夜を歩く
夜を歩く
一人の男が夜道を歩いていた。
それを見るのは、夜空に浮かぶ月だけである。
月は夜を仄かに照らすと同時に、地上を見ているのだ。
そうとも知らず、男は夜の中を歩いていた。
男はまだ若い。
二十の前半の年頃だ。
だが、その顔は髭に覆われ、消して薄くはないが濃くもない皺が刻まれている。
男は深い夜の中、鉄道に乗る為に歩いていた。
そして男は戦っていた。
深い夜の、闇の中より襲いかかる不安という魔物とである。
既に終電は終わり、駅に向かうには歩くか、車を使うかしかない。
必然的に、金の無い男は歩くしかなかった。
夜の道を、歩くしかなかったのである。
歩けば歩くほど、夜の闇は襲ってくる。
先行きへの不定形な不安が、闇と共に襲いかかってくるのだ。
時折すれ違う車のライトが男の眼を焼くせいで、街灯のない道では転びかけもした。
それでも男は歩いた。
普段は電車を使う筈であるから、道も分からないまま。
便利な文明の利器は、既に電力もあと僅か。
曲がるべき道を曲がらないまま通り過ぎるのを幾度か繰り返した男は、ふとやるせなさに心が揺れた。
先ずこのような状況にあるのも、元は男に原因があった訳であるから、情けなさの二重苦であった。
幹線道路ではあるが、店も疎らな田舎道である。
男は孤独に苛まれつつあった。
そしてそれは、不安という不可視の魔物が男に食らいつくには、絶好の機会と言えた。
まるで弄ばれているような、ジワジワと染み込むような苦しみ。
ふと男は、泣き喚きたくなった。
だが涙が出る気配はない。
男が好きに泣ける時期は、とうに過ぎていた。
男は既に、打たれた鋼と同じだったのだ。
背負ったバックパックが肩に痛みを与え、長い道のりは男の足に疲労を重ねていく。
それでも男には歩くしかなかった。
このペースで行けば、早朝より前にはつくのだから、足を止めても良かったが、それでも男は歩き続けた。
だがやはり、辛かったのだろう。
肩を回した男は、丁度通りかかった自動販売機へ向かい、缶コーヒーを飲もうと考えた。
だがいつも飲んでる青い缶の下に、売り切れの赤文字が表示されているのを見て、小さく舌打ちをする。
男はブラックも飲めるが、事実昔は好んで飲んでいたが、胃が荒れると聞いてからは、なるべくミルクが入ったものを飲むようにしていた。
だから同じメーカーの無糖ではなく、他のメーカーの微糖を押す。
缶を握りその暖かさにほうっと息をつくと、懐より煙草を取り出して一本加えた。
カチッと妙に響く音を立てて、先に火が灯される。
フーッと口より紫煙を吐く。
夜の闇に、白い煙が徐々に溶けていく。
男は徐ろにスマートフォンを取り出すと、現在位置を確かめる。
後少しで、横道に入る。
そこからはギザギザと小道を曲がるルートが表示されていて、男は間違える訳にはいかないと、視線を鋭くして画面を見つめた。
男は一通りルートを確認すると、缶で煙草を潰してそこを後にした。
男は再び、歩き始めた。
このような不安に苛まれる時、男は必ずといっていいほど考えることがある。
それは、祖母が死んだ時の事である。
まだ彼の祖母は、家族は皆存命だが、いつ死ぬか分からない。
彼は実の父や義母よりも、祖父母を慕っていた。
特に祖母である。
離婚の際、育児放棄じみた男の状況を案じて、引き取るのを強く希望したのは祖母だった。
男の養育費を稼ぐ為に出稼ぎをする父の変わりに、男を育てたのは祖母であった。
『溺愛』という言葉が正しいほどに、男の祖母は男に愛情を注いだ。
端的に言えば、男は甘やかされて育ったといえる。
だがそのような状況で、決して精神が薄弱に育たなかったのは、男の今までの困難と男の友人達のお陰であり、時に厳しい祖母のお陰でもあった。
男は祖母を誰よりも愛していたし、それこそ彼女が存在しない事など考えられない程に慕っていた。
彼にとって生家に帰ることは、祖母の下に帰ることを意味する程に。
彼にとって、不安という物が形となって現れるとすれば、真っ先に祖母の死が出てくる。
彼はその度に、疑問に思わざるを得ない。
何故先達は、平気でいられるのだろうか。
答えは一つだ。
それを乗り越え、克服したからである。
ならば、その勇気の根幹は?
それは受け継いだという事実だろう。
彼等彼女等は決まって家族の死を語る時、彼らから受け取った物、受け継いだものを口にする。
それがあるから、彼らは屈さず自らの生を全うできるのだ。
男にもそれがあった。
それは甘さである。
それは男の短所でもあった。
彼が職場で失敗をした時、チクリといわれるのはそのことだった。
だが、男はそれを誇りに思っていた。
甘さとは強さでもあると信じていたからだ。
事実、その甘さは男の特徴ないしは長所であるからだ。
その甘さは時に人を不快にもさせたが、着実に他の者達に認められていっていた。
その考えに至った時、彼に取り付いていた魔物がスッと離れていくのがわかった。
男はそれを信じれば、決して自らは挫けずに済むだろうと、確信に似たものを感じた。
その精神的な、霊的な思想は男の人生に光明を与えたのだ。
だがそれと同時に、現代科学の生み出した極めて理知的な思想が、それを否定しようと男の中で鎌首をもたげたが、男は本能的にそれを突き放した。
そのことを考えてしまえば、男はきっと挫けてしまうと考えたからだ。
兎に角、男には一つの光明が見えた。
それがあれば、男は不安という魔物に恐れず済むのかもしれなかった。
彼の中で長い戦いが終わった時、丁度深い夜の路も終わりを迎えた。
夜の中に燦々と輝くそれは、駅であった。
幾らか強張った身体を解しながら入ると、まるで駅は昼間と変わらず動いていた。
まるで生き物だと、男は思った。
しかも中には、少ないながらも人が居たのだ。
男は酷く安心して、近くの椅子へ座り込んだ。
一先ず、彼はもう歩かなくても良かったのだった。
後は鉄道という偉大な鉄塊が、決められた道で決められた場所へと、男を乗せていってくれるからだ。
男は時にそれを窮屈に思う事もあったが、同時にそれを愛してもいた。
無駄な徒労は減らすべきというのが、彼の思想であったからだ。
結局の所、男は慣れてしまったのだろう。
全てが決められたこの世界に。
踏み鳴らされた道が、無数にあるこの現代に。
時代は移り変わり、時に人は退化し、時に進化しながら生きていく。
夜の闇はその色を薄く、人々の中にいた不安という魔物は徐々にその影を小さくしていった。
だがそれでも、月は空より照らすだけである。
たとえ幾ら明るくなろうと、夜の帳はその色を無くすことはない。
そして無くなることはないのだ。
なので月は職を失うことはない。
だがそれは、月が決して不必要な存在でないことを示していた。
男のような人間に、月は必要なのだ。
故に月は、男のような人間を愛さずにはいられないのだろう。




