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第七話

 ぱたん、と小説を閉じる。前屈みになっていた体をぽすんとソファーに預け、祈理はほうと一つ息を吐いた。

 小説を両手で胸に抱きしめ、「むふふふ――」と声にならない声を出す。ソファーの上で体操座りをしながら右へ左へごろごろと体を傾けて悶えるその姿は、傍から見たらさぞかし滑稽に見えることだろう。

 今、小説を読んだことによって生まれたときめきや充実感が祈理の中に満ちていた。

 頭の中ではお気に入りの文章が映像化され、何度も何度も繰り返し流れている。更には、この小説の中には出て来ない登場人物を思い浮かべ、主人公や主要キャラたちと絡ませて遊ぶ。無口な子や感情豊かな子、様々な性格の子たちを生み出しては、あの場面ではこう、この場面ではこう、もしこんな場面があったらこう、と次から次へと想像していく。読後の楽しい楽しい妄想タイムである。

 一頻り楽しんだ後、祈理は持っていた小説を置いた。両腕を上げてぐぐっと伸びる。首を左右に捻れば、ぼきぼきぼきと何とも気持ちの良い音が鳴った。

 ふと顔を上げて時計を見れば、その針は夜の八時を指していた。

「うわー、もう八時かー」

 顔に手を当てて呻く。

「いやはや、時間の流れは早いものですなぁ」

 のんびりと呟いた後、お腹がくう、と小さく鳴った。

 

 ――急で申し訳ないが夕飯はいらない。帰りは遅くなりそうだから先に寝ておくように。

 そう志貴からメールが届いたのは何時間も前のことだった。ちょうど、「今日の夕飯何にしようかなぁ」と祈理が冷蔵庫の中身を確認していた時だった。

 文面を眺めつつ、祈理は首を傾げる。

「喫茶店の仕事かな?それともあっちの仕事かな?」

 まあ、どちらにせよ、夕飯がいらないことはわかった。

 了解しました、とメールを返す。絵文字も顔文字も使わない。可愛らしいスタンプも使わない。ただ一言打ち込んだだけのメールだった。

 我ながら酷く味気ない文だなぁと祈理自身思ってはいる。思ってはいるが「メールなんて文だけで十分でしょ」と自己完結に至ったのはもう何年も前の話だ。

 女の子らしいメールなんて知るか。用件が伝われば何も問題はない。

 そう思いながら味気ないメールを送り続けているのが祈理という女である。

 はてさて、それはさて置き。

「志貴さん夕飯いらないのかー……それなら、適当に済ませればいいか」

 一人だけの食卓なんて味気ないし、自分一人のために料理をするなんて面倒なだけだ。ご飯と漬物があればそれで十分。

 そう結論付けて、祈理は身を翻して歩き出す。食に関してあまり欲がないのが祈理という女である。

「さてさてさーて、読みかけの小説でも読むとするかな」

 小説を手に取りソファーへと向かう。全ては至福のひとときを満喫するために。


 そして、ソファーの上で小説を読み始め、ぶっ通しで読み続けて今に至る、という訳である。

 またもやくう、とお腹が小さく鳴った。祈理の胃袋は食べ物を所望していた。

 それだというのにご飯を食べる気がしないから厄介である。確かにお腹は空いている。でも、今はただただ妄想に耽っていたかった。

 何となく虚しさを覚えるのは本を読み終えてしまったからなのか、はたまたお腹が空いているからなのか、彼女自身わからなかった。

「……もうご飯はいいや」

 今からご飯を用意して食べるなんて、面倒くさいことこの上ない。

「一食ぐらい食べなくたって人間生きていけるよ」

 誰かさんが聞いたら確実に怒るだろうその言葉をまるで魔法の呪文のように唱える。瞼を閉じて再び妄想に浸ろうとしたその時、傍らに置いてあったスマホが振動した。

「んん?」

 ぱっと目を開けてスマホの画面を見遣る。届いたのは一通のメールだった。

 ――ちゃんと夕飯食べたか?

 差出人は言わずもがな志貴である。

「うわー、思考回路読まれてるー」

 え、あの人エスパーなの?

 タイミング良く送られてきたメールに、祈理は引きつった笑みを浮かべた。

「怖いわー、タイミング良すぎでしょ……えっと、今から食べますよっと」

 そう打ち込んでメールを送る。その文面はやはり味気ない。

 先に述べたように食べる気はなかったのだが、こうなってしまえば何か食べておかないと後が怖い。彼のぐちぐちネチネチなお説教など、できることなら回避したいのだ。

 ソファーから立ち上がって祈理はのろのろと冷蔵庫へと向かう。「あー、面倒臭いー」と呻きながらも、昨日の夕飯の残り物であるきゅうりの浅漬けを取り出して机の上に置く。

 炊飯器を開ければ、湯気がもわもわと辺りに立ち込めた。

 これが玉手箱だったら今頃わたしはお婆さんになっているんだろうなぁ……。

 なんて、そんな馬鹿なことを考えつつ、祈理は真っ白なご飯をしゃもじでふんわりと茶碗へとよそぎ、コップに麦茶を注いで席についた。いつもなら目の前に座るはずの人物は勿論いない。

「いただきます」

 一人呟いて箸を手に取った。

 きゅうりの浅漬けがぽりぽりと小気味よい音を奏でる。昨日食べた時より味がしみていて美味しい。

 口に塩っけと少しの冷たさが広がったところで、今度はほかほかのご飯を放り込む。文字通り噛み締めれば、ご飯の甘みが強く感じられた。

 それを数回繰り返しただけで祈理の胃袋は満たされた。その時間は五分にも満たない。食器を洗うのも合わせれば、せいぜい十分といったところだろうか。

 そんな少しの時間が祈理にとっては煩わしいのだ。

 彼女は昔から食べることよりも小説を読んだり書いたりすることを優先する人間だった。

 小説の続きが気になれば睡眠時間を削るなんてことはよくあることで、風呂に入るのも面倒くさいと思うこともある。尤も、風呂に入らないなんてことは一度もなかったが。祈理とはそういう女である。

 でも、今はそんな訳にはいかない。一人でこの家に住んでいる訳ではないのだから。

「無理に食べろとは言わない。でも、少しでいいから何かを食べろ」

 付き合う前、付き合ってから、そして、一緒に住むようになった今でも、志貴にずっとそう言われ続けている。ご飯を抜いて説教されたのは最早数え切れない程だ。

 因みに、説教する志貴に対して、「あなたはわたしのおかんですか」と火に油を注いでしまったのは祈理にとって若気の至りである。尤も、今でも「おかんだ……」と度々口に出しては志貴の機嫌を損ねているのだが。わざと損ねようとしている訳ではなく、ついつい口が滑ってしまうのだ。

「ほおー……誰が、おかんだって?」

「すみません、つい……」

「つい?」

「あ、いえ、何でもありません……」

 なんて、そんな遣り取りも何度もした。それでも言ってしまう自分は、学習能力がないのだろうか。

「おかんって言うとほんと怒るんだよねあの人……」

 祈理が遠い目をしていると、再度スマホが振動した。

 ほんと、噂をすれば何とやら、である。

 ――それで、食事の内容は?

 うーんと唸りながらも正直に申告する。ここで嘘など吐いてみろ。バレた後が怖い。

「きゅうりの浅漬けとご飯です」

 ――ちゃんと食べろって。

「……あなたはわたしのおかんですか」

 呟くだけにして、もちろんそんなことは打たなかった。口に出している時点でアウトな気がするが、相手が聞いている訳でもないためよしとする。思わずきょろきょろと辺りを見回してしまったが、相も変わらずここにいるのは自分一人で。祈理はほっと安堵の息を吐いた。

「漬物とご飯があれば十分なのです。それに、一人で食べても味気ないですし」

 二人で食べることに慣れてしまえば、一人で食べるのは寂しい。たとえ煩わしい食事の時間であろうとも、二人で一緒に食べるその時はとても愛おしくてとても幸せなものに感じるのだ。

 勿論、こんなことも打たない。そもそも本人に伝えるなんて無理な話だ。

 口に出してなんて言えないし、ましてや形に残るメールでなんて絶対に無理。無理ったら無理。羞恥で死ぬ。

 その後、少し間を置いて返ってきたのは、「すまない」という一言だった。

 どうやら、言外の寂しいという思いが伝わってしまったようだ。

 続けて送られてきた「できるだけ早く帰るから」という文に思わず頬が緩んでしまったのは仕方がない。仕方がないったら仕方がないのだ。

 スマホを両手で胸に抱きしめ、「むふふふ――」と声にならない声を出す。ソファーの上で体操座りをしながら右へ左へごろごろと体を傾けて悶える。その姿は、やはり滑稽に見えることだろう。

「……よし」

 充電は完了した。煩わしいがさっさと風呂に入ってしまおう。そして、心置きなく小説を書くのだ。そうしている間に、きっと彼も帰って来るだろう。

「さてさてさーて。お風呂だお風呂―」

 上機嫌に鼻歌を歌いながら、祈理はリビングを後にした。


   *


 仕事というものは疲れる。楽しいこともあるけれど、たいへんなことの方が多い。

 その仕事が好きであろうと嫌いであろうと、疲れない仕事なんてものはないだろう。

 今日は喫茶店の仕事だけでなく、急に入ったもう一つの仕事も受け持ったのでほとほと疲れていた。

 ――できるだけ早く帰るから。

 そうメールしておきながらも、今の時刻は深夜を回っている。

 もう祈理は眠っているだろうな……。風呂に入ってさっさと寝よう。

 そう心に決めて、志貴は我が家の扉を開ける。

「ただいま」

 小さく呟いて、ゆっくりと静かに扉を閉める。

 家の中はしんと静まり返っていて、自分が立てる物音以外一切しない。

 ネクタイを緩めつつ、なるべく音を立てないようにリビングへと向かう。

 辿り着いたリビングは明かりが点いたままだった。

 脱いだ上着と解いたネクタイをソファーに掛けようとしたその時、ふと目に付いたのはローテーブルの上にあるノートパソコンだった。

 開きっぱなしのそれに、もしやと思ってローテーブルとソファーの間を覗き込む。

「……全く」

 片手で顔を覆い、志貴は溜息を吐いた。

 覗き込んだその狭い空間で祈理は眠っていた。小さな体をまるで胎児のように丸めてすやすやと寝息を立てている。その姿に、呆れ半分微笑ましさ半分が志貴の胸の内を占めた。

 ローテーブルの上のパソコンの画面は真っ暗。確認をしたところ電源は入っていない。その傍には山積みになった小説だけでなく電子辞書が置かれていた。恐らく、執筆をしていたのだろう。何とかパソコンの電源を切ったまではよかったが、力尽きてそのまま眠ってしまったといったところだろうか。

 祈理が寝落ちするのはよくあることだった。今みたいに床に横になっていることもあれば、机に突っ伏していることもある。彼女曰く、「ちょっと休もうと思って目を瞑ったらいつの間にかそのまま眠っちゃいました」とのこと。

 志貴としてはこんな状態になる前に切り上げてベッドで……せめてソファーで寝てほしいのだが、なかなか直らないので困っている。ただパソコンがつけっ放しの場合なら消せばいいのだが、書きかけの文章が画面いっぱいに広がっていると、どう処理して良いのか迷うこともしばしばだ。それに何より、こんな所で寝て祈理が体調を崩さないかどうか心配だった。

「おい、こんな所で寝てたら風邪ひくぞ」

「……うう」

 肩を揺すれば祈理は眉間に皺を寄せて呻いた。だが、起きることはなかった。

「……しかたがないな」

 苦笑を零して、祈理に両手を伸ばしてゆっくりと抱え上げる。それでも祈理は起きない。

「やっぱり軽いな」

 小さな体は寝ていて弛緩しているから多少なりとも重い。けれど、軽い。軽いし、細い。こちらが心配になるぐらいに。

 それでもちゃんと重さがあって、彼女という存在が確かにここにある。

 その当たり前のことに、志貴はほっと息を吐いた。

 廊下を歩いている時も、寝室の扉を開けた時も、ベッドの上に下ろした時も、祈理は起きなかった。

「危機感の欠片もないな……」

 前髪を払って、あどけないその寝顔を見つめる。そうしていると、心が凪ぐのだ。肩の力が抜けて、自然と頬が緩む。

 ああ、帰ってきたんだ。自分の家に。彼女がいる、この場所に。

 そう実感するのだ。

 志貴が祈理の寝顔を見て一人安堵の息を吐いていることなど、眠っている祈理は知る由もない。

 それでいい。それでいいのだ。この感情は自分だけのものなのだから。たとえ祈理であろうとも――いや、祈理にだからこそ、知られたくないことだってある。

 静かに眠り続ける祈理の白い頬をゆるりと撫でて、志貴は立ち上がった。

 さっさと風呂に入ろう。そして、目の前の彼女を抱きしめて眠るのだ。

 明日……いや、もう今日か。彼女が目覚めたら、おはようとただいまを言おう。そうすれば、きっと寝惚けつつもへにゃりと笑った彼女から、おはようとおかえりが返って来るだろうから。

 小さな楽しみを抱きつつ、志貴は寝室を後にする。彼が浮かべている表情は酷く柔らかいものだった。

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