燻ぶる炎
大倉商事株式会社は、主に缶詰製品や飲料を扱う、食品系専門商社である。
原材料の輸出入から加工・製造まで幅広く取り扱い、業界の中では第3位につける大手企業の一つである。
美沙は飲料営業部に所属しており、世界各地のワインの輸入業務アシスタントを担当している。
美沙は今年で入社6年目になるが、この仕事を気に入っている。ワインは好きだし、そのワインを通じて世界各地と繋がる感覚が何より好きだった。それがたとえ書類や電子上のやりとりであったとしても。
美沙はアシスタントなので直接営業活動を行うことはないが、仕事にやりがいとプライドを持っていることは確かである。
「中野、すまんが今日中にE社との商談を決着させる。契約書の用意と、契約成立後の発注作業を頼めるか?」
業務上のパートナーである新藤課長が美沙の席に来て尋ねる。
すまないと言いつつ、新藤の言葉はそれほど美沙に対して悪いとは思っていないのは明らかだ。
仕方がない。日本とE社のあるフランスとの時差は7時間。現地に合わせて仕事を進めようとすれば、どうしたって残業になってしまうのだ。
「はい、大丈夫です。課長、絶対決めてきてくださいね」
新藤はにやりと笑って斜め向かいの自席へ戻る。
契約成立後にすぐ発注となると――美沙はこれまでの経験からさっと所要時間を見積り――恐らく帰宅時間は22時を回ることになるだろう。
それでも問題はない。普段はそれほど残業があるわけでもないし、早く帰ったところで予定などない。
そんなことを思って、美沙はふと彩乃と宗太のことを思った。
今日は二人は何をしているのだろう。彩乃の好きそうなシャレた店で、食事でもするのだろうか。
彼の身長と同じようにスラっと伸びた指で、彩乃の柔らかい髪の毛に触れるのだろうか。
宗太の外見は、美沙にとってストライクど真ん中だ。
あんな恋人がほしいと思うものの、時々誘われる合コンにはどうしても足が向かない。
そうなれば会社と家を往復するだけの社会人に出会いなどあるはずもなく、美沙はいまだに独り身だ。
親友の彼氏にすら癒しを求めなければならない現状に、美沙はがっくりと肩を落とした。
「あー、侘しい……」
「何が?」
がっくりと首を落としたその状態で、美沙は頭上から声を掛けられたことに気がついた。
顔を見なくとも声で分かる。
「何、奥村」
美沙はゆっくり首を持ちあげると、面倒くさそうな表情で声の主に言い放つ。
傍に立っていたのは、同期で第一営業部所属の奥村雄吾だった。
「ため息ついて侘しいとか言ってるから何かと思って。あ、どうせあれだろ、『今日も残業明日も残業。それを労ってくれる彼氏はいない。このままじゃクリスマスもきっと一人。あー侘しい』だろ?」
あながち間違っていないところが美沙の癇に障る。
「うるさい。何か用?」
美沙はそのまま奥村の方を見ずにパソコンに向き直ると、カタカタと手を動かし始める。
奥村は気にした様子もなく、一枚の紙を美沙に差し出す。
「この内容で信用状を開設したいんだけど、システム申請の仕方が分からなくてさ。中野、分かるだろ?教えて」
奥村は、バツが悪そうに頭を掻いてへらっと笑う。
「何で奥村が? あんたのアシスタントはどうしたの?」
「一人は有給、一人は産休。もう一人はその皺寄せで爆発しそうになってて、とてもじゃないけど頼めなくてさ」
2つ隣の島の第一営業部をちらりと見やれば、ベテランアシスタントが恐ろしく不機嫌な様子で書類をめくっているのが見えた。美沙は同情の目線を奥村に向ける。
「あんたも大変ね。――見て。このシステムを立ち上げて、必要箇所を入力したあとに印刷ボタン。必ず誤字がないかここでチェックしてね。チェックが終わったら申請ボタンを押して完了よ」
「おお、サンキュー!助かった!」
「事務処理は奥村も覚えて損はないよ。そりゃ普段からやる必要もないけど」
「そうだな。こういう時のためにも、俺も実務を理解しないとな。サンキュ!」
奥村はそう言い残すと自席へ戻り、早速システムを立ち上げているようだった。
奥村雄吾は同期入社の中でも抜群に優秀な営業マンだ。
学生時代にラグビーで鍛えた体躯に似つかわしいフットワークの軽さと体育会系のノリの良さで、国内の取引先からの評判は上々だ。彼の場合はそれだけでなく、英語も堪能である。
海外営業もソツなくこなす彼が、女性社員から人気があるのは知っている。
仕事ができて女性の扱いもうまく、それでいてそれを鼻にかけない気さくな性格がウケているのだろう。美沙は軽い男は嫌いだが、奥村のことは認めている。
(ま、タイプではないけど――)
夕方になると、いよいよフランスの始業時間が始まる。
新藤課長は目の色を変えてパソコンに向かう。手元にはスマートフォン。
こうしてメールと電話を駆使して商談を決めることもままある。もちろん出張時に合意に持ち込むのが大前提だが、そうもいかないことの方が多い。
美沙はいつ号令がかかってもいいように、既に契約書のドラフトを用意している。特にこういった顔の見えない商談では、口頭の契約の後にすかさず書面を取り交わす必要がある。
「中野、今からそんなに緊張するな。まだしばらくはかかるから、今のうちに休憩しとけ」
新藤課長が美沙にそう声を掛ける。肩に力が入っているのが分かったようだ。
「分かりました。コーヒーでも買ってきます」
美沙は席を立ち、1フロア下のカフェスペースに移動した。来客時の応接もできるカフェテリアで、コーヒーや季節のドリンクを格安で飲めるところが社内でも人気だ。
美沙は、迷いなく窓際の2人掛け席に腰を掛ける。この全面窓ガラスの真下には、都会の中の日本庭園をコンセプトにした公園が一望できる。眼下に広がる緑の庭園や美しく整備された池を眺めるのが、美沙の休憩時の小さな楽しみなのだった。
カフェラテを一口含むと、目の前のスマートフォンがパッと明るく光る。
トップ画面には、SNSのメッセージ着信を告げるポップアップが見えた。
「彩乃だ。わぁ、オクトーバーフェスト? 楽しそう! ……え?」
彩乃からは、仕事中の美沙に対する労いの言葉と、今週末に日比谷で行われるオクトーバーフェストへの誘いのメッセージが簡潔に綴られていた。
戸惑いを隠せなかったのは、『そうちゃんも一緒に』という一言に対してだ。
(木村さんも来るんだ――)
初顔合わせから2ヵ月が経過していた。
あの時宗太に目を奪われたのは確かだが、あれから彼と顔を合わせる機会もなく、美沙もいつも通りの日常生活を送ってきた。
しかし、今――胸の奥の方で小さくザワザワとする感覚がある。
また宗太に会える。
(彩乃の彼にこんな風に感じるなんて絶対ダメ。これは)
断るべきだ。
しかし、そう思っているはずなのに、美沙の指はその言葉を打つことができない。
もう一度だけ会いたい。
顔を見て少し会話をすれば、きっと自分のこの悶々とした欲望もしぼむだろう。
芸能人と一緒だ。悩むほどに恋焦がれて仕方ないアイドルがいたとして、実際に一言言葉を交わすことができたら、その思いは美しく昇華される。
美沙の場合は、そこまでにだって至っていない。ただ、単純に宗太は理想の男性像であるだけだ。
(ただそれだけ。だから――何も問題はない。)
美沙は、言い訳をしている自分に後ろめたさを感じながら、彩乃に返信した。
『楽しみにしている』という自身の言葉が画面上にパッと現れた瞬間、美沙は小さく身じろぎした。
戻れるか戻れないか、ギリギリの選択をしてしまった気がした。
結局美沙は、約束の日当日まで、喜びと後悔と、交互に訪れる2つの感情の波に悩まされるはめになったのである。