止まらぬ思い
美沙は、今自分が見ているものがとても現実とは思えず、しばらくその場に立ち尽くした。
頭の中は混乱の極みにあり、映画どころではない。
リモコンの一時停止を押し、ぼすっという音を立ててソファに腰掛ける。スマートフォンの画面を見つめたまま。
トーク画面の相手先の名前は何秒見つめても《Souta.K》。
彩乃のアイコンはない。宗太が、美沙個人に対してメッセージを送ってきたのだ。
『中野さんがホラー映画好きって本当? 今ちょうど、家で見てます』
スタンプもなければ絵文字もない、そんな簡単なコメントだった。
美沙は純粋に驚いた。
彼も今まさに、美沙と同じように自室の一角に腰掛け、テレビ画面に向かいながら同じような映画を観ていた。そして、美沙のことをチラとでも思い出したというのか。
美沙はまるで信じれない気持ちでスマートフォンの画面を見つめた。
『こんにちは、木村さん。偶然ですね。私も今、家でホラー映画を観ています』
美沙は戸惑いながらもそう返事した。
ここで浮かれた感情を出してはいけない。宗太は同じ趣味を持っている美沙に親近感を覚え、偶然のきっかけでメッセージをしてきたにすぎない。美沙のように下心はないのだ。
返事はすぐにきた。
『本当に? ちなみにおススメがあれば教えてほしいです。俺は"ロザリー"を見てる』
『"ロザリー"は名作ですよね。私は邦画が好き。今見ているのは"汚染"っていう映画なんだけど、これもなかなか面白いです』
緊張のせいか、また言葉使いが堅苦しくなり始める。
顔の見えない距離感がそれをさらに助長しそうになるが、不自然でない程度によそよそしさを払拭したい。
『その映画は知らなかった。次の鑑賞リストに入れておこう。急にごめんね。では、映画に戻ります』
『はい。よい休日を』
本当はもう少しやりとりを続けたいと思ったが、宗太からあっさりと打ち切られてしまっては引き下がるしかない。
また会いましょう――最後に加えようとしたが、それを言う権利は自分にはない。
簡潔に返信をすると、そのままソファに深く全身を預けた。
たった数往復の、無味無臭なやりとりだったが、一体宗太はどんな気持ちでメッセージを送ってきたのだろう。
映画を見ているときに、ふと美沙が共通の趣味を持っていることを思い出して、深く考えずに行動しただけか?
それとも、美沙に少しでも好感を持ってくれていたのか?
連絡先を手に入れて嬉しかったのは、もしかしたら自分だけではなかったかもしれない。
美沙は止まらぬ期待感を抑えることができず、その日は結局映画鑑賞を続けることをやめた。上の空になることは分かりきっていたからだ。
初めて宗太からメッセ―ジを受け取ってから1週間の間、美沙は時間さえあれば自身のスマートフォンを取り出す癖がついた。
もちろん、宗太から何か連絡が入っていないかを確認するためだ。
通勤電車の中、仕事の合間にトイレに立つ時、スーパーのレジ待ちの間。
美沙の時間が宗太一色に侵食されていく。
その期待と期待を裏切る結果が、美沙の気持ちの波形を大きく上下させた。もはや仕事の進捗にも影響を及ぼし始めている。
このままでは思い悩みすぎて病気になりそうだ。
心の疲弊が臨界点に達した2週間目、ついに美沙は自分からメッセージを送信した。
『今日は仕事が暇だったので、早く帰ってゾンビ映画を観てます。なかなか見ごたえあるよ』
半分ウソだ。
このメッセージを送りたいがためにわざわざゾンビ映画をレンタルしてきた。
一応再生してはいるものの、宗太からの反応が気になってそれどころではない。
時刻はまだ19時。既読にはならない。
送る時間帯を間違えてしまったかもしれない。忙しい時にうっとおしいと思われただろうか。
そう考えだすと美沙の心はますます焦って落ち着かなくなる。
仕方なく、気もそぞろのままテレビ画面に目線を映す。
ちょうど主人公の友人がゾンビに噛みつかれたところだった。それまでのストーリーはほとんど見ていなかったが、噛みつかれたからには感染するのがゾンビ映画のセオリーだろう。主人公はパニックになりながら夜の住宅街を逃げまどう。
緊張感漂うシーンに自然と目を奪われ、映画に見入っていたところにピンポンとスマホから通知音が鳴る。
慌ててスマホを手に取ると、宗太からの返信だった。
『ゾンビは守備範囲外だったけど、中野さんが言うなら間違いなさそう。今度借りてみようかな。俺は今日はもうちょっと仕事』
意外に早く来た返事に、美沙は喜びの笑みを禁じえなかった。
しかし、やはり相変わらず仕事は忙しいようだ。もうちょっととは言うものの、恐らく深夜近くまでオフィスにいるのだろう。
『お仕事お疲れ様。忙しい時に呑気なこと言っててごめんなさい。』
『いや、あとは単純作業だから、こうして息抜きしながらやる方がいいんだ。早く上司みたいにレベルあげてさっさと帰れるようになりたいところだけど』
『木村さんの会社は私の会社とはまた違うんだろうな。うちは、THE日系企業だから、残業=仕事してるって思ってる人多数だよ』
『俺も、入社する前はそう思ってたよ。早い時間から帰宅しているサラリーマンはよっぽど暇なんだろうなって。でも、成果を上げて早く帰る人間の方がよっぽど優秀だよな』
『うん、私もそうなりたいし、うちの会社の人にもそう言ってやりたいところだわ。木村さん、私たちももう30手前だから、あんまり体力に任せて遅くまで仕事しない方がいいよ』
美沙は、初めて少し冗談めいたことを言ってみた。
『それ言われると辛いけど、確かに笑 じゃ、ダラダラ仕事しないでラストスパートかけようかな』
その言葉に、美沙は空気を察知し、行儀よくメッセージを終わらせた。
今日はそれに寂しさを感じなかった。
今回、積極的にラリーを続けようとしたのは宗太だ。それが美沙のほのかな自信となった。
決して褒められたことはしていない。
だが――
(このくらいだったらまだ大丈夫――)
美沙は彩乃と世間に言い訳するように呟いた。
◇◇◇◇
「中野、悪かったな。もうちょっと早く終わるはずが、こんなにかかるとは」
隣を歩く新藤課長が参ったというように呟いた。
今日は朝から取引先を訪問していた。
予定では1時間程度で終わるはずだったが、気が付けば先方の脱線に次ぐ脱線で話が終わらず、地下鉄に乗り、オフィスの最寄り駅に到着する頃には12時を回っていた。
「いえ、私も連れていって頂けて光栄です。鳥居さん相変わらず話が長かったですよね」
美沙は普段は内勤だが、新藤はこうしてたまに取引先に同行させることがある。
美沙の仕事ぶりを買ってくれているのだと思いたいが、美沙を連れていくと何社かの取引先担当者の機嫌が良くなるのも知っている。新藤はこうした、小ずるいところのある男でもある。
「あの人なぁ。今日は中野がいたから余計に饒舌だったぞ。あの人をコントロールできないうちは俺もまだまだだな。それより、昼メシどうする? 俺は弁当あるからこのまま戻るが、中野はその辺で食べてきていいぞ。13時過ぎても構わないから」
「ありがとうございます。では、この辺りでサッと済ませて帰ります」
美沙はそのまま新藤と別れ、辺りを見回す。
会社の近辺であることは間違いないが、いつも利用する出口ではないところから出てきてしまったせいか、全く見慣れないエリアだ。
とはいえ、全方位がオフィスの入る高層ビルだ。食べるところなどいくらでもあるだろう。
手近なビルの中に入ろうとした時、その先のビルとビルの隙間から緑が覗くのが見えた。
何となく気になりそちらへ向かうと、ビルの向こうにぽっかりと緑の空間が広がっているのが見えた。
「これ……いつも会社から見える公園だ……!」
周りを高層ビルに囲まれた異質な空間には、苔むす池や美しく剪定された背の低い木々が広がる。
それらはところどころ赤や黄色に色づき始め、東京という場所で忘れかけていた季節を美沙に思い出させた。
何かテイクアウトしてここで秋を感じながら食べよう。
美沙は手近にあったカフェでサンドイッチセットを購入し、座れる場所を探して公園内を歩く。
やはりランチライムゆえに、どこのベンチも人で一杯だ。
池のふちにある石垣に腰掛けてもいいのだが、今日は取引先訪問のため身綺麗にしてきてしまったので、それは少しためらわれた。
すると、大きな木の陰にあるベンチから男性が立つのが見えた。
空きそうだと思い小走りで向かうと、足音に気付いた男性がこちらを見て、そしてひどく驚いた声で呼び掛けた。
「中野さん?」
「えっ……? 木村さん!?」
木の陰で暗く、相手の顔があまり見えなかったが、近づいてみるとそれは紛れもなく木村宗太だった。
初めて会った時と同じ、質の良さそうなスーツを着こなし、手にはコンビニの袋を持っていた。
「どうしたの? こんなところで。まさか中野さんに会うとは思わなかったからびっくりしたよ」
「私は……ここ会社の近くで。今日は外出してたので、ここで食べて帰ろうと思って寄ったの。木村さんは……?」
「俺も会社がすぐそこなんだ。だからほとんど毎日ここで食べてる。じゃあ、中野さんとはオフィスもご近所なんだね」
宗太は柔らかい笑みを浮かべた。美沙が惹かれた笑顔だ。今日、まさかそれを見ることがあるとは想像してもいなかった。
「毎日ここで? 確かに素敵な場所。ここで紅葉が見れるなんて思わなかった。桜の木もあるだろうから、春はお花見だね」
「そうそう、田舎生まれの俺には都会の喧騒はちょっと息苦しいからさ、昼休みだけこうして逃亡してるんだ。中野さん、俺もう戻らなきゃいけないから、ここ座って」
宗太は美沙に座るよう促し、そのまま立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように振り返る。
「中野さんが言ってた"汚染"、この前見たよ。怖すぎて半分涙目」
宗太はおどけたように笑う。
「う……うん、私もそうだった! ……あの! 木村さんのおすすめもまた教えて!」
「うん、何かいいのあったら教える」
「ありがとう!」
美沙は、去り際の宗太に向かって笑顔で手を振る。
こんな奇跡が二度とあるはずがない。
だから精いっぱいの明るい笑顔を作った。彩乃とは違って地味な美沙の顔を覚えてもらえるように。
宗太が美沙を思い出す時、その顔が笑顔であるように。
彩乃、ごめん。
私は木村さんが好き。
私の心の中だけで留めるから、どうか許して――