再会
結局、その週はE社との契約や発注作業に伴う諸々の事務処理で、3日ほど残業が続いてしまった。
不思議と疲れは感じなかった。
むしろ、何をしても楽しいような、わけもない高揚感に包まれている気持ちだった。
しかし、美沙はそういった感情を決して表に出さないように細心の注意を払う。
誰かに悟られるのも面倒だし、何より彩乃に対しての不義理だと思うからだ。
「中野、この前はすげーため息ついてたけど、今日は打って変わってご機嫌なんだな」
書類をコピーしていた美沙に、その後ろで印刷待ちをしていた奥村雄吾が話しかける。
「え……私が? 別に普通じゃない?」
「そうか? 何かすげー生き生きしてる感じじゃん」
思わずギクっとしたが、それこそ雄吾に悟られるわけにはいかず、美沙はあえて満面の笑みを見せる。
「そりゃ今日は金曜日だもん。今日こそは早く帰って借りてきた映画を一晩中見るんだから」
「相変わらず枯れてんな」
「うるさい。――はい、空いたよ」
それ以上は相手をせず、コピー機を譲るとそのまま美沙は席へ戻る。このままやりとりを続けていたら、どこかでボロが出そうな気がした。
鈍そうな奥村に気付かれるとは、もしかしたら思いの外自分は浮かれすぎていたのかもしれない。
美沙は気持ちを切り替えて、一層目の前の仕事に集中した。
気分的には残業も吝かではないが――今日は早く帰りたい。買い物に行きたいのだ。
翌日――オクトーバーフェストの会場で、美沙は約束よりも20分早く待ち合わせ場所の都立公園に到着していた。
緊張のあまり、だいぶ早起きをしてしまったのだ。
何度も洋服を合わせては鏡に向かい、化粧を念入りに施しても持て余す時間。
そわそわして家にいることもできず、早く街中に出てウィンドーショッピングで時間を潰す。
ショーケースの向こうは既に冬の装いだ。
今年のトレンドをチェックしようと思うものの気もそぞろ、ただ気持ちを落ち着かせようとひたすらぐるぐる歩き回る始末だった。
諦めて待ち合わせ場所に腰を落ち着けたのが約束の20分前だったというわけだ。
美沙はぼんやり目の前に広がる風景を眺める。
都会の真ん中で存在感を際立たせる数々の樹木に、雲一つ見えない青々とした晴天が目に眩しい。
その分日差しもあるが、秋の空気は湿度も感じずサラっとしていて、どこまでも深く吸い込めるほど清々しかった。
今日はイベントがあるせいで多くの人でざ賑わっているが、こんなところでピクニックをしてうたた寝ができたら幸せだ。
願わくば、その時は隣に宗太のような恋人がいたらもっといい――美沙はそうも思った。
「中野さん?」
眩しさに目を閉じながら深呼吸をしていたところで、突然背後から声を掛けられた。
「あっ……木村さん!?」
驚いたことに、木村宗太がそこにいた。
彼も随分と早く到着してしまったのだろうか。
「びっくりしたな。中野さん、早いんだね」
宗太はそう言うとごく自然に美沙が座るベンチの隣に腰を下ろす。
「木村さんこそ。彩乃は一緒じゃないんですね?」
「うん、彩乃とも現地集合ってことにしてたんだ。……中野さんも知ってると思うけど、彩乃は支度に時間がかかるから」
笑いながら言う宗太に、美沙は胸が少しチリっとするのを感じた。
彩乃が、頑固なくせっ毛をコントロールするために毎朝格闘しているのを、宗太は知っている。
彼らが付き合い始めてそろそろ半年。中学生でもないのだから、互いの部屋を行き来したり泊まることがあるのは当然か。
「ふふ、そうですね。彩乃は高校生の時から時間ギリギリの子だったので。木村さんも大変ですね」
「そうだね、俺は彩乃とは正反対でせっかちだから」
「へぇ。そんな風に見えないです」
小さく笑いながら、ごく自然な雰囲気を装って隣の宗太に顔を向ける。
前回会った時と同じく、整髪料を使わない洗いざらしのサラサラとした髪の毛に、白いオックスフォードシャツと黒いパンツ。
これと言って特徴のない服装だが、宗太の爽やかなルックスをより印象付ける出で立ちに、美沙は心の中で胸が鳴り出すのを感じた。
「あの……今日、私がいて大丈夫でしたか? 誘われるままついついOKしてしまったけど、もしかして木村さん迷惑じゃなかったかなって」
「いや、全然そんなことないよ。今日のことで言えば、彩乃はあんまり酒自体飲めないし、ビール党の俺としては色々飲んでみたいから、中野さんが来てくれてありがたいと思ってる」
そう言うと、宗太はあのふわっとした柔らかい笑みを美沙に見せる。
「美沙! そうちゃん! お待たせ!」
美沙と宗太が何気ない話を続けている間に、ようやく彩乃が到着した。
時計を見れば、ちょうど約束の1分前だったので、お咎めはナシにした。
「すごいよ! 色んな屋台がある! あ、今のうちに席を取ってくるね!」
イベントのメイン会場である広場に着くと、彩乃は歓声をあげ、次いで空いているテーブル席を見ると一目散に駆け出した。
普通はそれを男性に任せてもよさそうなものだが、彩乃はいつでも、自分がすべきことは人任せにせず自分で解決するのだ。たとえ走るのに不向きなヒール靴を履いていたとしても。
美沙はそんな彩乃が大好きで、誰よりも尊敬している。宗太もそう思っているだろう。
広場の中央の大きな噴水を取り囲むように配置するテーブル席の、ちょうど噴水に近いところを、彩乃は抱き着くようにして陣取った。
「彩乃、ありがとな。飲み物とか食べ物は俺が買ってくるから、彩乃はそこで休憩してな。……中野さんは飲みたい銘柄決まってる?」
「私はあんまりドイツビール詳しくないので、木村さんにお任せします。ありがとう」
「そうちゃん、あとはお願いします!!」
広場を取り囲むように構える屋台へ向かう宗太を見送りながら、美沙と彩乃は対面で向き合う。
彩乃は今日も愛らしい。計算されたように整ったふわふわなボブヘアも、毎朝の彼女の努力の結晶だと知っていると愛しくなる。
それに比べ――美沙は自分をつまらなく思う。カラーを入れていない直毛は、彩乃と並べば地味の一言だ。実際、学生時代は彩乃と並ぶとそう揶揄されることもあった。
「美沙、今日の格好かわいい!!」
会って早々、彩乃が美沙の服装を褒める。カットソーに藤色のミモレ丈のスカートというごく普通の装いだが、スカートは確かに今日のために新調したものだ。
「ありがと。最近仕事が忙しかったから、ストレスでつい衝動買いしたの」
今日のためにわざわざ購入したなどと言えるはずもない。
「そうなんだ!すごくいいよ、それ!……そういえば彩乃、何でまだそうちゃんに敬語なの? 私たち同い年なんだから、もっと打ち解けてよ」
彩乃が頬をふくらませて非難する。
「だって木村さんに会ってまだ2回目だし、私が人見知りなの彩乃も知ってるでしょ」
「そうだけど! 美沙は私の親友なんだから、私の彼氏のそうちゃんと美沙だってもう友達だよ? 頑張って!」
これまで彩乃の彼氏は年上が多かったため、美沙も敬語で接することが当たり前だった。
しかし、宗太に関してはそれをやめろと彩乃は言う。
――今日宗太に会ってすぐ、彼が自然に砕けた口調になっていることに美沙はすぐに気付いた。嬉しかった。
しかし美沙が敬語のままでいたのは、自身の性格上のこともあれば、彩乃からのはっきりした許可が欲しかったという理由もある。
近しい関係になるということに、彩乃からの許可があれば、少しは罪悪感がなくなる。
つくづく、彩乃と違って打算的な自分が嫌になる。美沙はそう思った。