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彼女の選択

『1月6日、午後6時。あの公園で待ってます。返信は不要です』


 それはほとんど勢いだった。

 ただこのまま黙って何かを失うのではなく、一世一代の行動を起こしてみようという、美沙のエゴでしかなかった。

 メッセージを送信したその瞬間、美沙の気持ちはそれだけで少し満たされた気がしたし、これを読んだ宗太のことなどほとんど考えてもいなかった。 

『どうするか決めるのは美沙自身だ』

 雄吾のそんな言葉で決意した行動だが、そもそも雄吾はそんなつもりであの言葉を言ったわけではないだろう。

 そんなものは言い訳で、ただ今の美沙の欲求を満たしたいがための、何の意味もない衝動だった。

 だから指定日を一週間以上先にした。

 自分自身のこの気持ちですら、一週間も続くかどうか懐疑的だったのである。

 現に、一秒一秒時計が時を刻むごとに、どんどんと後悔が押し寄せる。

 宗太はもうこのメッセージを読んだだろうか。

 どんなに恥知らずな女だと思っただろうか。

 はなから来てもらうことなど期待してはいないが、自分自身に素直になることよりも、自分の品位を落とすようなことをしない選択をすべきだったのではないか。

 間違った選択をしたかもしれない。いや、きっとそうだ――。

 そう思うと美沙はますます恐怖と後悔に襲われる。

 メッセージが既読になったかどうか確認するのが怖い。

 結局この日は、スマートフォンの電源を落として眠りについた。


 翌日からは毎日これでもかというくらい予定を詰め込んだ。

 部屋の大掃除、実家への帰省、旅行、友人と会って飲み会の予定を入れて。

 とにかく宗太のことを考えなくて済むように。

 それでも正月休みはあまりに長く、美沙は既に自宅のソファでうつぶせに倒れ込んでいた。

 衝動的な行動から3日も経ってみれば、もはや後悔しか残っていなかった。

 恥ずかしい――。

 親友を捨ててまで宗太を貪欲に求めようとする自分の姿は、理性を失った獣だ。

 勇気を出して宗太とのトーク画面を開くと、美沙が送ったメッセージはしっかりと既読になっている。

 返信はない。不要と言ったのだから当然だが。

 気が付けばX DAYは3日後だ。

 その日が来るのが恐ろしく、美沙の気持ちは既に正月どころではなくなっている。

 そうしている間にも、雄吾からは相変わらず定期的にコンタクトがあった。

 送られてくるメッセージは、 雄吾の実家のこと、友人と飲みすぎて元旦から寝込んだこと。美沙はどうしてるか?といった、別れたとは思えないほどごく日常的な内容だ。

 あまりに自然体な雄吾の態度に、美沙は本当に別れたことを理解しているのかと些か不安に思ったが、

 宗太のことで波立つ心を鎮めたいと思い、いけないと思いつつ雄吾の問いかけに応じてしまう。

 

『何にもしてないよ。色々予定入れたけど、今年は休みが長すぎてもうやること尽きた』


『こんなに長くなくてもいいな。俺もう家で仕事しちゃってるわ。んじゃ、デートでもしようか?』


『それはダメ。私は奥村とは別れたんだよ。こんなやりとりしてて言うのなんだけど…』


『いいじゃん、今のとこは友達に戻ったってことで。今まで待った時間が長すぎて、今さらこんなのどってことないんだよ俺は』


 美沙はそれまでテンポよくタップし続けていた手をしばし止めた。


『私が最低な人間だってことはもう分かったでしょ。それなのにそんなことを言ってもらえる資格なんてないよ』



『そりゃまぁショックはショックだよ? が、俺は別に性格の良い子を好きになったわけじゃないからなぁ』


『そんなもんなの? 普通、あんなにひどいことされたら友達でだっていたくないって思うけど…』


『中野は重すぎんだよ。お前恋愛経験少ないだろ』


『うるさい』


 雄吾の呼び方が「中野」に戻っていることに、少し心が痛んだ。


『そんな一つ一つを真剣に考えすぎると気持ちが持たないぞ。もっと軽くカジュアルに考える恋愛だってあるんだぞ。てか、真面目ちゃんなお前にはそれくらいが合ってると思う』


 美沙は言葉に詰まる。

 雄吾の言うことが本当に正しいのかは疑わしいが、美沙の恋愛に対する思考がいちいち重たいのは自分でも自覚している。

 そして、それが美沙の真面目な性格や恋愛経験の少なさからくるものだというのも、図星なのだろう。

 そう考えると、今はまさに恥ずかしさしか残っていなかった。

 あんなに魅力的な宗太のことだ。恋愛に関してもそれなりに場数を踏んで、それまでの相手の女性もさぞ知的で男性をあしらうことに長けているようなタイプばかりであっただろう。


 ――面倒な女に関わってしまった――


 もしかしたらそんな風に思われているのではないだろうか。

 そう考えた瞬間、身体がカッと熱くなり、美沙は手近にあったクッションを顔に押し付けた。

 

 どんなに1日1日が長かろうと、人の意思とは無関係に時は流れ続ける。

 正月休みも最終日。

 つまり、X DAYを迎えてしまったのだ。

 昨日まで後悔と羞恥心でもがいていたが、いざその日を迎えれば驚くほど静かな心持ちだった。

 無論、覚悟が決まったわけでも何でもないが、少なくとももうジタバタしたりしない。

 しかし、相変わらず迷い続けてはいる。――行くのか、行かないのか。

 

『年を取ってもずっと仲良く楽しく生きていくの。私は美沙とそんな風に生きていきたいな』


 彩乃が右耳で囁く。

 それを目を閉じて反芻する。

 それから宗太の言葉を待つが、いつまで経っても彼は何も言わない。

 どうして――と考えたが、思ってみれば宗太と言葉を交わした回数など、彩乃に比べればほとんどないに等しいことに今更気付いた。

 どんな幸せを2人で感じて、どんな苦しみを二人で分かち合ったか。

 思い出そうとするには、美沙と宗太の歴史はあまりに浅すぎた。

 この恋は本物だと思った。今も本物だと思っている。

 でも、語れるものは何もない。

 それが美沙の不安と彩乃への懺悔の念をより一層強くした。

 もう遅い。――何もかもが遅いのだ。

 美沙はマスカラが下瞼に付くことも厭わずに固く目をつむった。

 泣くつもりはなかった。

 ただ、自分が取るべき最善の行動を、最後の最後まで考え抜くつもりだった。


 

 そして今、美沙は黒く染まった空の下を歩いている。

 休日でもオフィスビルの明かりが煌々と輝くことに些か驚く。

 周りを見てそんなことを思う余裕もあり、足取りも決して重くはなかった。

 時刻は午後7時を回っていた。

 美沙が指定した時刻を1時間も過ぎているのだ。

 これが美沙の出した答えだった。

 いや、答えを半分放棄したという表現が正しいか。

 結局、自分のしたことが恐ろしくなってしまったが、結果を見届けないという覚悟もなく、こうして約束の時間を守らずにのこのこと現れようとしているのだ。

 時間を過ぎているのだから宗太はいなくて当たり前。

 そうやって自分にエクスキューズをして逃げようとしている。

 卑怯なのは十分承知しているが、人の道ならぬことを既にしてしまっていれば、そんなことは気にもならない。

 それでも、仄かに灯る街灯がポツポツと浮かび上がるだけの真っ暗な公園の入り口に立った時は足がすくんだ。

 単純に、夜の待ち合わせ場所にするには不気味すぎたと後悔しながら、美沙は先ほどよりも歩調を緩めて中へと進んでいく。

 当然のことながら、宗太はおろか、人の気配を微塵も感じない。

 いつも美沙と宗太が会っていた木陰のベンチの方はさらに街灯の数も乏しく、まるでお化け屋敷の中を進むかのような心持ちだ。

 見えない足元が恐ろしく、覚束ない足取りで少しずつ奥へ奥へと進む美沙だが、やがてふと立ち止まると、おもむろにその場に腰掛けた。

 宗太が現れるならばここであろう、つかの間のランチタイムを共にした思い出の場所だ。

 もちろんその場には美沙以外誰もいない。

 分かっていたことだったから何も感じなかった――と思いたかったが、美沙の胸の奥の奥が、ほんの少しだけチクリと痛むのを無視することはできなかった。

 自分からわざと会わないようにしたのに、宗太がいなかったことに傷ついている自分。

 刺すような冷たい夜風が今夜は心地よく、美沙はそのまましばらく宗太への想いと向き合うことにした。

 宗太と交わした言葉を思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは彼のどこか困ったような柔らかな微笑みだけ。

 美沙の頭の引き出しにある彼の姿は、たったその程度なのだ。ろくな言葉も交わしてこなかったくせに、何の間違いか運命だと感じてしまった。

 でも、今。

 やはりあの笑顔が恋しい。

 熱いものが喉元をこみあげ、それがそのまま目から頬を伝って一筋の道を作った。

 

「来なければよかった」


 しばらく目の前の真っ黒な木をぼーっと眺めていたから、いつの間にかそんな言葉が口をついて出たのだと思った。

 異変を感じた美沙がびくりとして声の方向を振り返ると、そこには背の高い細身のシルエットが薄暗い街灯にほのかに照らされて浮かび上がっていた。

 

「木村さん……?」


 美沙は信じられない気持ちで呟き、立ち上がってその影を凝視する。

 こんなところにいるはずのない人物がぼんやりと夜の闇の中に現れる様は、もしかしたら美沙の願望が見せる幻なのかもしれないと本気で思ったのだ。

 その幻は何も言わず美沙へ近づき、やがて形をはっきりとさせていった。

 悲し気に、顔を歪める宗太その人だった。

 

「さすがにもういないと思って来たんだけどな。予想外でちょっと動揺してる」


「私も……今来たんだよ。この時間だったら絶対にもういないと思ったから。」


 宗太は、そうか、と呟くと小さく苦笑した。


「じゃあ俺たち、結局2人して同じことを考えて、2人して当てが外れたんだな」


 宗太はなぜかふっと息を吐くと場違いのように軽く笑うが、美沙にとってみれば全く訳が分からない。

 宗太はなぜここに来たのか。

 ここに来たということは、それはつまり――。


「美沙」


 美沙。宗太の声色で再び紡がれたその言葉が頭の中で何度も反響する。

 信じられない。そんなはずはない。


「待って。お願いだから間違えないでほしい。ごめんなさい、私のせいで木村さんもきっとおかしくなってる。でも、本当に大切にすべきものを間違えちゃいけない」


「あれ? 俺呼ばれてきたんじゃなかったっけ?」


 宗太がおどけて笑うが、美沙にしてみれば必死だ。


「私……ごめんなさい。こんな風に呼び出したけど、ずっと後悔と恥ずかしさで一杯だったの。木村さんと2人で会ったのなんてほんの数回で、どんな話をしたか思い出そうとしても大した内容が出てこないくらいの短くて浅い関係性なのに。どうしてこんなことしたんだろうって……」


「俺が来て困ってる?」


「……分からない。このシチュエーションは予想もしてなかったから。でも、私たち、正しい道を選ばなきゃいけないよね? もう誰も傷つけたり裏切ったりしちゃいけない」


 美沙は再び静かに涙を流す。

 

「うん……俺もそう思ってたよ。だから本当は来ないのが正解だったし、そこに迷いがあったからこうして遅れて来た。でも、俺たちはそれでもこうして今ここで今向かい合ってるよ」


 呼び出したはずの美沙よりもよっぽど意思の強い目で宗太は美沙を見つめる。

 美沙が問いを投げかけ、答えるのは宗太であったはずだ。

 それが今、逆転している。

 

「この答えが正しくないのは分かってるんだ。俺だって自分のしてることが怖いと思うよ。でも、そう分かっていてもこの瞬間の感情を選んだのは俺だ。だから」


 ――君の選択を聞かせてほしい――

 宗太が左手をそっと差し出す。

 その時美沙の頭を高速でよぎったのは、彩乃のこと、雄吾のこと、世間体、今後のこと、ここまでして彼とうまくやっていけるのかということ。

 でも、それらが何周も頭を回るうちに、とうとう考えるのをやめた。

 今、美沙は一人じゃない。

 両手で宗太の左手をそっと握る。

 その瞬間に、宗太が美沙の身体ごと手前へ引き寄せた。

 宗太はそのまま美沙の身体を抱きしめ、美沙も初めて安堵の思いで全身を預ける。

宗太の柔らかな香りに、泣きたくなるような幸せが込み上げる。

そして覚悟する。この先の苦難も苦しみも、待ち受けるものすべて。

 そして宗太の耳元にそっと囁くのだ。


「一緒に地獄に落ちよう」




 


 

 

 

 

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