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第四話

 がやがやと雑音が耳に入ってくる。生き物はこんなにも多くの音を聞いて、何故平気でいられるのだろうか。

 右を見ても人。左を見ても人。前を見ても人。後ろを見ても人。

 その状況に祈理は辟易していた。

 あまり人が多いところが得意ではない祈理にとって、休日のショッピングモールは敵なのだ。

 ふらふらと歩く彼女を見かねた志貴が「休憩するか」と入ったのは、ショッピングモール内にあるとあるカフェだった。

「ふむ、なるほどなるほど」

 話し声や足音、そして店内に流れる音楽。様々な音が聞こえてくる中で、志貴の小さな呟きは祈理の耳にはっきりと聞こえてきた。

 彼の目の前にあるのは、シンプルな黄金色のシフォンケーキだ。添えられた滑らかそうなクリームの上には艶やかに輝くベリーソースがとろりとかかっている。

 男性がデザートを食べる。スイーツ男子というものが当たり前になった今のご時世、それは当たり前の光景で。

 でも、スイーツを目の前にして何やらぶつぶつと呟いていたら、端から見たら少々怪しい。そんな人を見たら、「あ、この人ちょっと可笑しい人だ」とさっと目を逸らすのが普通の反応だろう。

 けれど、志貴の場合は違う。顎に手を当てて思案する姿はとても様になっている。現に、視界の隅に映る女性たちが志貴を見て頬を赤らめている。イケメンはなんと罪深いのだろう。

「分析、楽しいですか?」

「ん?……ああ。つい何が入ってるか考えちゃうんだよなぁ」

「ある種の職業病ですね」

「そうかもしれないな」

 志貴は苦笑いを零して肩を竦めた。

 まあ、気持ちはわからなくもない。祈理も、小説を読んでいる際にその文章について凄く気になってしまうことがあるから。

 分析とまではいかないが、「なるほど、こういう言葉があるのか」とか、「あ、この文章素晴らしい」とか、「こういう風に書けたらなぁ」とか思ったり、誤字や脱字が気になって直したい衝動に駆られたり、その他にもいろいろと考えてしまうことが多々ある。

 他人が作ったものを味わいながらも、ついついそういったことが気になってしまう。

 小説家も喫茶店のマスターもそれは同じなんだなぁと思うとちょっと面白い。

 それにしても……。

 ちらりと祈理は志貴を観察する。

 切り分けて口に運ぶ。ただそれだけのことなのに、彼の所作がとても綺麗で祈理は思わずほうっと見惚れてしまう。

 更には、口についたクリームをぺろりと舌で舐めとるその姿が艶めかしくて、じっと見つめていた祈理の顔がじわじわと赤く染まっていった。

 ……い、いかんいかん!何を考えてるんだわたしは!

 我に返った祈理が軽く頭を振っていると、すっと目の前に何かが差し出された。

 それは、フォークに刺された一口大のシフォンケーキで――

「……志貴さん?」

「何だ?」

「何ですかこれ」

「シフォンケーキ」

「いやそれはわかりますけど」

「だって、物欲しそうに見ていたから」

 食べたいのかなぁと思って。

 と、志貴が首を傾げる。

 ……確かに見てましたけど!見ていたのはそっちなどではなくて!

 所謂、『あーん』なこの状態。普通立場が逆ではないだろうか。

 まあ、家で時々彼にやってはいるけど……って、違うそうじゃない!

 今時何処に人前でこんなことをする恋人がいようか。いや、いない。……いや、いるかもしれないけれど、兎にも角にも他所様のことは今はどうでもいい!

 家の中ならまだしも、どうして外でこんなことをするのだ!イケメンだからって何でも許されると思うなよ!

 心中では荒ぶりつつも、実際にはあうあうと慌てふためく祈理を見て、志貴はにやにやと笑っている。

 ……ああ、絶対に確信犯だ。

 項垂れつつ、祈理はちらりと机の上のカップへと視線を向ける。中身は紅茶ではなくコーヒーのそれ。甘い物には苦い物をと思い、今回はコーヒーを注文したのだ。

 コーヒーの苦みでこの甘ったるい状況を何とか中和できないだろうか……。

 現実逃避よろしくそんなことを考えてみたが状況は変わらない。

 一旦落ち着こうと思って祈理がカップに手を伸ばそうとしたその時、「祈理」と名前を呼ばれた。

 咄嗟に志貴を見遣れば、

「ほら、さっさと食え」

「んぐっ!」

 問答無用と言わんばかりに口の中にシフォンケーキを突っ込まれた。

 無理矢理はよくないですよ!

 不満を述べたいが、ケーキがそれを邪魔する。

 満足そうな笑みを浮かべる志貴を不満げに睨みつつ、祈理はもぐもぐとそれを咀嚼した。

 口内に広がるのは優しい甘さ。でも、ただ甘いだけじゃなくて、ほのかな酸味もあって口当たりは爽やかだ。

「感想は?」

「……美味しいです。甘すぎなくて食べやすいです」

「たぶんヨーグルトが使われているんだろう。生地にヨーグルトを入れるとしっとりとした食感になるし、味もさっぱりとしたものになるんだ」

「なるほどなるほど」

「そっちはどうだ?」

 ふむふむと頷いていれば、志貴が祈理の手元を指差した。そこにあるのは、食べかけの抹茶タルトだった。

 鮮やかな緑色のタルトの上は真っ白なふわふわのクリームで飾り付けられており、黒光りする大粒の大納言小豆が散りばめられている。サクサクのビスケット生地と濃厚な抹茶味が売りのタルトだ。

「美味しいですよ」

「他に何か感想は?」

「美味です」

「……お前なぁ」

「語彙力ないわたしに食べ物の感想を求めちゃいけませんよ」

「おい小説家」

「ふふふ。まあまあ、百聞は一食にしかずですよ」

 はい、と皿ごと抹茶タルトを差し出せば、志貴は呆れた様子でそれを受け取った。

「お返しはしてくれないのか?」

 ここで言う『お返し』とは、『あーん』のことである。これまた意地の悪い笑みを浮かべられて、祈理は再び顔が熱くなった。

「しませんよ!あ、全部食べちゃってくれてかまいませんからっ!」

 半ば叫ぶように言えば、志貴がつまらなさそうに肩を竦めた。

「全く。くどいのあまり得意じゃないくせに頼むなよ」

「だって、美味しそうだったから……」

 つい頼んでしまったんです。だから、出来の悪い子を見るような目で見ないでください。

 そんな祈理の思いが通じたのか、志貴は一つ息を吐いた後、代わりにと言わんばかりにシフォンケーキを祈理に渡した。因みに、今回は祈理と同じく皿ごとである。

 大人しく手元の抹茶タルトを食べ始めた志貴にほっと胸を撫で下ろしつつ、祈理もシフォンケーキを口に含む。

 自分が食べていたものが今彼の元にあって、彼が食べていたものが今の自分の元にある。ただそれだけのことが少しだけ恥ずかしくて少しだけ嬉しいと思った。

 ああ、幸せだなぁ。

 シフォンケーキとともに小さな小さな幸せを嚙み締めていると、突然店内の音楽が止んだ。そして、背後から何やらがたがたと物音がした。

 振り返って見ると、小さなステージにギターを持った女性が立っていた。マイクの高さを変えたり、ギターの音程を調節したりしている。

 このカフェには小さいながらも立派なステージがあって、決まった時間になるとミニコンサートが始まるのだ。

 ピアノやサックス、クラリネットにフルート、ドラムやマリンバ、ウクレレ、アコーディオンなど、実に様々な種類の楽器が演奏される。楽器だけでなく、今日みたいにボーカルの時もある。

 ライブ演奏を聴いて、ゆったりと寛ぎながら至福のひとときを――というのが、このカフェのコンセプトらしい。

 ステージ上の女性が挨拶をする。一言二言話してから、演奏が始まった。

 それは、今流行りの曲だったり、誰もが知っている曲だったり、何処かで聞いたことのある曲だったり。

 時に静かに、時に手拍子と共に。一本のギターと女性の歌声で奏でられていく。

 ふと、志貴がどんな様子で聴いているのか気になって祈理はそちらに目を向けた。

 彼はステージを見ていなかった。すっと目を細めて見ていたのは、ステージとは反対側の店の隅で――

「……志貴さん」

 そっと顔を寄せて彼の名を呼んだ。

「ん?」

「もしかして『いる』んですか?」

 何を、とは言わなくても志貴には伝わったようだった。少し顔を顰めて、「……ああ」と頷いた。

「わたしにも見せてください」

 そう言えば、灰青の瞳が祈理を見つめた。それは、彼女の様子を窺うような視線だった。

 負けじと祈理も見つめ返す。たっぷり数十秒経った後、根負けしたように志貴が溜息を吐いた。そして、小さく聞こえてきたのは、ぱちんと指を鳴らす音で――。

 祈理の瞳に映るのは店内の隅。先程まで誰もいなかった場所。そこに、一人の女性が立っていた。彼女は何処か悲痛そうに一点を見つめている。その視線は、ステージ上に向けられていた。

 そんな彼女を見て、祈理は目を丸くさせた。何故なら、彼女は今歌っている女性と瓜二つの顔をしていたから。

 けれど、ステージ上の女性は煌びやかなドレスを着ているのに対し、店内の隅の彼女は薄汚れたシャツに破れたジーンズという出で立ちをしていた。

「志貴さん」

「何だ?」

「あの人って……」

 祈理の言葉に被せるように、ステージから声が響く。

「次が最後の曲です」

 女性の言葉に店内が静まり返った。

「これは、私の双子の姉が作曲したオリジナルソングです。天国にいる姉に届くように歌いたいと思います。聴いてください」

 そして、女性は最後の曲を歌い始めた。穏やかでアップテンポなその曲を。

 綺麗な歌声は透き通っていて、優しい声色だが何処か悲しい響きを含んでいた。

 店内の誰もがその歌声に聴き入っていたが、祈理は違った。

 ステージの上の女性に祈理は告げた。心の中で、告げた。

 あなたのお姉さんは天国になんていないのだと。この場にいて、あなたの姿を見て、歌を聴いているのだと。

 でも、祈理は口に出しては言わなかった。顔を伏せて何かを耐えるように小さな拳をぐっと握るだけで言葉を発することはなかった。

 店内が大きな拍手に包まれる。その中心にいる女性は深く深くお辞儀して、少しだけ泣きそうな顔を浮かべた。

 そっと顔を上げて祈理は店の隅にいる彼女を見た。彼女は涙を流していた。ずっとずっと静かに泣いていた。それでも彼女を気にかける者はいない。客も、店員も、ステージ上の女性も。誰も彼女には見向きもしない。

 だって、彼女は霊だから。その姿も声も、誰にも認知されない存在だから。

 ギターを持って、小さなステージから女性は去っていった。店内には無機質な音楽が流れ出し、それを合図に先程まで演奏に耳を傾けていた人々は何もなかったかのように食事を再開した。

 それでも、店の片隅の彼女は泣き続けていた。

 ……あの人はどうして泣いているのだろう。

 自分が作った曲を妹が演奏してくれたことに感動したからだろうか。でも、あの顔に浮かんでいるのは、聞こえてくる泣き声は、嬉しいという感情ではないような気がして――。

 祈理は想像する。浮かぶのは様々な可能性。そのどれが合っているのか祈理は知らない。自分が考えた中に正解があるのかも、もしくは全然的外れなのかもわからない。

 あそこで泣いている彼女に訊けばわかるのだろう。でも、祈理は動かなかった。動かなかったし動けなかった。まるで金縛りにあったかのように体が重い。

 見えていたとしても、祈理は何もしなかった。何かした方が良いのだろうかと逡巡したけれど、結局何もしなかった。ただ見ているだけ。ただ傍観者であり続けるだけだった。

「祈理」

 名を呼ばれた。先程も聞いた、聞き慣れた、とても落ち着く声。それは目の前の人から発せられたもので。

 心配そうに自分を見ている志貴の顔を認めた瞬間、ふっと体から力が抜けた。

「大丈夫か?」

「……大丈夫ですよ」

 ああ、心配をかけてしまった。志貴さんに、心配をかけてしまった。わたしが、見せてくれと我儘を言ったばかりに。

 自責の念に駆られつつも、祈理はへらりと笑う。

「でも、もうお腹いっぱいになっちゃいました。志貴さんはまだ食べられそうですか?」

「……ああ、もらうよ」

「美味しいですよ、それ」

「知ってる。さっき食べていたからな」

「さいですか」

 巫山戯て言えば苦笑された。

 再び自分の元へ戻ってきたシフォンケーキを志貴がゆっくりと食べ始める。

 その姿を見つめつつ、祈理は冷めかけのコーヒーを啜った。

 志貴さん。霊が見える人。霊を見せることができる人。そして、わたしよりもずっとずっとたくさんの霊を見続けてきた人。

 いつも何てことのないように振る舞って、こちらの心配ばかりしてくる。けれど、時々、彼が何処か辛そうに、何処か悲しそうに見えてしまう。

 大丈夫か、と志貴さんはわたしに言ったけれど……それは、わたしが言いたい言葉でもあるんですよ。

 その言葉は声にはならず、ただただ祈理の中に消えていった。

 彼女の耳には、もう泣き声は聞こえてこなかった。

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