第六話
その男がこの店を訪れたのは偶然だった。
ネタが思い付かず気分転換がてら当てもなくふらふらと彷徨い歩いていたら、ふと目に入ったのがこの店だったらしい。
看板のない小さな店。
……一体、何の店なのだろう。
興味を掻き立てられ、ふらりと立ち入ったらこれまた店内も自分好みであった。
飴色の机や椅子。あたたかな光を放つ照明。ゆったりと流れる独特な時間。
その空間に男は魅了された。
そして、とどめと言わんばかりに運ばれてきたコーヒーに酷く胸を打たれたらしい。
以来、この店は彼のお気に入りの喫茶店となったそうな――。
カップを持ち上げて、香りを嗅ぐ。芳しい甘い香りが鼻腔をくすぐった。
暫しそれを楽しんだ後、ゆっくりと口に含めば、ほどよい酸味と苦みが口内を満たした。
「うん、美味しい」
「ありがとうございます」
静かに男が微笑む。ダンディな口元の髭や目尻に寄った皺を見て、この人も年を取ったなと志貴は密かに思った。
コーヒーを優雅に飲むこの男と出会ったのは、志貴がマスターと呼ばれるようになる前――まだアルバイトだった頃の話である。
先代のマスターこと師匠が「先生」と呼んでいるのに倣って、志貴も彼のことを「先生」と呼ぶようになった。
先生を初めて見た時、何処かで見たことあるような、と首を傾げていたら、なんと彼はテレビや雑誌でも取り上げられている有名な小説家だった。
余談ではあるが、先生の作品の中にはこの店をモデルとした喫茶店が登場しているものもある。それほどまでに、この喫茶店は彼にとってお気に入りの場所であった。
先生の正体がわかっても志貴は彼のファンでもなければミーハーでもなかったため、特にこれといって騒ぐことはなかった。
こんな小さな喫茶店に有名人がいるなんて凄いな。
などと、頭の中で軽く思っただけで。少しばかりの感動を覚えつつも、サインを貰おうなどという考えはなく、これといって緊張することもなく至って冷静だった。
……ああ、でも、あの時は緊張したな。
カップを拭きながら当時のことを回想していたら、ふと視線を感じた。
そちらを見遣れば先生と目が合った。先生は両手を組みながらまじまじと志貴を見ていた。
「どうかしましたか?」
「いやなに、君もなかなかどうしてマスター姿が板についてきたじゃないかと思ってね」
「そうですか?自分ではよくわかりません。まだまだって思うことは多々ありますけど」
「いやいや、このコーヒーだって本当に美味しいよ。まあ、最初に君が淹れてくれたコーヒーも私は好きだったがね」
「はは。お恥ずかしい限りです。あの頃はそれこそ本当にまだまだでしたから」
まだそれ程上手くコーヒーを淹れることができなかった当時のことを持ち出されると少々恥ずかしい。今よりも拙い手付きで淹れたコーヒーはある意味で若気の至りだ。
先生が来店したちょうどその時に師匠が居らず、志貴が彼にコーヒーを振る舞ったことがあった。一応客に振る舞う許可は師匠から得ていたのだが、いざ客に提供するとなるとそれはもう肩に力が入った。
誠意を込めて淹れた一杯が口に運ばれた瞬間の緊張感は今でも忘れられない。
もう少し上手く淹れろよなと当時の自分に悪態を吐きたくなるが、それでもあの時の技術ではあれが精一杯だった。
今から何年、何十年経っても、自分はきっとまた同じことを考えるだろう。
「もっと上手く淹れられるように精進しないと」
「結構な心掛けだ。だが、昔には昔の、今には今のいいところがそれぞれあると私は思うのだよ。今の君にしか出せない味を提供すればいいさ」
先生は静かにそう呟いた。
深い深い褐色の水面を見つめるその眼差しは酷く穏やかなものだった。
「なんて、偉そうなこと言ってすまないね」
「いえ、そんなことは」
先生は頬を掻きながら相好を崩した。彼が誤魔化すようにカップに口をつけようとしたその時、狙ったかのように電子音が鳴り響いた。
「ん、失礼」
断りを入れて、先生が懐から二つ折りの携帯電話を取り出す。どんなに長い話でも原稿用紙で小説を書き上げるという彼は機械の類が苦手で、その携帯は簡単に操作できる仕様のものだった。「えーっと……」と難しい顔をして携帯のボタンを押すその姿を見て、志貴は思わずくすりと笑ってしまった。
「もしもし?」
――先生!今何処にいるんですか?
志貴にまで響いてくる程の大きな声は何処か焦りを含むものだった。
大声をダイレクトに聞いてしまった本人は、顔を思い切り顰めていた。けれど、それも一瞬のことで。先生はすぐさま表情を戻して電話向こうの相手に対応する。
「ちょっと気分転換をしているだけさ。……ああ、大丈夫大丈夫。締め切りにはちゃんと間に合わせるから」
それから二言三言喋って、先生は電話を切った。
やれやれといった様子で溜息を吐いたその仕草に、志貴は首を傾げる。
「担当の方からですか?」
「ああ。プロットの締め切りが近くてね。せっつかれているんだよ」
プロットとは、いわば小説の設計図のことだ。その話の概要、登場人物の設定などを纏めたもので、小説を書く上ではとても重要なものである。
よく祈理が「ううー、プロット書くの苦手なんだよー」とか、「プロット……何それ美味しいの?」だとか、そんなことを言いながら頭を抱えている光景を志貴は何度も見たことがあった。
プロットを担当編集者に見てもらい、会議で通らなければ、小説家はその作品を書き進めることができないという。
それが書けていないのは、結構ヤバいのでは……。
「それで、何か案はあるんですか?」
「いや全然」
呆気からんとした返答はいっそ清々しい。
どうしたものかなぁという言葉の割には全然困っているようには見えない。
「まあ、焦って良い案が浮かぶとは限らないからね」
のんびりとコーヒーを啜っているその姿からは寧ろ余裕すら感じられた。
この人は相変わらずだな……。
流石だ、と褒めるべきか。はたまた呆れるべきか。
締め切りが近かろうと、彼は焦ることない。自分の気分が乗った時に書く。どれだけ有名になろうと、彼は自身のスタンスを変えない。変えることなんてできないし、変えるつもりもないのだろう。
それでも、何作も大ヒット作品を書き上げている人物である。彼の小説家としての技量は確かなもので。
閃いてしまえば仕事は早い。短時間の内に書いて締め切りに間に合わせてしまう。しかもそれが面白いときた。
そのことを担当もわかっているから、焦って連絡を入れつつも少ない言葉で早々に電話を終えたのだろう。尤も、困っていることにかわりはないのだろうが。
「担当の方は、先生を信頼されているんですね」
「うーん、それはどうかな。偶に原稿を落とすこともあるからね……。それに、信頼されているのなら、こんな電話は掛かってこないと思うんだけど」
「それは日頃の行いのせいだからじゃないですか?」
「ごもっともだ。どんな仕事でも締め切りを守ることと報連相は大事だな」
先生が肩を竦めてコーヒーを飲み干す。そして、ごちそうさまと言って、ゆっくりと腰を上げた。
「さてと、担当さんのためにも、家に帰って原稿用紙と睨めっこでもするかな」
「読者のためにもお願いしますね」
「まだまだ先の話だがな。次こそ彼女にも会えるといいが」
「今日来てたよって言ったら、また怒られそうです」
ぶつぶつと不満を漏らしながら怒る祈理の姿が容易に想像できる。
先生が来たことを告げれば、「何で呼んでくれなかったの!」と毎回毎回叫ばれるのだ。所謂、経験論というやつである。
祈理は先生の作品が大好きなのだ。
頬を染めて彼の作品について少し興奮気味に語るその姿は可愛らしい。その反面、自分以外の存在にそんな表情を浮かべているのだと思うと少しばかり面白くはない。
だから、ついつい意地悪をしてしまう。先生が来店したことをちょっと自慢げに話して、彼女の機嫌を態と損ねるのだ。
「先生が来店したら教えてって言ってるのに!」
「営業中に電話なんてできる訳ないだろう。機会があればそのうち会えるよ」
なんて、軽くあしらうこともしばしばで。
正論を言われてぐぬぬと押し黙る彼女の頭をぽんぽんと叩くのは最早恒例である。
別に会わせたくない訳じゃないのだ。でも、この店はもともと不定期営業だし、先生には先生の、祈理には祈理の、そして、志貴には志貴の都合というものがある。
そんな適当なことを述べて自分を正当化しようとする志貴の考えなど、目の前のこの人にはきっとお見通しなのだろう。
志貴のちょっとした嫉妬心とこの状況を先生はとても楽しんでいるようで。
「まあ、こういうのはばったりと会えるからいいんだよね」
と、そうのたまってしまう程には。志貴に賛同するかのような言葉を述べつつも笑みを深めるその姿からもそれは窺える。
昔から知っている子に大切な人ができて、幸せそうに笑っている。そのことが何よりも嬉しくて、微笑ましくて仕方がないのだ。
先生は目を閉じて、心の中で一人の人物を思い浮かべる。
――私も年を取ったものだよ、マスター。
瞼の裏に蘇った亡き人に、そう呼びかけた。
そして、ゆっくりと目を開けた彼が見た先にいたのは、現マスターの姿だった。
「では、そろそろ失礼させてもらうよ。マスター、彼女に宜しく」
軽く片手を挙げ、茶目っ気たっぷりにウインクをして、先生は店を去っていった。
年の割には若々しい、というか若い人でもあまりやらない仕草を平然とやってのける彼はいろんな意味で凄い。
「……ほんと楽しんでるよなあの人」
その後ろ姿を見送って、志貴は苦笑いを零すのだった。