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甘美な麻薬

 宗太が美沙の手をしっかりと握って青い空の中を歩く。

 木枯らしで乱れた美沙の前髪に気付くと、愛おしそうに笑って手を伸ばした。

 触れられる部分がジンと甘く痺れ、美沙は思わず目を閉じる。

 ジェットコースターが落ちる瞬間に似たような、しかしもっとずっと甘美な刺激だ。

 髪の毛だけじゃ足りない。

 もっと触れてほしくて宗太に瞳で訴えかけようとし――そこで目が覚めた。

 幸せなひと時は、美沙の願望が見せるただの夢だった。

 カーテン越しに漏れる朝日と鳥の鳴き声で美沙の頭は徐々に現実に戻り、満ち足りた感覚は急速にしぼんでいった。

 そしてそれに比例するように、今日一日のことを思って美沙の気持ちは重く沈んでいく。

 クリスマスイブ。

 雄吾と会う約束をしている日だ。

 つい数日前までは、むしろこの日を楽しみにしていた。

 雄吾への恋愛感情ははっきりとはしなかったが、少なくとも彼と一緒にいることは楽しかったし、触れられることも嫌ではなかった。何より、クリスマスイブに充実した予定があるというのは、年頃の女性にとっては何よりの精神安定剤なのだ。

 しかし、今はどうだ。

 宗太とあんな別れ方をしてしまったが故に、美沙の心はまた激しく揺れ動いている。

 あの指先は一体何だったのか?

 決して偶然ではない。しかし、確信とも言い切れないほど心もとない2人の細い絆。

 恋人に会えない寂しさを募らせた男の気まぐれか、それとも――。

 夢の続きと言わんばかりに妄想しかけたが、あまりに不毛と思い、美沙はやめた。

 一瞬の過ちなら、宗太と言えどあるのだろう。

 そこに付け入る隙を探しても意味はないのだ。第一、彩乃を地獄に落とす勇気は美沙にはない。

 それでも……という堂々巡りに嫌気がさし、美沙は渋々ベッドから起き上がるのだった。



「今日はこんな遅くからでごめんな。どうしても昼間に用事を済ませなきゃならなくて」


「いいよ。奥村こそ忙しいのに時間取ってくれてありがとう」

 

 夕暮れに待ち合わせた横浜の駅で、開口一番に雄吾が詫びた。

 今、雄吾の所属する第一営業部は大きな商談の真っ最中だ。そのおかげで、連休と言えどエースの雄吾には否応なく仕事が舞い込む。

 しかし、そんな非常事態も今の美沙にとっては有難かった。

 雄吾と一日という長い時間を笑顔で過ごせる自信がなかったからだ。

 食事をして別れるくらいでちょうどいい。

 

「そりゃ、今日はさすがに彼女のために意地でも時間作らなきゃダメな日だろ?」


 そう言った雄吾は、以前に車で出かけた時とは違い、少しフォーマルな出で立ちをしていた。

 そんな雄吾の中に宗太を見出そうとしたが、当然だがカケラも似つかない。

 雄吾が美沙の手を取って歩き始める。

 その手は温かく、美沙にその体温を移そうとするかのように、美沙の手のひらを強く握り込む。

 雄吾は間違いなく宗太ではない。

 奥村雄吾という人間に向き合わなくてはならない。

 雄吾の大きな手のひらに包まれた自身のそれを成すがままに委ねた。


「中野は3人家族だっけ」


「うん。あ、うちの親は飼ってる犬のことをものすごい溺愛してるから、4人家族とか言ったりしてるけど」


「犬種、何?」


「パグだよ。かわいいよ」


「パグかぁ。お前に妹がいたらパグっぽいな」


「何それ? 奥村は猫派でしょ。その理由は、従順な子よりもツンツンした性格の方が好みだからなんでしょ?」


「えっ……いや、え? 俺、そんなこと言ってた?」


「営業本部の飲み会で、奥村がいい感じで酔っ払いだすと毎回言い出す鉄板ネタだよ。覚えてないの?」


「あー……参ったな……」


 雄吾は宗太のことは一切口に出さず、何も聞かない。

 それとは逆に、少しずつ美沙の家族や友人の話を聞きたがるようになった。

 少しプレッシャーを感じる。雄吾は本気なのだ。

 上質なクロスがかかったテーブル越しに見える雄吾の姿は、いつもよりもさらに完璧だ。

 いつから予約していたのかは分からないが、大通りから外れた、隠れ家のようなフランス料理の店にさも自然に雄吾は案内した。

 如才ない女性の扱い方に話のうまさ、女好きする野性的な外見。何より、こんなにも飾らない素顔を美沙には惜し気もなく見せる。

 あの日言った通り、雄吾は必ず美沙を幸せにしてくれるのだろう。

 

「……中野は俺のことはどういう風に見ていた?」


 ワイングラスを傾けながら、少し緊張した面持ちで雄吾が言う。

 やめてくれ、と思う。

 そんな顔をされると逃げたくなる。

 しかし、答えるのが恋人の座に納まった美沙の義務だ。 


「奥村は……。初めて見た時、私の世界とは無縁な人だなって思った。派手でいつも輪の中心にいるような人で。カッコいいとは思ってたよ? でも、自分の人生とは交わらない人だって思ってたから、意識もしたことなかった。でも、奥村は私がそんな風に思ってるにも関わらず、平気で話しかけてきてくれたよね。私も変に意識することもなかったからすごく楽に話せるようになって、会社入ってから親しい人なんてそんなにいなかったから、すごく嬉しかった」


 美沙は正直な気持ちを話した。

 話しながら、どんどん出会った頃のことを思い出す。

 距離を取ろうとしている美沙に気付いているのかいないのか、積極的に関わりに来ようとする雄吾。

 事務職の美沙が語る仕事論にも、きちんと耳を傾けてくれた雄吾。

 あまりに近くて考えたこともなかったが、彼は間違いなく美沙にとって大切な存在なのだ。


「お前、マジで俺のこと眼中になかったんだな。ショックだわ。ていうか、何でそんなに自分のことを卑屈に思うのか俺には分からないよ。お前、入社式の時から既に、静かだけど雰囲気があって目を引いてたぜ。何ていうのかな。冬の冷たく澄んだ空気みたいな? お、ちょっと詩的な感想だろ」


 美沙はドキリとした。 

 まさに同じようなことを、昨日宗太に言われたばかりだ。


「……そんなところを、奥村は好きになってくれたの?」


 言うつもりのなかった言葉が、勝手に口をついて出る。


「んー、まぁ、きっかけはそうかな。でもそれだけじゃなくて、仕事に真面目で一生懸命なところとか、かと思えば窓の外見てひとりでぼーっとして何考えているか分からないところとか。目が離せなくなって……っておい。ここでこんなこと言わすな」


 照れた雄吾が最後は茶化すが、美沙はおざなりに笑みを返すことしかできなかった。

 雄吾は宗太と同じように美沙という人間を見ていた。

 それが雄吾が美沙を好きになったきっかけなら、あるいは宗太も同じように――?

 気付かぬうちにまたも妄想をしている自分に気付き、美沙は慌ててワインを口に含む。

 強引なこじつけもいいところだ。美沙がどんなにあれこれ考えてみたところで、何も意味はないのだ。


 食事を終えると、「こんな日くらいベタなのもいいだろ」といたずらっぽく笑った雄吾に手を引かれ、そのまま港の方へと歩きに出た。

 隣を歩く雄吾はなぜかずっと押し黙ったままで、それが美沙を再び緊張させる。

 今の心の距離感だからこそ、雄吾が何を考えているのか分かるような気がする。

 美沙はいたたまれなさから顔を逸らすように、横浜の港を彩る夜景に視線を移した。

 海面に映る観覧車の輪郭、街灯の光や高層ビルの窓明かり。

 残業中にオフィスから見える光景と似ているようで全く違う。

 隣にいるのが宗太だったら、どんな感想を持つだろうか。


「寒くて悪いけど、ちょっとここで話そう」


 雄吾は赤レンガ倉庫を通り過ぎ、大きな広場の、なぜかベンチもないような隅の方でそう言った。

 広場自体は大勢のカップルで賑わっていたが、街灯もなく建物の死角に入るこの場所には誰もいない。

 2人で落下防止柵の手すり越しに真っ暗な海面を見つめる。

 もう既に恋人同士なのに、どうしてこんなにも緊張するのだろうか。美沙は所在なげに手指を手すりに乗せて遊ばせる。

 

「あー……なんだろな。何でか、告白した時よりも緊張するわ」


 おもむろにポツリと雄吾が呟く。


「既に私も奥村の緊張が移っちゃってるんですけど」


 美沙が茶化したように笑うと、釣られてふっと笑った雄吾がカバンから小さな包みを取り出す。

 一見して分かる、アクセサリーが入ってると思われる包装だ。


「ベタだけど、クリスマスだからさ。開けて」


「うわ……キレイ」


 美沙がおずおずと包みを開けると、イエローゴールドのチェーンの一粒ダイヤのネックレスがそこに整然と納まっていた。色味、形、全て美沙の好みにピタリと合う。


「でも奥村……私、何も用意してなくて……」


「いいよ、別にそんなの期待してない。俺だって、本当に渡したかったものはこれじゃなかった。でも、今のお前に受け取ってもらえる自信がなかったからさ」


 雄吾は戸惑ったように笑い、美沙から目を逸らして再び何もない暗闇を見つめる。


「調子狂うんだよな。俺って結構女の子の扱いはうまい方だと思ってたし、いつも恋愛に関しては主導権握ってたのにさ。お前にはそれが通用しないから、俺もう中学の時みたいにすげー緊張してる。プレゼント一つするのに怖いなんて思ってるんだからさ」


「奥村……」


「美沙」


 自分の名を初めて呼んだ雄吾の声に、心臓が大きく跳ねる。

 雄吾の瞳に映る美沙の顔が揺れる。


「もっと先に進んでもいいか?」


 心臓をぎゅっと締め付ける甘くて苦しい痛みに、息ができなくなる。

 いいかどうか、分からない。

 何も考えられない。

 たとえNOだったとしても、こんな切ない顔をする雄吾の前でそれを言うことは美沙にはできない。

 雄吾は美沙の頬から首を両手で包んで撫でると、そのままゆっくり顔を近づける。

 流れに身を任せる、あるいは諦めたように目を閉じた美沙は、そのまま雄吾の唇を受け入れた。

 初めての、それも友達からスタートしたとは思えないほどの深いキス。

 雄吾は隙間を埋めるかのようにどこまでも美沙を求め、美沙はそれに溺れて息継ぎすらできない。

 苦しくて顔を逸らそうとすると、許さないとでも言うように雄吾の舌が美沙の口内に侵入する。


「んっ……」


 逃げようとしてもどこまでも猛追をかける雄吾の舌になすすべもなく、美沙は雄吾の熱い唇をただ受け入れた。

 こんな激情を孕んだキスを美沙は知らない。


「奥村っ……! もう……」


 雄吾が力を弱めたところで、恥ずかしさのあまり俯きながら喘ぐように言った。


「仕返し。お前、このまま友達と彼女の間のちょうどいいポジションでぬくぬくしてそうだったから」


 雄吾はいつもの自信家の笑みを浮かべて、どことなくスッキリした様子でそう言った。

 形勢逆転。今度は美沙の方が熱に浮かされたように黙り込んでしまう。


「美沙。早く俺のこと好きになれよ」


 そう囁く雄吾に、間違いなく抗えない引力のようなものを感じた瞬間だった。

  

 ほんの少しの懸念はあったが、そこから先を求められることもなく、別れ際にもう一度キスをして自宅の最寄り駅まで見送られた。

 友達と彼女の間でゆらゆら心地よく浮かんでいたと言われたのは紛れもなく図星だ。

 今日のキスは、それに気づいた雄吾からの牽制球だ。

 もう逃げられない。

 美沙は天を仰ぎ、底に向かって白く細い息を吐いた。

 

 


 

 

 

 

 


 


 


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