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覚悟

 彩乃からの電話はいつの間にか切れていた。

 どうやって家まで辿り着いたのか思い出せないが、廃人のような顔をしてボロボロになりながら歩いていたのだろう。

 玄関で靴を脱ぐ気力すらない美沙は、そのまま冷たいタイルに座り込んだ。 

 彩乃は美沙のしたことを全て分かっていた。そして、その行き着く先がどこなのかも。

 分かっていなかったのは美沙の方だ。

 彩乃を裏切る。そんな単純な話ではなかった。

 彩乃が克服した過去を否定し、宗太にもその片棒を担がせ、彼女を底知れぬ孤独の中に追い詰めた。

 少し考えれば分かったはずなのに――結局のところ、美沙は自身の恋愛に浮かれていたのだ。

 彩乃の犠牲の上に成り立っていたほんの一時の快楽に。

 宗太も彩乃が気付いていたことを知ったのだろう。

 美沙は宗太の苦しそうに歪められた顔を思い出す。

 宗太の笑顔が好きだったのに、あんな顔をさせたのは同じく美沙のせいだ。

 自分が彩乃と宗太を不幸にした。

 美沙は頭を抱えた。今更だ。そんなことをしても今更だが、ただ今は己のしたことに懺悔と後悔をしながら震えているしかなかった。

 しばらくすると手先足先も氷のように冷えて、ようやく美沙は震えているのが罪悪感からだけではないことに気づく。暖房もついていない部屋の玄関は凍えるようだ。

 鉛のように重たい体を引きずるように持ち上げて、美沙はベッドに倒れこんだ。

 美沙の恋は終わった。

 彩乃と話すより前に、もう終わったのだ。

 しかし、それで彩乃と元の仲に戻れるわけはない。

 結局美沙は失うのだ。彩乃と宗太の両方を。

 仕方がない。彩乃の恋人だと知って宗太を好きになった美沙の当然の報いだ。

 では、このまま何もなかったかのように雄吾と本格的に付き合い始めるのか。

 ――そんな都合のいい話はない。

 美沙が裏切っていたのは彩乃と宗太だけではない。雄吾も被害者だ。

 付き合うという返事をしておきながら平気な顔で宗太に会いに行った美沙の行いを、鬼畜と言わず何と言うか。

 クリスマスイブの前日も、今日のことも。

 どうして宗太のもとへ走る前に

 美沙は雄吾との6年間の思い出を汚した。

 それがどれだけ雄吾の人格を傷つけることか、どうしてあの時に考え付かなかったのか。

 美沙は己の浅はかさにベッドの上で膝を抱える。

 今日が仕事納めでよかったと思う。

 こんな精神状態で平静を装って仕事をするのは無理だ。

 

 しばらくの間、頭を膝にうずめていると、来訪者を告げるインターフォンが大きく一度響いた。

 無音の室内で鳴るそれは、美沙を震え上がらせるほど不気味に感じる。


「彩乃……?」


 美沙はゆっくりと頭をあげると、玄関の方を見つめる。

 こんな時だけだが、たまに、もっと新しいマンションに住むんだったと思うことがある。

 高いとは言えない給料の中で一人暮らしをしているので、駅近・築浅物件は諦めた関係上、モニター付きのドアホンではないのだ。

 とても人と話す気にはなれないが、来訪者が彩乃ならば話をしなければならない。

 いや、何時間でも罵られなければならないと思う。

 美沙はそろそろと起き上がり、姿見で自身の顔を確認してから、さらにもう一度ベル音が聞こえる中、玄関に近づいてドアスコープを覗いた。


「え……奥村……?」


 小さい円形の真ん中に佇んでいるのは雄吾だった。

 心なしか焦ったようなイライラしたようにも見える。

 どうしたらよいか分からず、しばらくその様子を観察していると、やがて雄吾は諦めたように美沙の視界から姿を消す。

 

「あっ……」


 思わず美沙はドアを開けてしまった。

 突然のドアの開く音に驚き振り向く雄吾とまともに目が合う。


「……美沙。なんだ、いたのかよ」


 雄吾はあからさまにホッとした顔をして引き返してくる。


「……うん、ごめん、ちょっとうたた寝しちゃって出るの遅れたの。奥村、どうしたの?」


「どうしたのじゃねえよ。急に納会からいなくなって、何回もお前に連絡したのに全然出ないから心配になってきたんだよ」


「えっ!? ……ごめん、全然スマホ見てなくて」


「あぁ、そうだったんだ……。お前が何も言わずに納会の途中でいなくなるなんて今までなかったから、ちょっと俺も心配しすぎた」


 雄吾はそう言うとバツが悪そうに頭をかいた。

  

「今日は……約束してなかったよね?」


「あ? まぁそうだけど」


「私が家にいなかったらどうしたの?」


「いやそしたら帰るけどさ。……ちょっと待て。お前が帰ってくるまで家の前でずっと待つような粘着質な男じゃないぞ、俺は」


「私がいる保証なんてないのに、奥村はわざわざここまで来てくれたの?」


 ためらいがちに尋ねれば、雄吾は愛娘がダダをこねるのを仕方ないと見つめるような、眉尻を下げた表情で言うのだ。


「だって彼女だろ?」


 その酷く優しい声の響きに、美沙の心臓がツキンと痛んだ。

 目の前の男は、心から美沙を想っている。


「ごめんなさい」


「え?」


 気が付けば、美沙は思わず懺悔するように呟いていた。

 

「……ごめんなさい。ごめんなさい。奥村。私はやっぱりダメなの。奥村の気持ちには答えられない」


 美沙は震えながら言葉を絞り出す。

 

「私は奥村を裏切ってた。こんなに大事にしてもらってるのに、私は木村さんを忘れらなかった。ずっと気持ちを隠したまま奥村と付き合ってた。でももう限界。これ以上は……」


 うわごとのように繰り返し、目をぎゅっとつぶる。

 目の前にいるはずの雄吾はただ黙っている。

 何か言ってほしい。

 美沙のしたことを責め、許さないでほしい。罵りの言葉でもいいから、何か――。


「分かってたよ」


 雄吾は美沙の無言の願いに答えるようにぽつりと言った。

 意外なほど穏やかな声音だった。


「美沙が俺の向こうにまだ誰かを見てること、分かってたよ。それを承知したうえで俺はお前と付き合ってるんだ。謝ることはない。……この先、少しずつでも俺の方を見てくれれば」


 いつもの力強い雄吾の声だが、最後の部分だけ、ほんの少し弱気な部分が見えたのは気のせいだっただろうか。

 それはまるで、小さな子供が親の愛情を確かめるような、そんな切実さを滲ませている気がしたのだ。


「いいわけないよ……。あのクリスマスイブの前日、私、木村さんと会ってたの。本当にただの偶然の積み重ねだったけど、会わない選択肢を取ることだって可能だった。でも私は、好きだったから行ったの。彩乃も奥村もみんな裏切って」


「…………そいつと付き合うのか?」


「まさか。フラれたよ。奥村の言うとおり、やめておけばよかったのに……。親友を傷つけて、奥村のことも踏みにじった」


「なら、いい。許す。だから今度こそ俺と向き合えよ」


「ダメ。奥村、お願い。私を許さないで。許されてしまったら、私はもっと自分を嫌いになる。……ごめんなさい。本当にごめんなさい。……もう、続けられない」


「……俺は、お前を諦めないよ。どんなお前だって俺は……」


 振り切っても赦しの手を差し伸べようとする雄吾の甘い誘惑から逃れるため、美沙は耐えきれずにドアを閉めた。

 扉の外の雄吾からの反応はない。美沙の態度に傷ついたか、今は何を話しても無駄だと判断したか。

 いずれにしろ、終わった。こうして雄吾のことも手ひどく扱って。

 しかし、このまま雄吾を騙して付き合い続けていくより、ほんの幾分かマシな気はしていた。

 そんなことは美沙の自己満足に過ぎないのかもしれないが。

 何をする気力も起こらず、ただベッドでうつぶせになり、ちょうど視界に入るチェストの上の小さな観葉植物を、輪郭がぼんやりするまで永遠と見続けていた。

 好きな人と親友と好意を寄せてくれていた友人とを一気に失くした。

 それはまさしく絶望と言っていい状況であるはずなのに、不思議なほど周りの景色も時間の流れもいつも通りだ。

 もっと泣いたり喚いたり、自暴自棄になるものではないのだろうか。

 それが絶望の谷底に落ちた人間のあるべき姿だと思っていたから、美沙は今の自分に違和感を覚えざるを得ない。

 空腹な自分に気付けば、ファストフードが無性に食べたいなんてことを考える余裕もある。

 今の自分が一体どこにいるのか、美沙にはよく分からなかった。

 そうしているうちに、床に放っていたカバンの奥底の方でスマートフォンの振動音が、シンとした部屋の中で微かに響いた。

 今度こそ彩乃か、それとも雄吾だろうか。どちらにしろ確認するのは怖い。宗太である可能性はとうに諦めている。

 しばらく現実逃避するように身動きせずにいたが、やがて美沙は覚悟を決めたようにカバンを引き寄せ、勢いで画面を見る。

 雄吾からのメッセージだった。


『俺は諦めないし、ずっと待ってるから』


 美沙は顔を歪めた。

 画面を閉じようとしたところで、もう一つメッセージが入る。


『どうするか決めるのは美沙自身だ』


 どうするか。

 美沙は食い入るようにその文字を見つめる。

 このあと美沙はどうする?

 当然雄吾とは別れる。彩乃とも、このまま友人関係を続けられるほど厚顔無恥ではない。

 宗太のことは、彼の幸せを願って忘れるしかない。

 美沙の取れる行動はこれしかないはずで、どうするのかと言われても答えようがない。

 でも――。

 本当にそれしかない?

 自分が本当に望めば、その先にあるリスクも承知すれば、本当は違う選択肢もあるのではないか。

 本当は頭のどこかでいつもそれについて考えていた。そして、ありえないことだから、と一瞬で心の隅に追いやっていた。

 今、美沙は再び自分に問い始める。

 自分が選ぶべき道を。

  

 

 

 




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