進展
美沙は、緩慢な動きで共有キャビネットの中のファイルを取り出しては、不要な書類を机に積み重ねていく。あとで全てシュレッダーにかけるのだ。本紙の保管が必要でないものも、PDF化してクラウド上に格納するため別の山に分けていく。
今日はパートナーである新藤課長が海外出張で、取引先からもメールも少ない。美沙にとっては珍しく暇な日だった。
こんな日だからこそ、と思い、普段手を付けられない書類の整理に乗り出した。
本来こういった作業は好きではないが、体を動かして単純な作業をするのもたまにはいい。
動かずボーっとしていると、あれこれ悶々と考えてしまうからだ。
先日、不可抗力で手に入れてしまった宗太の連絡先。
美沙から宗太にコンタクトを取ることなどあり得ない。しかし、やろうと思えば今すぐにでもそれができてしまう。
だから、せめてこうして考えないようにすることだ。
美沙はシュレッダーの前で、機械になりきったつもりでひたすら書類を裁断する作業を続けた。
「暗い。中野暗すぎ。メシがまずくなる」
カフェスペースのいつもの席でランチを取っていると、奥村雄吾がそんな一言と共に目の前の席へどかっと座り込んだ。
「何、奥村。まずくなるならどっか違うところで食べなさいよ。」
「同期なんだから冷たいこと言うなよ。心配してやってんだぞ。何か最近元気ないように見えるから。仕事でミスった?」
「違うよ。それに元気ないわけじゃないよ。疲れてるだけ」
「ふーん。そう? お前って疲れててもあんまりそういう表情しないから」
そう言われて思わず顔を上げる。
「そういう表情って……どんな? 私そんな変な顔してた?」
「無表情。何も考えないようにしてるっていうの? 俺にはそんな感じに見えるけど」
奥村雄吾が、ただの鈍そうな体育会系のチャラチャラした男ではないのは、この前よく分かった。
見た目は軽薄そうに見えるが、信頼できる男なのも同期だから知っている。
「……奥村は今付き合ってる子いるの?」
安いコンビニの弁当をかき込んでいた雄吾は、その言葉にぴたっと箸を止める。
「……俺に惚れた?」
「ばか。男性側の意見が聞きたいなと思って! 彼女の友達と会ったことある?」
「あるよ。俺の友達を紹介しろって言われて合コン開いたこともあるし、彼女と友達が飲んでるところに呼び出されたこともあるし」
友人の恋人に会うというのは一般的なことなのか。
美沙は少し意外に思った。
「……私の親友がね、彼氏を友達に会わせたんだけど、何だかその友達が彼氏に対して好意を持っちゃったんじゃないかって心配になってるみたいで。奥村はそういうことあったりした?」
一体自分は何を聞きたいのだろう。
自分の浅ましい行為を親友の立場で置き換えて話し、あまつさえ奥村に宗太を重ね、答えを期待している。
美沙は嫌悪感で弁当の味がしなくなっていくのを感じた。
「いやー、あからさまに好意を見せられたことはさすがにないなぁ……。だって友達の彼氏なわけだろ? 普通、友情があるんだったらそんなことできないだろ。まぁ、カッコいい彼氏で羨ましいとは言われたことあるけどな」
雄吾は最後の部分をにやけた顔で強調するが、美沙にはそれにツッコミを入れる余裕はなかった。
『普通、友情があるんだったらそんなことできないだろ。』
その通りだ。宗太からしてみれば、美沙の好意を感じ取ったところで、嬉しいはずがない。
むしろ、彩乃への友情を捨てて色恋に走る薄汚い女にしか見えない。
危なかった。普通に考えれば分かることなのに、宗太への思いで一杯だった美沙には、そこまで考えが及ばなかった。
実のところ、美沙は宗太にメッセージを送りたいという自分の欲望に打ち勝つ自信がなかった。
しかし今、それは一気に雲散霧消した。
「おい、中野。大丈夫か? またボーっとして。お前重症だな。あんまりしんどかったら帰れよ?」
雄吾が心配そうに目の前の美沙を見つめる。
「あ、うん、ありがとう。大丈夫。ご飯食べたら何か元気になってきたから。奥村こそ、しょっちゅう出張で忙しいんだから、もっと栄養あるもの食べないとダメだよ」
「はいはい、母ちゃんありがとな。あ、そういえば来月の同期会、行くよな?」
「同期会?」
そういえば、ついこの間そんなメールが来ていたかもしれない。
「う……ん。私はいいかなぁ」
目線を窓の外へ逃がす。相変わらず眼下には美沙の好きな緑の公園がゆったりと鎮座している。
「何だよ、予定あるのか? もう俺らも仕事を一人前に任されるようになって、こうやって集まれる機会もそうないんだから、参加しようぜ」
「でも、女子だって残ってるのは私を入れて4人しかいないでしょ。ゆかちゃんは子供がいるから来ないだろうし、サナとアコは……私がいてもつまらないんじゃないかな」
美沙は同期の女性とは距離を置いている。
特別に仲が悪い訳ではもないし、パウダールームで会えば立ち話くらいはする。
しかし、根本的に合わないのだ。話も感覚も価値観も。
給料の大半を自分の外見を磨くことに費やし、仕事は楽しくゆるくをモットーに日々を生きる彼女達の中では、美沙はどうしても浮いてしまう。
あまりに精神的に疲弊したので、それ以来ランチは一人で取るようにし、同期会にも極力参加しない。
自分の性格が嫌になるが、これが中野美沙という人間だ。
「中野……。こういう賑やかな集まりが好きじゃないんだろうってのは分かるけどさ、お前が頭で思い込んでるよりも悪くないと思うよ? とりあえず、来い。俺もフォローするし。じゃ、参加ってことにしとくな」
「ちょっ! 奥村!」
雄吾は有無を言わさず言い捨てると、そのまま席を立ち、去っていった。
勝手にプライベートの時間に割って入り、同期会への出席まで命令のように決められた美沙は、ただ茫然と雄吾が立ち去るのを見送った。
恋人もなく、彩乃以外の人間ともそれほど交流のない美沙の休日は、もっぱら家で一人で過ごすか出かけるかである。
それを苦に感じたことはない。
一人であれこれ内省することは嫌いではないし、自分の生きるモチベーションが必ずしも人との関わりでないことは、28年間生きてきた美沙自身がよく分かっている。
狭いワンルームの掃除をあらかた終えた土曜日の午前中、秋の冷たく乾いた風でたなびく洗濯物を見つめながら、美沙は深い充足感を覚える。
やるべき家事は終わった。あとの時間は、ひたすら借りてきた映画を観て過ごす予定だ。
美沙はカーテンを閉めて日差しを遮ると、DVDをセットして一人掛けの赤いソファに腰掛ける。
映画は冒頭から暗く重たいBGMをバックにスタートする。
そのまま終始不穏な空気だけをまとい、中盤からはついに主人公の絶叫が美沙の部屋に響き渡る。
――美沙の趣味はホラー映画を観ることだ。
幼い頃から好きだったので、理由を問われても答えられない。
ただ、ホラー映画と呼ばれるジャンルの新作が出れば、必ず目を通すようにしている。
家族も友人もこれまでの恋人も、美沙の趣味には興味を示さなかったが、それは構わない。
さすがにマイノリティな嗜好であることは理解していたし、誰かと共有することは諦めている。
客観的に見れば寂しい光景だが、こうして休日に部屋を暗くして一人でホラー映画を観るのは、美沙の至福の時間である。
その時、ベッドの上のスマートフォンからSNSの通知音が聞こえた。
彩乃か母親か、友人の少ない美沙にメッセージを送る相手は限られている。
ちょうど緊迫のシーンが終わったところだったので、立ち上がりスマートフォンを取りに行き、画面を確認する。
美沙はそのまま立ち尽くした。
――送信元は宗太だった。