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19/22

崩壊

「中野ー、頼む、請求書の発行の仕方教えてくれ」


 雄吾が困った様子で美沙のデスクまでやってくる。


「何、また奥村がそんなことしてるの?」


「俺もエースとしてこれくらいできるようにならないとな。……ってのはウソで、ベテラン上野さんがピリピリしてて怖くて頼めないのが正直なところだ」


 最後の部分だけコソっと耳打ちする。


「だろうと思った。もーいいよ、貸して。私がこっそりやっとくから」


 いつもの日常の美沙と雄吾のやりとりだ。

 つい先日、あんなに頭をクラクラさせるほどの触れ合いをしたとは思えない。

 あの時の雄吾には強烈に惹かれたが、やはりこうやってリラックスして軽口を叩ける仲でいる方がホッとする。

 パソコンのキーボードを打ちながらも、気が付くと美沙はそのことばかり考えていた。

 手を繋ぐことも、頬を触れられることも、キスでさえも嫌ではなかった。

 それでも、雄吾に完全に寄りかかってしまうことにブレーキがかかる。

 雄吾のことを考えれば考えるほど、頭の隅の方で宗太の存在がよりはっきりと浮かび上がるのだ。

 宗太の柔らかい声で「美沙」と呼ばれたらどんな風に胸が疼くのだろうか。

 あの時の雄吾のキスを宗太にされたらどうなってしまうのだろうか――。

 このまま宗太と距離を置いて雄吾と真剣に付き合うことにしても、この連鎖は終わらないのではないだろうか。

 もう美沙には自分から宗太を諦められる自信がなかった。

 散々彩乃を欺き、宗太と関わり続けることに慣れてしまった。

 きっかけが欲しいと思った。宗太を断ち切れる決定的なきっかけが。


 第一営業部を除いて、美沙の勤める大倉商事は年末最終日ということもあり、どの部署も早くも夕方からの納会モードに入っている。取引先もこの年の瀬に積極的に動くこともなく、美沙ものんびりと普段できない書類の整理やロッカーの片づけに勤しんだ。

 12時を告げるチャイムが鳴り、ふと、宗太のことを考えた。

 彼は今日もあの公園にいるのだろうか。

 数日前、さすがにもう行くのはやめると彼は言っていた。

 いない可能性の方が高い。

 しかし――。

 賭けてみようと美沙は思った。

 いなければ、宗太のことは無理にでも心の中から締め出す。

 もしいた時は――。

 その先を具体的に考えることなく、美沙はオフィスを飛び出していた。

 ただ自分が宗太に会うきっかけを探そうとしていたことは心のどこかで分かっていた。

 高層ビルの山の間をくぐり抜けて辿りついたあの公園は、少し見ない間にすっかり木々の葉が落ちきって陰気で寂しい雰囲気に変化していた。

 宗太の言う通り、通り抜ける以外にここで足を止める人はもういない。

 美沙は大きく息を吸い込むと、ゆっくりとした足取りで一歩一歩中へ進む。

 公園の中央にある池を通り過ぎてその奥の歩道へと近づき、美沙はそこで足を止めた。

 以前は道を覆いつくすほどの葉を湛えていた大木が、今は無数に分かれた枝だけを残し、その隙間から、人影のようなものを見つけた。

 いや、近づかなくても分かる。ベンチに座る人影だ。

 そして、こんな季節に、あんな場所に座っている人物は一人しかいない。

 ここまで来ておいて、近づくことを躊躇した。

 自分は何をしに来たのだったか。

 宗太に何を話すというのか。

 雄吾のことはどうするのか。

 高城由衣のように彩乃を泣かせるのか。

 たくさんのことが映画の二倍速のように次々と浮かぶが、美沙の理性はそれらを適切に処理する機能をもはや失っていた。


「木村さん」


 ゆっくりと近づいて声を掛ける。

 突然名前を呼ばれて驚いたように振り返る姿は、やはり木村宗太その人だった。


「中野……さん? どうして……」


 冬の刺し込むような外気のせいなのか、美沙を見つめる宗太は心なしかやつれているように見えた。


「偶然じゃないです」


 美沙はいつになくはっきりとした調子で言った。


「偶然じゃない。私は木村さんに会いにきたの」


 宗太は声を発せず、ただ目を見開いて美沙を見つめる。

 そんな宗太の態度をもう気にしたりしない。

 ただ、美沙の抱えている想いを放出できればそれでよかった。

 解放されたかった。胸をズクズクと痛めつけるこの感情から。目を閉じれば浮かぶ宗太の指先や眼差しから。

 美沙は宗太の真正面に立つ。


「好きです。こんなことは間違っているって分かっていても……木村さんが好き」


 そこまでひと息で言い切り、気持ちが怖気づかないうちに続ける


「ダメだって分かっていても木村さんのことが頭を離れなくて……苦しかった。諦めるためには、距離を置くだけじゃダメなの。ちゃんとこの気持ちを伝えて、一区切りつけないとダメだって思った。ごめんなさい、自分勝手なのは分かってる……」

 そう言ってから、やっと恐怖と羞恥心が言葉に追いつき、瞳を伏せる。

 何てことを言ってしまったんだろう。今更そんなことを思い、宗太の顔が見れない。


「……中野さん。隣、座って」


 そんな中、宗太がごく落ち着いた様子で言った。

その表情は何を写しているのかよく分からない。

 美沙はしばらく茫然としていたが、言われるがままふらふらとベンチの隣へ腰掛けた。

 それを待って宗太が口を開く。


「……中野さんと会っている間の穏やかな空気が好きだった」

 

 美沙は涙で曇り始める目で宗太を見やった。


「自分が自分でいられるような、心が安らぐ時間がすごく幸せで、君に会うのがどんどん楽しみになった」


「木村さん……」


「ただ物静かなだけじゃない。色んな表情を見るようになったら、もっと君のことを知りたいと思うようになって引きこまれていった」


 美沙は目を閉じて、眼窩に溜まった涙を頬へと押し流す。

 今、美沙の存在は他でもない宗太に肯定されている。心が震えるほど嬉しい。


「2人で会った時間なんてほんの少しだったけど、間違いなく俺は中野さんに好意を持った」


宗太は意を決したように息を吸い、だけど――と続けた。


「彩乃を悲しませることはできない」


存外はっきりとした声色でそう言った。

美沙はそんな宗太の、膝の上でぎゅっと握られた拳を見ながら冷静に微笑む。


「うん」


不思議と穏やかな気持ちだった。

ここまで言ってもらえたら、あとは美しい思い出にできる。

それでも頬を伝う涙は止まることはなかったが。


「私も彩乃が大事だから、それでいいの」


宗太がそう言う美沙の横顔を見つめる。

泣き出しそうに目元を歪めた、悲痛な顔だった。

どちらからともなくその場から立ち上がると、目に焼き付けるようにお互いの顔を見つめ合う。

これが最後なのだというように。


「話を聞いてくれてありがとう。……それじゃあ」


「美沙」


 美沙が踵を返そうとしたその時、宗太は小さく呟くように、しかし間違いなく美沙の名前を呼んだ。

 それはまるで、壊れ物を丁寧に包むかのような優しい響きを含んでいた。

 美沙は信じられない気持ちで宗太を見つめる


「ごめん、最後に名前を呼んでみたかった」


「っずるい……どうして最後の最後でそんな……」


「うん。ずるいよな。本当に。ごめん」


 そう言った宗太は、初めて見るような苦し気な薄い笑みで目を伏せる。

 そんな顔を見ていられず、美沙は何も言わずにその場から駆け出した。

 早歩きで風を切れば、冬の乾いた空気がこみ上げる涙を枯らせていく。

 涙の量と悲しみの深さは比例しないが、少なくとも泣くことをしないだけで美沙の心の表面は驚くほど平静を保っていられた。

 考えることを一時停止させただけなのだが、今はそれで十分だ。

 午後の仕事と納会の間だけ耐えて、家に帰ったら好きなだけ泣くなり宗太を想うなりすればいい。

 そうして明日からは少しずつ宗太を忘れ、年が明けると共に自分の気持ちも一新するのだ。

 美沙は残りの仕事を無心で終わらせ、毎年晴ればれした気持ちで参加していた納会を頃合いを見計らって抜け出すと、雄吾に見つからないようにそっとオフィスを抜け出した。

 今は雄吾には会えない。

 どんなに美沙がうわべを取り繕っても、雄吾には全て見透かされてしまうのだろうから。

 

 年末の解放感で浮かれているのであろうサラリーマンの波をかき分けて家の最寄り駅に着いたところで、美沙のスマートフォンが振動しているのに気付いた。

 一番親しい、しかし今日ばかりは胸が痛む相手からの着信だった。


「もしもし、彩乃?」


「…………美沙?」


「うん、どうしたの? 何かあった?」


「今、帰り? 話しても大丈夫かな」


「うん、もうすぐ家に着くところだから大丈夫だよ」


 駅前の喧噪が電話するのに邪魔で、美沙は音量を上げた。

 彩乃の声が遠い気がするが、どこか電波の悪いところにでもいるのだろうか。


「いきなり電話してごめんね。美沙、今年は帰るの早くない? いつもはこの日毎年部署の人達と飲みに行ってなかったっけ?」


「うーん、そうなんだけど、今年はちょっと気分が乗らなくて。だから早く帰ってきちゃった。彩乃はもう家にいるの?」


「うん、家だよ。この前お酒で失敗しちゃったばっかだし、怖くなっちゃって」


「そうね。またひどい二日酔いになっちゃうと困るし、今日は帰って正解だったかもね」


「うん、でも。一人の年末ってこんなに寂しいんだなぁって思って。思い出してみれば、この時期を一人で過ごしたことなかったかもしれない。学生の時は家族がいたし、社会人になったら会社の人や彼氏がいたりして。美沙とも何度も一緒に年越ししたよね」


「そうだね。年越し、楽しかったね。でも今はもう無理だよ。眠くって夜明けまで耐えられないから」


 からからと美沙は笑ってみせる。


「実家に帰ったら? おじさんもおばさんも喜ぶよ」


本当なら親友である美沙が彩乃を誘うべきなのだろうが、今はとてもじゃないが彩乃に会うことはできないし、宗太と会わないのかと聞く勇気もなかった。


「……違うよ美沙」


 彩乃が電話の向こうで小さく呟いた。


「一人で過ごすのは寂しくない。寂しいのは、孤独だからだよ」


「彩乃……?」


電話越しの彩乃は涙声だった。


「私は一人だよ、美沙」


美沙は言葉を失った。

 彩乃は、きっと全てを知っている。


「私……また一人なの? 周りに人がいるのに、本当は誰も私のことを見てくれてなくて……それ、まだ続くの……?」


「彩乃……違う。違うよ」


 美沙は片手で顔を覆った。

 こうなることは予想していたはずだ。予想していながら、それでも宗太を好きでいる覚悟を美沙は決めたはずだ。

 しかし、本当に覚悟はできていたのだろうか。


「美沙……美沙は私の友達だよね? これからも、ずっと親友でいてくれるんだよね?」


 互いに結婚しても、年を重ねても、寄り添って生きていきたいと思っていた。


「彩乃……ごめん。ごめんなさい……」


 住宅街の歩道の真ん中で、美沙はすれ違い様に歩行者がチラチラと見るのを気にもせずにうずくまった。


「美沙……なんで謝るの? 嫌よ。お願いだから」


 自分の犯した罪の重さを理解できていなかった。

 彩乃を壊してしまった。


「そうちゃんを取らないで。私を一人にしないで」


 そのままお互い言葉を紡げず、永遠にも近い何十秒間をただ嗚咽するしかなかった。

 




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