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苦悩

 宗太は働き始めてから初めて、その日を沈んだ気持ちで終えた。

 年末の仕事納め。本国から来ている上司は軒並みクリスマス休暇に入っており、今日は取引先への挨拶周りのみで締めくくるという、一年で最も気楽な日だ。

 同僚は宗太を飲みに誘ったが、そんな気になれない宗太は残務処理を理由にそれを断った。

 上司に見咎められればすぐ様指摘されたであろう、ダラダラと生産性なくパソコンのキーボードを打つ手は、しかし一定のタッチ音を響かせて止むことはない。

 家には帰りたくなかった。

 一人でいれば、どうにもならないことをあれこれと考えてしまいそうだ。

 オフィスで手を動かしていれば、少しはそんな気持ちも紛れるだろう。

 無駄な残業や非効率な働き方には否定的だった宗太だが、今はそんな自分が嫌っていた人間に成り下がっている。

 これだから――。宗太は一人ごちた。

 心を乱されるのは嫌いだ。

 心がかき乱されるとこうしていつもの自分じゃいられなくなる。

 兄が輝かしい功績をあげて称賛される度に、焦って追いつこうと背伸びをして猛勉強し、身の丈に合わない学校に入り、そのまま兄の背中を追って東京に就職した。

 仕事に充実感はある。

 しかし、やはり東京にはまだ馴染めないし、この選択を取った自分は本来の自分ではなかったのではないかと宗太は今でも思ってしまう。

兄に並ぶことを一度選んでしまったら、ずっとそこから抜け出せないでいる。

 だから、決して自分を見失ってはならない。人生に誤った結果を持ち込まないために。

 そうやって気を付けてきたはずなのに――。

 気が付けば、宗太はかつてないほど大きく道を逸れていた。

 過ちのスタートがどこで、分岐点が何だったのかももう分からない。

 ともかく、彩乃が美沙とのことに気付いたのは間違いなかった。

 彩乃はそれを責めなかった。

 いや、責めたい気持ちは十分にあったはずだが、少なくとも彼女はそれをしなかった。

 あれからまだ宗太は彩乃と会ってはいないが、彼女は何事もなかったかのように宗太の出張を労い、それまでと何ら変わらないやりとりを続けている。

 それがかえって宗太の自責の念を助長させるのだ。

 彩乃はもともといじらしい性格ではあったが、今はそれを通り越して重傷なほど痛々しい。

 そしてそんな状態にまで彩乃を追い詰めたのは、紛れもなく、彼女の笑顔を守る立場であるはずの宗太なのだ。

 その真実が受け入れがたく、宗太は美沙からの突然の告白を迷いもなく断ち切った。

 その瞬間はホッとした。

 まだ正しい道へ修正できる理性が自分の中にあるのだと分かったからだ。

 常に全体最適を考えなくてはならない。目先の餌や利益に食いつくな。自分の心が一番平静でいられるベストな道を選ぶのだ。

 美沙は笑っていた。

 涙を流していたが、なぜか、どこか晴れやかに見える口元で笑っていた。

 なぜか宗太はそれに胸を打たれた。

 美沙の纏う、こういった空気感を表現する言葉が宗太には見つからない。

 彩乃のいじらしさやひたむきさとはまた少し違う。

 儚くて寂しげなのに、寄りかかるのを拒むかのように自分の足でしっかり立つ強さのようなものを感じる。

 彩乃の笑顔は守りたいと思う。

 美沙のことは、隣で見ていたいと思う。

 いつの間にか手を止めてそんなことを考えていたことに気付き、宗太はこめかみを指で強く揉む。


「ベストな選択をしたんだろ、俺は……」


 宗太は頭を冷やすために席を立ち、給湯室にある自動販売機で、柄にもなくブラックコーヒーを買った。

 缶コーヒーなどうまいと思ったこともないのだが、とにかく今は少しでも目が覚めるきっかけが欲しかった。

 そのまま席にはつかず、執務スペースの窓際に立って東京の夜景を見下ろす。

 そうしたところで徐々に頭が冷静さを取り戻していくのを感じる。

 考えれば考えるほど、美沙に好意を持った理由は不純だと思った。

 特段目を引く容姿でもなく、際立った才能や個性があるわけでもない。彩乃の隣にいれば一見霞んでしまうような女性だ。

 それでも、彼女に対して安らぎを感じる自分がいた。

 美沙の前では、木村家の兄に次ぐ優秀な次男坊でいる必要も、理想の彼氏でいる必要もないような気がしたのだ。

 なぜかと言われれば何となく、としか答えられない程度の感覚だが、どこか自分と似ている気がしたのかもしれない。

 美沙に対する思いとは、そんな自己中心的なものなのだ。

 それだけで触れたいと思ったり名前を呼んでみたくなる理屈を宗太は持たないが、そもそも説明のつかない気持ちなど本物であるはずがない。

 胸の奥底の方でチリっとした痛みを感じたような気がしたが、そんなことにはもういちいち関わらないことにした。

 これからは傷つけた彩乃の心を修復し、彼女に誠心誠意償うつもりだ。

 宗太は嫌な苦みのあるコーヒーを飲み干すと、自席に戻り片づけを始めた。

 パソコンをシャットダウンして机の上を整理し、時間を見ようとスマートフォンを手に取ると――。

 そのまま画面から目が離せなくなった。

 もう二度と見ることはないと思っていた、美沙からのメッセージがそこに表示されていた。


 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


次で最終回になります。

少し体調が悪く、思うように筆が進まないのですが、頑張ってラストまで走ります。


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