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狂い始める歯車

 「あっ……やばい…」


 木村宗太が自身の失態に気付いたのは、膝の上で振動するスマートフォンを手に取って画面を確認した、ちょうどその時だった。

 近所のコンビニにすら行く気が起こらないほど疲れの溜まっていたある日の休日、宗太は動画配信サービスを利用して映画を鑑賞していた。

家で映画を見るのは好きだった。

動かずに済むし、ただ惰眠を貪るよりも生産性がある。取引先との会話のネタにもなる。退屈だったらそのまま眠ってしまえばいいのだ。

 宗太は特にホラー映画を気に入っている。

 逆に、ヒューマンドラマや恋愛映画といったジャンルは見ないようにしている。

 構えていても、心を揺さぶられてしまうからだ。

 宗太は、自分の感情に波を立てるのが好きではない。それが良い波でも悪い波でも、最終的には乗りこなすのに疲れてしまうのだ。

  だから、ホラー映画の、ただひたすら恐怖という感情と向き合う非日常的な2時間は、おかしな話かもしれないが、心のリフレッシュという意味では一番功を奏していた。

 人にはあまり言わない、宗太の秘密の趣味である。

 ところが、先日彩乃から思わぬことを聞いた。

 あの彩乃の友人の中野美沙も、ホラー映画を観るのが好きだというのだ。

 身近にこんなレアな趣味を持つ人間がもう一人いるとは、宗太は密かに美沙に仲間意識を感じていた。

 だから、つい失敗をしてしまった。

 美沙にSNSでメッセージを送ってしまったのだ。

 完全に言い訳だが、今日見た映画は当たりだった。随分古い映画だが、人間の本性の恐ろしさを描くホラー映画というのが宗太には新鮮で、つい誰かと共有したくなった。

 だから、下心や思惑といったものは何一つない。

 本当に「何の気なしに」だったのだ。

 

『こんにちは、木村さん。偶然ですね。私も今、家でホラー映画を観ています』


 美沙からの返信を見て、まず自分の過ちに舌打ちをしたが、美沙もちょうどホラー映画を見ているという。宗太はすぐにそこへ興味を抱く。


『本当に? ちなみにおススメがあれば教えてほしいです。俺は"ロザリー"を見てる』


 つい、さらに返信を入れてしまった。

 しかし、次の美沙の返事を受け取ったところで、さすがにこの状況は良くないと理性が働き、無難にやりとりを終わらせた。

 あの真面目な美沙が本当にホラー映画が好きだったとは驚きだ。

 そういう人間こそ、意外に深堀りすると面白いのかもしれない。

 宗太はそんな風に考えながら、流れっぱなしになっていた映画を巻き戻して映画鑑賞を再開した。

 

 最近、宗太は大手化粧品会社との契約を取ることに成功した。

 営業スキルが上がっていると言いたいところだが、先方が宗太のルックスと柔らかい物腰をいたく気に入っていたのは宗太も分かっていた。恐らく、そういうことなのだろう。

 当然、嬉しさは半減以下だ。

 もっと実力で認められたい。――少しでも兄に近づくために。

 宗太と同じ顔で、宗太よりももっと世の中を颯爽と渡り歩くあの男に。

 追い越すことなど到底及ばない背中だが、せめて視界に入る距離にまで接近したい。

 宗太はいつもそんな焦りにも似た気持ちで仕事に向き合う。

 20時を回ったオフィスは途端に静まり返り、フロアの本来の大きさを実感させる。

 この静寂が好きで、宗太は資料作成などする時は好んで残業をする。

 優秀な営業マンやコンサルタントほど、就業時間はメリハリをつけている。宗太もそうでありたいと思うが、まだ自分はそのステージにいないことは十分理解している。

 今は背伸びをせず、焦らず着実に仕事をこなすことだ。

 しばらくパソコンに向かって手を動かしていると、左手付近からスマートフォンの振動が聞こえた。

 確認すると、今度は美沙の方からホラー映画鑑賞の報告メッセージが来ていた。

 彼女の方も、同じ趣味を持つ人間が近くにいることが存外嬉しかったようだ。

 しかも、美沙の方は宗太よりももっと手広く楽しんでいるらしい。


「中野さんがゾンビ映画……? 本当に意外性の塊だな」


 宗太はクスっと笑い、息抜きとばかりに少しの間やりとりを楽しんだ。

 純粋に美沙という人物が面白かった。

 決して自身のキャラクターを人に見せようとせず、だからこそ、ふとした時に漏れ出る個性が何倍にも際立つ。

 彩乃は自分と美沙のこのようなやりとりをどう感じるだろう。

 彼女なら何も言わないと思うが、いい気はしないのでは、と今更ながら危惧した。

 しかし、親友の美沙もこうして自分からメッセージを送ってくるくらいなので、意外に最近は普通のことなのかもしれない。

 彩乃を悲しませるつもりは毛頭ないが、こうした気軽なやりとりができるなら、宗太としては美沙と趣味でつながったこの関係はそれはそれでいいと思った。

 彩乃のことは大事だが、恋人への責任感というのは、少しばかり宗太を疲弊させているのは事実である。

 美沙との関係をそんな風に考えていた宗太だが、それを決定的に覆す出来事が起こった。

 宗太が毎日心の平穏を保ちに出向くあの公園で、美沙と偶然遭遇したのだ。

 久しぶりに目の前に現れた美沙は、宗太が初見で持った印象通り、その日もやはり控えめで、しかしもう地味だという感想は持たなかった。

 彩乃は生まれながらにして背景に無数の輝く星を散りばめている。それをひっくるめて彩乃だ。

 美沙の場合、逆に周囲が無であるほどの静謐さを湛えているような、そんな女性だったのだ。

 この日の美沙は外出帰りということで、紺色のノーカラーのジャケットに薄紫色の膝丈のサーキュラースカート、足元は見るだけで足が痛そうなハイヒールを履いていた。

 いかにも仕事人といったそのファッションと、儚げな女性のイメージがミスマッチで、なぜだか今日の美沙は宗太の目にはとても美しく見えた。

 さらりと肩口で揺れる黒髪に思わず手を伸ばしそうになり、宗太はハッとした。

 そのまま少しの間、会話をしたが、宗太はSNSを通じてやりとりした内容には触れることができなかった。

 美沙を美しいと思ってしまった自分に対し、急にこれまでの行いが恥ずかしくなったのだ。

 まるで下心があって美沙にメッセージを送ったような――断じてそんなことはないのだが。

 バツの悪さを誤魔化すように、宗太は美沙に席を譲り、そのまま立ち去ろうとしたが、なぜだかもう少し話をしたい。そんな気持ちになった。


「中野さんが言ってた"汚染"、この前見たよ。怖すぎて半分涙目」


 宗太は苦し紛れに笑ってみるが、自分の応用力のなさに内心呆れ果てていた。

 何か話したい――そんな思いが見え見えの言葉を、美沙は一体どう思ったか。

 恐る恐る美沙を見れば、彼女は笑っていた。

 以前見た、あの諦めたような笑顔ではない。

 心の底から幸せそうな、宗太に何かを伝えようと必死な、そんな笑みに見えた。

 不覚にも、それに見とれてしまった。

 オフィスに戻ってすぐ、宗太は彩乃に今晩の食事の誘いを入れた。

 彩乃が断ることはないと踏んでいたが、案の定彩乃からは二つ返事で承諾を受けた。


「そうちゃんが今日みたいに急に連絡くれるなんて珍しいよね。どうしたの?」


 目の前の彩乃は、普段と違う宗太の行動に不思議そうに、しかし喜びを隠しきれないといった様子で首をかしげた。


「いや……今日は早く帰れるチャンスだったし、最近も忙しくてあんまり会えなかったから。ごめんな、急に誘って。今日の今日じゃさすがに店もこんなところしか空いてなくってさ」


「ううん、そんなの全然気にしてない。そうちゃんとご飯食べれるなら屋台のおでんでもいいよ」


「はは、彩乃にはあんまり似合わないな、それ」


 安価な居酒屋チェーン店で、宗太と彩乃は2人で向かい合い笑った。

 彩乃はやはり、宗太が仕事にかまけて彩乃に会う時間をなかなか作らないことに対して文句の一つも言わない。忙しいから、と言い訳したかと思えばこうして突然呼び出すなど、これまでの恋人達だったら会ったその瞬間になじられていただろう。 

 

「お仕事、もう落ち着いたの? そういえば最近新しく契約取ったって言ってたよね? 本当におめでとう!」


「うん……ありがとう。でも、どうかな。先方の常務が女性なんだけど、俺のこと気に入ってくれたみたいなのはいいんだけど、俺の提案内容が良かったから採用してくれたってわけじゃなかったと思うんだ」


「そっか……。でも、それってそうちゃん自身が買ってもらえたってことでしょ? 営業マンにとってすごく大事なことだと思うな。人柄とか魅力なんて、経験年数で補えるものじゃないもん」


 彩乃はそう言うとフワリとした笑みを浮かべる。

 栗色の柔らかそうな髪の毛が揺れれば、宗太の節くれだった気持ちも次第に落ち着いていく。

 彩乃はまさに癒しだ。

 今回の契約のことで気持ちがどうにもざわめいてしまい、そんな感情を不快に持て余していた宗太だったが、彩乃はそれをいとも簡単にほぐしていく。

 思い出せば、彩乃と付き合うことになったのも、兄のことでイライラしていた宗太を彩乃が気遣ってくれたことがきっかけだった。

 宗太は自分の心をかき乱そうとする何もかもが嫌いだ。

 彩乃はそれを丸ごと包んで昇華してくれる。

 外見も内面も自分には申し分ないほど美しい。田舎の両親もさぞ気に入るだろう。

 宗太の仕事にも理解があり、付き合いはこれ以上ないほど順調だ。

 それなのに、なぜ――。


「彩乃、今日、ウチに泊まる?」


 食事を終えて駅まで向かう道すがら、宗太が彩乃にそっと尋ねた。

 急な誘いだったから準備もしていないだろう。こればかりは断られてもおかしくなかった。

 しかし、彩乃はほんの少し考えた後、そっとうなずいたのだった。

 都内の主要路線の駅から歩いてすぐの宗太のマンション。

 エントランスを通ると宗太は彩乃の手を握り、部屋のドアを開けて彩乃が中に入ったのを確認すると、待ちきれないかのように彼女に覆いかぶさり、強引にキスをした。


「んっ……そうちゃん……!」


「彩乃……!」


 宗太はそのまま彩乃のコートや衣服をせわしく剥ぎ取る。


「そうちゃん!ダメだよ!お風呂も入ってないし汚いよ……!」


「彩乃は汚くない。汚いのは俺の方だ。だけど……このまましよう」


「そうちゃん……」


 初めて見る宗太の性急な様子に戸惑い、抵抗する彩乃だったが、そのうち諦めたように顔を赤らめて宗太にしがみついた。

 宗太はすぐそばにあるベッドに彩乃を押し倒し、そのまま無我夢中に彼女の体を掻き抱いた。

 笑顔だけでなく髪の毛だけでなく、彼女の体はどこもかしこも柔らかい。

 やはり、どこをとっても非の打ちどころがない。

 それなのに。

 それなのに、なぜ。


 彩乃の背後に美沙の笑顔がチラつくのだろう。


 当然、恋ではない。ただ、間違いなくあの瞬間、宗太は美沙に惹かれた。

 そしてそのきっかけを作ったのも宗太本人だ――。

 自分の恋人は彩乃だと体に刻み付けるように、宗太はその夜彩乃との行為に没頭した。

 

 

 






 

 

 

 






 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

 

 

 


 

 





 

 

 


 

 

 

 

 

 


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