細く繋がった想い
互いに何と言ったらいいのか分からず、2人はどちらからともなく歩き出した。
前回会ったのは秋の終わりのあの公園。
今はすっかり季節も変わり、美沙と宗太の装いにも時間の経過を感じた。
まさか宗太と2人で出かける日が来るとは。
いまだに信じられない思いで、半歩前を歩く宗太を、美沙はここぞとばかりに遠慮なく見つめる。
目の前にいても隣にいても、いつも宗太と積極的に目を合わせることを避けてきた。
恥ずかしいという思いもあったが、自分がそんな視線を送ることは過ちであり裏切りだと思ったからだ。
既に何度も彩乃を裏切っているくせに、そんなところだけ生真面目な自分を美沙は憎々しく思う。
「何も考えず歩いちゃってるけど、寒い? 大丈夫? お腹すいてたら先に食事にしようか」
宗太がおもむろに美沙を振り返る。
「あっ……えっと大丈夫。天気もいいし、ちょうど歩きたいと思ってたの」
「よかった、じゃあ、有楽町まで歩いちゃおう。それからどこかでお昼にしようか」
宗太が微笑んでそのまま立ち止まる。
美沙は、隣に立つのを促されているような気がして慌てて一歩前へ出る。
宗太をじっくり観察できなくなってしまったのは残念だが、並んで歩くことができるのは嬉しい。
隣だから分かることがある。例えば、ヒールを履いていても感じる宗太の背の高さ、頬のシャープなライン。
美沙が好きだった横顔。
しかし、今は雄吾を思い、胸がちくりと痛む。だから目を逸らす。
「何だか久しぶりな気がするよね。あの公園で会わなくなったから。あれから急に寒くなったから来なくて正解だよ」
「木村さん、もしかしてまだあそこに行ってるの?」
「うん。さすがに俺一人になっちゃって恥ずかしいから、そろそろやめようかなって思ってるけど」
美沙が行かなくなったのは季節のせいだと思っているようだ。
宗太にしてみれば、美沙の葛藤も雄吾へ救いを求めたことも知る由はないのだ。
「そういえば、この前上司が新潟へ出張へ行ってたけど、日本酒が美味しかったってすごく上機嫌で帰ってきたの。木村さんが新潟出身だっていうのをすぐ思い出して」
「あぁ、確かに新潟は日本酒美味いよ。俺の実家なんて本当に山間部の田舎だから、子供の頃からお盆や正月に日本酒飲まされてたよ。本当、モラルはどうなってるんだって感じだけど」
宗太は苦笑いで返す。
「そうなの? 子供の頃から日本酒の味を知ってるなんて、贅沢! あ、そっか、だから木村さんお酒強いんだね」
「それはあるかも。でも、兄貴の方がもっとすごい。底なしだからな」
宗太から初めて聞く「兄貴」という言葉が美沙の興味を引いた。
「木村さん、お兄さんいるの?」
宗太はなぜか少し驚いたような表情で美沙を見て、そしてまた困ったような苦笑いをする。
「あぁ、うん。3つ上のね。大して仲は良くないけど」
自身の兄のことを言葉少なにそう表現した宗太に、美沙はそれ以上は何も言わなかった。
触れてほしくないように思えたからだ。
しばらく無言のまま2人は歩き、ロマンのかけらも感じない手近な中華料理屋で食事を済ませる。
映画の時間が迫っていたからだ。いや、もしかしたら、雰囲気のある店に入ることを、宗太の良心が咎めたからかもしれないと美沙は思った。
実際、宗太はこの状況をどう思っているのだろう。
彼女以外の女性と2人で会うというのは、宗太にとってそれほど特別なことではないのだろうか。
育った環境によって人の考え方は驚くほど違うことがある。
雄吾だって、美沙のことを好きとは言うが、あの通り社交的な性格だ。女友達も大勢いるだろうし、社内の女子社員と2人でランチに出かけているのも以前はよく見かけた。恋愛感情抜きに、友達として2人で遊びに行くことも、案外今は普通なのかもしれない。
友達として近くにいることができれば、それも幸せなことだ。
しかし。
「中野さんよくそんな辛いの食べれるね。俺は無理。カレーも甘口派」
そんなことを言われれば、もっと宗太のことを知りたくなるし、自分のことも知ってほしい。
だがそれは、恋人同士の領域だ。
美沙は自分の気持ちの着地点を見つけることができず、目の前で宗太が笑うのを胸が詰まる思いで見つめるのだった。
店を出て駅近くの映画館へ向かうと、同じように映画を見ようとしているカップルでロビーは溢れかえっていた。
その誰もが、隣にいる彼氏彼女に安心しきった表情を見せ、幸せそうだ。
この中に混じってしまえば、美沙と宗太とて、どこにでもいるクリスマスを祝う恋人同士にしか見えないのだろう。
目の前でチケットを買う宗太も、そんなことを少しでも思っているのだろうか。
「あ、私の分のお金……」
「今日は俺が付き合わせてるんだし、出させてよ」
「でも、さっきのランチだって……」
「クリスマスも間近な休日に、女性にワリカンさせるのはさすがに田舎者の俺だって恥ずかしいよ?」
宗太が困ったように笑いながら小首をかしげ、美沙を見下ろす。
そのしぐさが、如何にも駄々をこねた彼女を宥めているようで、美沙の胸がきゅうっと締め付けられる。
『男と女として向き合わないと分からない感情がある』
雄吾が言っていたことが、今の美沙にはよく分かる。
こんな痺れるような胸の疼きは、友人には感じることはできない。
今にも泣きだしそうになり、そんな顔を見られないように美沙は俯き気味で礼を言った。
コーヒーが飲みたいと言った宗太はロビーの売店に寄り、そんな小さなものすら美沙の分まで払おうとする。あまりに気が引けたが、遠慮は既に散々した。これ以上はしつこいと思われてしまうだろう。美沙はおずおずとコーラを注文する。
「俺はホラー映画を見る時は絶対コーヒー飲むんだ。ホラーって緊迫したシーンの連続でしょ。それとコーヒーの安心感のギャップがたまんない」
「何それ。私は絶対コーラ。映画見てる間は怖くてたまらないから、コーラのしゅわしゅわで現実に戻るというか」
「ふーん、中野さん変わってるね」
「それは木村さんの方でしょ」
そんな何気ないやりとりを楽しみながら、隣同士の席へ腰掛ける。
映画館そのものはあんなに人で溢れかえっていたのに、美沙達が見ようとしているスクリーンは驚くほど閑散としていた。一瞬唖然とした美沙だが、恋人達にとってはこんな甘い日なのだから、敢えてホラー映画を選ぶ理由もないのだと遅れて理解した。
「人気ないんだな」
と苦笑する宗太だが、美沙にとってそれは嬉しいことだった。
こんなに広い空間で、宗太の隣を独占できるのは、何とも贅沢なことだと思ったからだ。
2人がこれから見ようとしている映画は、ジャパニーズホラーだ。人気ミステリー作家が原作の作品で、著名な俳優が何人も出演している。所謂正統派な幽霊もので、主人公一家が引っ越し先で様々な怪奇現象に襲われ、その原因が過去にその土地で起きた凄惨な事件によるものだった――という、よくあるストーリーだ。
当然この映画が上映されることを美沙は知っていたが、正直なところ、それほど興味はなかった。
今話題の俳優を多数起用している大人の事情が透けて見えると、内容も大したことはないのだろうと穿った見方をしてしまうからだ。
隣の宗太は心なしかわくわくした表情だ。
美沙よりもよっぽど筋金入りのホラー映画好きなのかもしれない。
しかし、そんな余裕も映画が始まってしまえばあっという間に消し飛んだ。
美沙は急に何かが現れて驚かされることや、音で恐怖を煽られるのが苦手だ。
物語が中盤に迫り、いよいよ核心に迫ろうという頃には、完全に両耳を手で塞いでいた。
そんな美沙を見て、隣の宗太が笑っているのが見えた。だがそれに答える余裕はない。
それでも、合間に絶対何も起こらないであろうシーンもある。そんな時は休憩のチャンスだ。
美沙は右手側のカップホルダーに置いてあるコーラに手を伸ばし、そしてふいに指先が宗太の手の甲に当たった。宗太もコーヒーを手に取ろうとしたところだったようだ。
宗太のなめらかな皮膚をなぞった自分の指の感覚に、美沙はまた胸がきゅっと締まったのを感じた。
もっと触れたい。
いつの間にかそんな気持ちで支配されていた。
次に恐ろしいシーンが来た時は、とっさに宗太の腕でも掴んでみようか――そんなことすら考える余裕があった。
結局、クライマックスではまた終始耳を塞いで終わってしまったが、意識は常に右隣の宗太にあった。
ほんの小さな身じろぎ、息遣い何もかもを見逃さなかった。
「すごい怖かったんだけど、途中から中野さんが面白くてそれどころじゃなかった」
「私は映画中いつもあんな感じなの。耳塞いでないと、とてもじゃないけど耐えられない」
「ホラー映画好きっていうから、全然怖がらないんだと思ってたよ」
「それとこれとは話が別。怖くて仕方ないんだけど、見たくてたまらないの」
おかしな理屈に、自分で言いながら笑い出す美沙。
映画が終了して再び街中に出たのが午後3時。2人の目的はこれで終了したことになる。
しかし、まだまだ一緒にいたかった。
本当ならここで別れなければいけないが、美沙にはどうしても自分から言い出す勇気がなく、また、宗太からそれを切り出されるのが怖くてついしゃべり続けてしまう。
宗太も帰るタイミングを図りかねているのか、ただ優しい笑顔で受け答えするだけだ。
ふと、美沙の好きなファッションブランドのショーウインドウの前を通りかかり、思わず足を止めた。
「あ、今日の木村さんにそっくり」
ショーウインドウの中の男性のマネキンは、宗太のように背が高く、紺色のロングコートや中に着ているハイゲージのニットのコーディネートが今日の宗太とまるでそっくりだ。
残念なのは、隣で腕を組む女性のマネキンは美沙と違ってふわふわとした栗色のカツラをかぶっていることだ。
「中野さんは冬が似合うよね」
宗太は感情の読めない顔で美沙をじっと見つめ、そう言った。
「え……」
想定していたどの答えとも違う、そして意図の掴めない回答に美沙は戸惑った。
宗太は束の間そうして美沙を見つめていたが、やがて表情を緩めると口を開く。
「お茶でもしてから帰ろうか」
緊張していた美沙の肩から力が抜けた。
「俺の兄貴は俺なんかより全然優秀なんだ。運動もできて酒も飲めて、非の打ちどころのない人で。弟だからって特に虐げられたこともないよ。ただ、親はどうかな。俺たち兄弟を平等に扱おうとしているのはよく分かったけど、兄貴への期待は俺にも隠し切れなかったかな」
「お兄さんのこと、コンプレックスだった?」
「昔はそんなことは少しも思ってなかったんだ。自慢の兄貴で俺もそこに追いつきたいって本気で思って東京の大学に進学して、就職先も選んだ。だけど、今はちょっと苦しい気がするかな。今だに何をするにも兄貴の顔がちらつくから」
チェーンのカフェではなく、単価の高い落ち着いた店に入って正解だと美沙は思った。
ひとしきり映画の感想を言い合った後、宗太は自身の兄のことを話し始めた。
話したくないことかと思ったが、思いの外宗太は何でもないように話し始める。
そんな宗太を見ていたら、美沙も心の内を自然と打ち明ける気になってしまうから驚く。
「私には兄弟はいないけど、その気持ちは少し分かる。学生の頃は私もコンプレックスの塊だったから、その辛い気持ちを押し込めるために、自分は彼女達とは立っているステージが全然違うんだって自虐的に考えるしかなかった」
美沙が指す「彼女達」の意味なんて宗太が分かるはずもないのだが、心に奥底に溜まっていた滓は一度流れ出したら止まらない。
高城由衣達の華やかなグループに入りたかったわけではない。でも、羨ましくないと言ったら嘘になる。
当時の高城由衣らは、間違いなくあの高校時代の、主役とも呼べる花道を歩いていた。
美沙に用意されていたのはいつも脇役のポジション、その他大勢。楽屋はいつも大部屋。
今は自分も周りも大人になり、そんな子供じみた価値観は美沙の世界からなくなっている。
それでも、あの時の思い出は今でも美沙の古傷になっている。
少なくとも、自分の思うような人生を歩きたいという渇望をまだまだ抱かせるほどには。
「俺は、中野さんとこうして会うようになって、雪みたいな人だって思ったよ。一番最初は繊細そうに見えたけど、それだけじゃなくて一本芯が通ってる。会う度に印象がコロコロ変わって、それが何だか天気によって変わる雪模様みたいに見えた」
美沙の話に肯定も否定もせず、宗太はただそんなことを微笑みながら言った。
直接的なことは何一つ言われていないが、それでも美沙には、そのままでいいのだと宗太が言ってくれたような気がした。
都合の良い解釈だと思ったが、自分を受け入れてもらった気がして、胸から何かがこみ上げる。
「木村さんは……知りたくなる人だって思った」
美沙は思わずそんなことを口にした。
「いつも落ち着いて自分のいるべきところにいて、でも笑顔が何だか寂しい時があって、でもそれがどうしてだかは分からないの。だから……」
そこで黙った。そこから先、何が言いたいのかは美沙自身にもよく分からなかった。
しかし、夢の時間はもうすぐ終わってしまう。
もうこんな風に会うことは二度とないのだから、宗太への想いを少しでも伝えたかった――その資格が自分にないと分かっていても。
「私は彩乃が本当に羨ましい」
駅までの帰り道は互いに無言を貫いた。
自分の発言のせいだと美沙は思っていたが、もうどうでもよかった。
これで、明日からは苦しい気持ちから解放されるのだから。
待ち合わせの人でごった返す駅前の広場を通り抜ける時に、体が宗太に軽くぶつかった。
よろめいたと思った宗太に肘を掴まれ、一瞬その指先が迷いを見せた後、そのままおろして美沙の手のひらに軽く触れた。
思わず手を引こうとしたが、宗太はわずかに力を入れて美沙の指を自身のそれに絡める。
手を握るとも繋ぐとも言えない、ただ触れ合うだけの指先。
美沙はハッと隣の宗太を見上げる。
宗太は気づいているはずだが、真っ正面を見据えたままだ。
その表情はよくわからない。
雑踏をくぐり抜けて駅の改札まで着く数秒間をそうして二人で歩き、それから宗太が静かに手を離した。
そして束の間、見つめ合う。
あの指先の意味を確かめることもできず、美沙はただ宗太の端正な顔立ちから目が離せない。
宗太はなぜだか悲しそうに笑い、
「それじゃ、またね」
そう言って振り返りもせずに美沙の元から去ったのだった。




