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もう一人の男

 食事中は終始元気のない様子だった彩乃だが、胸の内を吐き出すことができただけで多少は気持ちも落ち着いたようだった。

 いつもより少しだけ力のない笑顔を見せた彼女と別れ、家に着いた頃には美沙の疲労はピークに達していた。

 靴を乱暴に脱ぐと、そのままベッドに倒れ込む。

 今日は色々なことがあったはずだが、それらを反芻する気力は起こらず、ひたすら天井の一点を見つめていた。とにかく疲れていた。

 ベッドサイドテーブルの上に置かれた時計の秒針が音を立てるのに耳を澄ませていると、カバンの中のスマートフォンが微かに振動しているのが分かった。

 彩乃か、まさか宗太ではないだろう。

 まさかと言いながらほんの少し期待を込めてスマホを引っ張り出すと、トップ画面にはさらに驚くべき人物からのメッセージが写し出されていた。


「えぇっ? 奥村?」


 ラグビーボールの見慣れないアイコンの主は奥村雄吾その人だった。

 アカウントを交換していたことすら覚えていないくらい、雄吾とこれまでやりとりをしたことなどほぼなかった。

 現に、一つ前のトークは約半年前で、美沙の業務連絡に対して雄吾がたった一言「了解」と入れただけの、何の色気もないものだった。

 それなのになぜ、雄吾はこんなメッセージを送ってきたのだ。


『来週土曜、暇?』


 詳細も書かれず、意図も読めないその一言に美沙はただただ困惑し、一言返事を入れることにした。


『宛先間違えてるよ』

 

 返信はすぐに来た。


『間違えてねーよ。中野宛だ、バカ』


「えっ、本当に私!?」


 雄吾の返信を見た美沙は、ぎょっとするあまり思わず口に出す。

 ますますこの後にどう返事したらいいのか分からない。


『何? お客さんのアテンド手伝えとか? お断りします』


『そんなん頼まないよ』


『じゃ、何?』


『どこか遊びに行こうって言ってんだよ』


 そのメッセージを見たまま、美沙は固まって動けなくなった。

 本当に雄吾は一体どうしてしまったのか。

 宗太に彩乃に、ここにきて雄吾。考えなければならないことばかりで頭が痛い。



「奥村、昨日のあれ、何なの?」


 翌朝、美沙は出社するなり真っすぐ雄吾のデスクへ向かい、朝の挨拶もせずに切り出す。

 美沙も雄吾も朝は8時には出社するため、周りにはまだ誰もいない。

 美沙は結局、昨日は返事をしなかった。

 雄吾の意図について考えるのも面倒だったし、こうして直接問いただしたほうが早い。


「おま……。俺が何でわざわざ対面で言わなかったと思ってるんだよ……」


 雄吾は頭を抱えて呻く。


「ん?なになに?」


 美沙のきょとんとした顔を席から見上げながら、雄吾は恨めしそうな目つきをする。

 

「で? あのあと返事くれなかったけど、空いてるのかよ?」


「えっ……だから……何が目的なの? 奥村が私と遊びに行くなんて、変でしょ」


「何で変なんだよ。昔同期で週末にキャンプ行ったことあったろ。あれと一緒だ」


「あれは複数だったでしょ! ってあれ? もしかして今回も他に誰かいた?」


「いや、俺とお前だけ」


「! ……2人って、普通なくない……?」


 雄吾の勢いに押され、美沙が自信なさげに呟く。

 

「そんな意識してるのお前だけだよ。いまどき、男女が2人で出かけたところで普通だぜ? 中野、自意識過剰」


 少し小ばかにしたように上目づかいでからかう雄吾。

 その様子と、図星を指されたことにムッとした美沙は、売り言葉に買い言葉でつい言ってしまった。


「分かったわよ。じゃあ奥村が時間も場所も全部決めてよね。私は奥村にしつこく誘われて行くんだから!」


 自分でも珍しく腹を立てていると自覚しながら、美沙は大股で自席へ戻っていく。

 それを見届けた奥村は、薄い苦笑いを見せながらふっと息をついた。


 土曜、朝7時、大森駅前。

 それが雄吾の指定した時間と場所だった。

 随分早いと文句を言ったが、全部決めろと言っただろ、と撥ねつけられれば、そう言った手前、美沙は素直に従うしかなかった。

 一体どこへ行くのか。――それよりも、雄吾は一体何の目的で美沙を誘ったのか。

 まさか、美沙のことが好きだとでもいうのだろうか。

 一瞬そんなことが脳裏をよぎったものの、また雄吾に自意識過剰だと思われそうだ。

 美沙は急いでそれを頭の隅に追いやる。

 だから、当日は思い切り色気のない格好で雄吾の前に姿を現した。

 いつもきちんとブローして下ろしている髪の毛はシニヨンにまとめ、細身のジーンズにフラットシューズという出で立ちをあえて選んだ。

 意識はしていないという、雄吾へのアピールのつもりだった。

 しかし、待ち合わせ場所に車で現れた雄吾は、運転席の窓を開けると、なぜか満足そうに笑うのだった。


「おっ、中野! お前ひょっとして今日の行き先気づいてた?」


「えっ……いや……」


行き先など見当もつかないうえに、まさか雄吾が車でやってくるとは思わなかった美沙は、驚いて朝早かったことの愚痴も漏らし忘れた。


「早く乗れよ」


「うん」


 スポーツカーに乗りそうな雄吾にしては意外な、ごく普通のシルバーのセダンだ。

 美沙としては後部座席に乗り込みたい気持ちが大きかったが、仕方なく助手席のドアを開ける。

 シートベルトを締めたところで雄吾が声をかける。


「よし、行くぞ」


 車がロータリーから出て、車道を走り始めたのを確認して美沙は隣の雄吾の方を向いた。


「車で来るとは思わなかった。これ、奥村の?」


「そう。ゴルフでも車使うし、去年買った」


 雄吾は接待ゴルフも多い。それが恋人と別れた原因の一つだったと以前聞いた。


「ふうん。……で、今日はどこ行くの?」


「ん? ドライブだ。まだしばらくかかるから、楽にしてろよ」


「ドライブ……?」


 しばらくかかると聞いて、美沙は言い知れぬ居心地の悪さを感じ始めた。

 右隣から雄吾の息遣いを感じる。

 飲み会の席で隣になったこともあったし、その時はもっと距離は近かったはずだ。

 それなのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろう。

 普段は軽口も叩けるが、今はなぜか何の話題も思い浮かばない。


「朝早くて悪かったな。眠かったら寝てもいいぞ」


「や、大丈夫だよ。奥村、うちの最寄り駅知ってたんだ? 待ち合わせ、わざわざ私の家の近くにしてくれたんでしょ?」


「3年前の営業本部の忘年会で、お前すごい酔っ払ったの覚えてない? 俺がタクシーで送っていったんだけど」


「えっ!? なにそれ。全然覚えてない! ……いつかの忘年会で、すごく二日酔いになった記憶はあるんだけど……」


「お前、注がれる酒断れないからなぁ。 適当にかわせばいいのに、そんなとこも真面目だよな」


 雄吾が隣でくつくつと笑う。

 今日の雄吾は心なしか柔らかい雰囲気だ。

 日焼けした肌に、厚手のセーターでも隠し切れない筋肉質な体。

 何もかもが宗太とは違う。

 それでも、雄吾が魅力ある男性だということは美沙にも分かる。

 今日1日雄吾と過ごして、一体自分に何が起こるのか。

そんな不安と期待を胸にしまいながら、美沙は背中を深く座席の背もたれに預けるのだった。

 


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