには家に帰ってこいと言われたのでそれから23時ギリギリに家に帰っていた。

それでもギリギリだったので度々注意された。


ある日そのとき付き合っていた彼氏が見送ってくれた。

田舎なので終電がもうなくなってしまってわたしもそのままにするわけにもいかず、門限を過ぎてしまった。

母から電話が来たけど彼氏と一緒にいたから出れなかった。


彼氏は結局友達の家に泊まらせてもらえるか聞いてみることになりわたしは帰った。


当然父はカンカンだ。


「門限は守れ、門限を無くすならお前はもううちの子じゃないと思うからお前の世界をうちに持ち込むな。」と。



その後も門限は守っていたけど夜は家にいなかった。

遊ぶ約束がなくてもなんだか家に居たくなくてフラフラしていた。


家に居たくなかったというのも、母と家出をしたあの時のこと、その後も考えてしまっていた。

なぜ母は母自身が手をあげられるまで家を出なかったのか、私たち姉妹はいいのか、とか。


それからもバイトを頑張ってはそのお金で遊んで、楽しかった。

太らないようダイエットもした。


その頃、母方の祖父母の家に従兄弟が連れて行ってくれたことがあった。

そうしたら祖父が嬉しそうに私に父と母の結婚式の写真を見せてくれた。


その写真は若い父と母が笑顔で並んで立っている写真と、両家の祖父母、父と母、親戚が並んで笑顔で座っている写真だった。


当然だけど姉も私もその写真にはいない。


そのとき私の心になにかすごく動くものがあった。

その写真は親と祖父母が並んでいて、姉と私がいないのだ。


祖父母がいなきゃ、父も母もいなかったんだな。

父方の祖父母が出会って結婚してなければ父はいないし、母方の祖父母が出会ってなければ母はいない。

しかも、その父と母が出会わなきゃ私も姉もいないんだ。


頭では誰でもわかることだけど、わたしはその時心から理解してすごい、と思ったのだ。


その後祖父母の家から出た後、従兄弟は祖父母の家に泊まるらしいので一人で歩いて帰った。


帰り道、泣き喚いて帰った。

私ってそんなにすごいことがあって存在してるんだ。

なのに今までなにもかも諦めて、死にたいとすら思っていた。

親や、祖父母、そのまた親、そのまた親まで数えきれないくらいの人が生きて繋いできてくれたのに、私は。


私はなにもせずに、やる前からできないと決めつけて、なんて馬鹿だったのだろうと。


わたしはすぐに父方の祖父母にもメールをしてお礼を言った。

なにかと気遣ってくれていた祖母に、これからは頑張るよ、と。


それからは頑張った。

どんどん元気も出てきてバイトも自分で興味がある仕事に変えてみたり、そのバイト先でまた彼氏を作ったりした。


その頃から中学時代の友達は上京してなかなか会えなくなり、わたしの夜遊びはプツリとなくなった。


わたしは運転免許を取って、バイトの給料を貯めて車を買った。

その車で窓を開けて曲を流して一人でドライブをするのが楽しかった。


すぐ事故って廃車にしたけど。


19歳の春、中学時代の友達がシェアハウスをしないかと誘ってくれた。

わたしはすぐにそのためにバイトを始めた。

週4日、6〜8時間働いてほとんど貯金した、友達と住むのが楽しみでバイトで何があっても頑張れた。

自分って目標があれば頑張れるんだ、と自信もついた。


あっという間に時間が過ぎた。


そして、2019/1/13成人式の日。


わたしは成人式当日が誕生日と重なり、わくわくしていた。


朝から着物を着て写真を撮って祖父母に会って。

成人式に行くとみんな綺麗に着物を着て大人になっていたけど変わらない。


その後の同窓会。

中学3年のクラスのみんなでの同窓会だった。


みんなでワイワイ。


あのときこうだった、ああだったと話して楽しかった。


中学のときのクラスはシーンとしてたのに、みんな懐かしさでいろんな人と話してガヤガヤしていた。

そんな空気も今の私は溶け込めていてすごく楽しかった。


二次会でカラオケに行った。

あのマスクして小説読んで音楽の授業じゃ口も開かなかった私がみんなの前で頭を振りながらロックを歌った。


そして今、こうして忘れないように綴ってる。

文字に起こしても全然平気。

途中で涙ぐんだけど、悲しい気持ちではなかった。

人生楽しいな、これからが楽しみだし。

夏に高校卒業認定試験も受けるつもり。


でもこれからも、大事なことは忘れずに生きていこう。

母のように明るく。


楽しくね










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