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疑惑

 女の勘は鋭いとよく言われるが、それは自分に限っては当てはまらないと彩乃は思っている。

 人の隠れた悪意にも気づかず、上辺だけの笑顔に騙されたことが今まで何回あっただろう。

 それでも、今の宗太は彩乃の目にも分かるほど、何か様子がおかしかった。

 彩乃がなかなか思うように会えない宗太へのジレンマをぶつけるかのように挑んだ忘年会の、そのツケで苦しんだ翌日、宗太は海外出張に出る前のほんの少しの時間を割いて彩乃の部屋を訪れた。 

 嬉しかった。

 無理をしてまで気にかけてもらえる存在なのだと、少しでも感じることができたからだ。

 自己肯定感が低いのだと、彩乃は自分でも自覚している。

 いつからだと遡っても分からない。

 学校という所に上がった頃から常にそうだった。

 自分はただ仲良くしたいだけなのに、謂れのないことで無視をされ、苛められた。

 中学、高校になるともっと事態は複雑化した。クラス内外の女の子がニコニコと寄ってくるのだ。

 それが嬉しくて喜んでついていくと、次第に何か違和感を感じていった。

 仲間に入れてもらえているようで、そうでない。グループの中にいるのに常に孤独。

 そもそも彩乃はグループでいることに特別関心はなかった。

 だからどんなクラスメイトにも積極的に話しかけ、それがきっかけでグループのメンバーからは不興を買った。

 それはとても悲しいことだったが、美沙と付き合うようになってその頃の孤独の訳がようやく分かった。

 彼女達は彩乃の人格を尊重してくれたことは一度もなかったのだ。

 彩乃をアクセサリーや所有物として扱い、彼女の言葉や存在は本当の意味で必要とされていなかった。

 彩乃がこれまで付き合ってきた男性とて同じだ。

 ある時は腕時計代わり、ある時はブランドの洋服代わりをさせられていた。

 そうでない男ももちろんいたとは思うが、今となってはよく分からない。

 優しくて彩乃の存在を無視しない男であれば、彩乃は告白を断ることは滅多になかった。

 自分には人を見る目もなく勘どころも悪いから、付き合ってみないと分からないと思ったからだ。

 そんな調子なので、今まで紹介した何人かの男について、美沙はあからさまに顔をしかめて彩乃に苦言を呈することもあった。

 率直に言ってもらえて有難かった。美沙のような親友がいて本当に良かったと思う。

 しかし、宗太と初めて会った時だけは違った。 

 宗太の外見や醸し出す雰囲気はすぐに彩乃の目を引いたが、宗太は少しも彩乃に興味を示さなかった。

 今まで出会ったどの男性も必ず自分から彩乃にアプローチをかけてきたので、初めてのことに彩乃は戸惑った。

 しかし、宗太が気になった。だから恐る恐る彩乃の方から宗太に話しかけに行った。

 宗太は優しく丁寧に彩乃と接してくれたが、何となく会話が上滑りしている気がした。

 この人は本当に自分に興味がないのだ――。

 彩乃は驚き、焦りとそれから深い感動を覚えた。

 

(この人の本物の笑顔で、私に笑いかけてほしい――)


 それから彩乃の慣れない猛アプローチで、晴れて2人は付き合うことになったのだ。

 

 今目の前に座る宗太は、忙しさや疲れを微塵も出さずに穏やかな笑みで目の前の彩乃を見つめている。

 しかし、なぜだかその瞳に出会った頃のような心の距離感を覚える。

 

「そうちゃん、昨日は本当にごめんね。すごく楽しみにしてたのに、私が体調崩しちゃったから……」


 昨日、美沙から宗太に伝えた大まかな内容は聞いていたので、それに話を合わせる。

 後ろめたくてしどろもどろになりそうだったが、思いの外すんなり言葉が出た。

 

「いいよ。埋め合わせはいつだってできるから。それより、熱は下がったのか?」


「うん。もう大丈夫。スマホも直ったし。今日、これから出張なのに、わざわざ来てくれてありがとう」


「いや、このまま数日会えなくなるから心配だったし。気にするな」


 宗太は穏やかに微笑む。

 会話がぎこちないわけではない。相変わらず優しい。

 それなのになぜ、こんなにも胸がざわざわするのだろうか。


「昨日、もう待ち合わせ場所に着いちゃってたんだよね? その後何してたの?」


 胸のざわつきを誤魔化すために、何の気なしに彩乃は宗太に尋ねた。

 

「……そのまま少し散歩して家に帰ったよ。晴れてて気持ちよかったしね」


「そっか。本当に私ったらダメだなぁ。忙しいそうちゃんがせっかく一日空けてくれたのに。年末は、すぐに実家帰っちゃうんだっけ?」


「いや、大晦日に帰ろうと思ってるから、その前は空いてるよ。そこでゆっくり会おうな」


 宗太が大きな手で彩乃の頭を撫でる。

 この瞬間がすごく好きだ。

 その時、コート掛けに吊るされた宗太の上着から着信音が微かに聞こえ、その手がぱっと離された。


「あっ……と仕事かな。ごめん、ちょっと外で電話してくる」


 宗太が上着のポケットからスマートフォンを取り出し、部屋を足早に出て行った。

 それに紛れるように小さな紙片がひらひらと舞うのを見つけた彩乃は、立ち上がってそれを拾う。

 ポケットの中のごみが一緒に出てしまったようだ。

 捨ててもいいか念のためその紙片を確認し――頭がガンと打ち付けられたような衝撃を感じた。

 映画の半券だった。

 日付は12月23日。昨日だ。

 半券などこれまでじっくり見たことはなかったが、13時上映と丁寧に時間まで記載してある。

 散歩をしてすぐに帰ったのではなかったのか。

 映画を見たならそう言えばいい。何も後ろめたいことはないのだから。むしろそういうことをしたのは彩乃の方だ。

 なのに隠すということは、どういうことだろうか?

 ――誰かと見に行った?

 彩乃の側頭部がズキズキと痛み始める。

 印字されている映画のタイトルからすると、恐らくホラー映画なのだろう。

 宗太がホラー映画が好きなのは知っていた。

 彩乃は心霊ものもスプラッタもからきしダメで、宗太のその趣味に付き合ったことはない

 でも一人だけ、それができる人物を知っている。


(でも……そんなはずない。そんなはずはないよね)


 半券を持つ手が震え始める。

 彩乃はただ心の中で誰かに縋るように呟くことしかできない。

 そうしているうちに、宗太が電話を終えて再び部屋に戻ってくる。


「彩乃? どうした?」

 

 強張った顔で両手を胸の前で合わせる彩乃にただならぬ様子を感じた宗太が問いかける。

 その手の中に、自身が落とした小さな爆弾が握られているとも知らずに。

 

「ううん、何でもない……」


「そう? 顔色があんまり良くないぞ。まだ病み上がりだから、今日も大事をとって安静にしてな。何か買ってこようか?」


 彩乃は力なく笑って首を振る。


「そうか……? じゃあ、俺はそろそろ行くけど、本当に大丈夫?」


「うん、ありがとう。…………そうちゃん」

 

 宗太の名を呼ぶ声が、自分でもひどく平坦だと彩乃は思った。


「彩乃?」


「……私は」


 部屋の中央で立ち尽くす彩乃に疑いようのない違和感を持ち、宗太が近づこうとすると、


「そうちゃんが好きだよ」


 触れようとする手を拒むかのように、場違いな微笑みを浮かべて彩乃が言った。

 

「彩乃……?」


「私はつまんない女だって自分でも思うけど、そうちゃんを好きな気持ちは誰にも負けないと思ってる」


 悲しいのか苦しいのか、自分でもよく分からない。

 分からないから、彩乃はただそれを微笑みながら言う。


「そうちゃんが大好きだから」


 この気持ちだけは、今この瞬間の唯一の真実。

 彩乃はふわりと笑みを深めた。

 宗太は何を思っているのか、ただ大きく目を見開いて彩乃を見つめるばかりだ。

 

「さ、もう行って! 飛行機乗り遅れちゃうよ」


 彩乃は宗太を急かすようにぐいぐいと彼の背中を押して玄関へと促す。

 宗太の返事を聞くのが怖かった。


「彩乃……」


 宗太が苦し気に眉を寄せたのを見て、


「行ってらっしゃい。帰ってきたら連絡ちょうだいね」


 束の間の別れを惜しむこともせず、一方的に宗太を見送ったのだった。


 彩乃はしばらく玄関前で立ち尽くしていた。

 宗太が嘘をついたかもしれないと分かった時の衝撃は大きかったが、今はこの気持ちをどう表現してよいのか分からない。

 波のように押し寄せる感情があるわけではない。しかしながら穏やかに凪いでいるわけでも当然ない。

 言うなれば「無」だ。

 彩乃はそうして永遠のように長い10分間程度を目を伏せて佇んだあと、とうとう力尽きたように座り込んだ。

 やっとある感情が脊髄を取って脳へ伝達された時、彩乃は小さく嗚咽した。

 それは恐怖だった。

 何かを失うかもしれない恐怖。

 それが今、彩乃を絶望の淵に追い込んでいた。

 彩乃は壁際にある備え付けのクローゼットを一瞥する。

 あんな紙切れさえ見つけなければ、別れ際に渡そうと思っていたクリスマスプレゼント。

 もしかしたら永遠に渡す日は来ないかもしれない。

 そればかりか、もしかしたら失うものは1つではないかもしれない。

 彩乃はそんなことを考え、再び震えだすのだった。

  

 

 

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