第三話
使った食器や調理器具の片付けよし。店内の掃除よし。明日の準備よし。
たった今冷蔵庫の中身の確認も終わり、志貴はぱたんとその扉を閉めた。
ぐぐっと背伸びをした後、身につけているエプロンを取ろうと背中に腕を回したのだが、
「……ん?」
ふと動作を止めて、入り口の方へと意識を向ける。
入り口の扉に掛かっているのは『準備中』の掛札。この通り、今店は閉まっている状態だ。
でも、店の外で何かの気配を感じる。
「……まさか」
頭に浮かんだ可能性に思わず眉間に皺が寄った。
顰めっ面のまま入り口へと向かう。少し足音が荒んだが気にしていられない。
扉の取っ手に手を掛け、ゆっくりと開ける。徐々に開けていく外の世界。そして、そこにいたのは――
「こんばんは、志貴さん」
「……こんばんは」
「来ちゃいました」
「お前なぁ……」
予想的中。一人の少女……もとい、一人の女性がそこにいた。
背中まで伸びた少し癖のある黒髪。鈴を張ったような黒褐色の目。童顔且つ小柄な体躯も相俟って、とても二十歳を過ぎているようには見えない。
悪戯が成功した子どものようににこにこと笑う彼女こと祈理はこの店の常連客。そして、志貴の恋人である。
突如現れた祈理に志貴の顔が引きつったが致し方ないことだろう。
全く、夜に一人で歩き回るなよな……。
いくら普通ではないからといって、夜に出歩いて良いという理由にはならない。何度言っても直らない祈理の行動に志貴は頭を抱えた。
そんな志貴の心配など露知らず。脱力している彼を見て、祈理は不思議そうに小首を傾げる。
「志貴さんお疲れですか?」
「誰かさんのおかげでな」
「んん?」
更に首を傾げる祈理にやはり自覚なんてものはないようだ。
まあ、いいや。いや、全然何もよくないが。これは後で説教コースか……うん、説教コースだな。
脳内でそう考え、取り敢えず今は彼女の細い手首を掴んで店の中へと入らせる。
壁の掛け時計を見遣れば、時刻は夜の十時を回っていた。
……今からコーヒーはやめておくか。眠れなくなるのは嫌だし。
尤も、今の彼女には関係ない話ではあるのだが。
「ホットミルクでも飲むか?」
「いいんですか?」
「ああ」
こくりと一つ頷く。すると、「やったー」と嬉しそうに呟いて祈理がいつもの席に着いた。
……ほんと、子どもみたいなやつだなぁ。
呆れ半分微笑ましさ半分を感じつつ、志貴はカウンターの中に入る。
マグカップを二つ出して、牛乳を注ぎ込む。それを電子レンジに入れて加熱されるのを待つ。
折角片付けたものだが、ホットミルクぐらいならカップやスプーンを洗うだけで済むため特に気にしない。閉店間際に客が来るとげんなりすることもあるが、今回は自分の彼女であるためそれも特に気にしない。
――ほんと、志貴は祈理ちゃんに甘いよねー。
幼馴染の声が耳に響いた気がした。
「今日は何してたんだ?」
「小説を書いたり、ご飯を作ったり、洗濯したり、アイロンかけたりですかね」
「ほおー……つまり、いつも通りに引き籠もって過ごしていたということか」
「……あの、馬鹿にしてます?」
「してないよ」
祈理がむっと顔を顰める。そして、家事がいかにたいへんかを語り始めた。
確かに家事はたいへんだ。それは、自分もよく理解している。だが、最近家のことは彼女に任せっきりなので何も言えなかった。
波風を立てないためにも、こういう時は聞き流すに限る。
それはそれは。
はいはい。
すごいすごい。
と、志貴が適当に相槌を打っていれば、チンと電子レンジが軽快な音を奏でた。
カップを取り出して、温めたミルクにとろりと蜂蜜を垂らす。白と黄金をぐるぐるとスプーンでかき混ぜて祈理に渡した。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
祈理はカップを受け取って、ふーふーと息を吹きかけた。そして、ゆっくりと少しずつそれを飲んだ。
……これに気を取られて家事の話終わってくれないかなぁ。
なんて、そんな打算的なことを考えながら志貴は祈理の様子を観察する。
「美味しいですねぇ」
「それはよかった」
ほっと息を吐いた祈理の顔は完全に緩みきっている。その顔を見て、自分の頬も緩んでいくのを志貴は感じた。
こんなことで、と自分でも思うが、彼女の幸せそうな姿を見ると嬉しくなるのだから仕方がない。
あたたかくて、穏やかで。こんな感情を抱くなんて、少し前までは思いもしなかった。凪いだ心とは裏腹に時に激情を抱くこともあるけれどそれも含めてだ。
彼女と出会って自分は変わった。
そう、志貴自身思っている。それは、良い意味でも悪い意味でもだ。けれど、その変化が悪いことだとは思わない。たとえ悪いことがあろうとも、それを不幸だとは思わない。
志貴の人生の中で祈理と共に過ごしてきた時間は圧倒的に少ない。
同じ家に住んでいるのだとしても、丸一日一緒にいるわけではもちろんない。自分には自分の、彼女には彼女の生活がある。それは重々承知しているが、祈理がいない人生なんて今では考えられない。今の自分を構成しているものの中に彼女が確かに存在しているのだ。
未来のことなんてわからない。けれど、彼女と一緒に生きていきたいと思ったからこそ今がある。
少し前までは赤の他人で、知人で、恋人で。そんな関係の変化を不思議に感じる時もある。
もちろん喧嘩をすることだってある。お互いに不安もあれば不満もあるわけで、ほんの些細なことがきっかけで爆発して喧嘩してしまうこともある。
全てを共有するなんてことはできない。時間も然り、感情も然り。
それでも、ほんの少しの時間とほんの少しの感情を共有できることに幸せを感じられるのは、偏に彼女と一緒にいるからだ。
願わくは、最期の時まで――。
そう考えてしまうのは、強欲過ぎるだろうか。
志貴がじっと祈理を眺めつつ思考していれば、徐ろに彼女が顔を上げた。
見ていたのがバレたのかと思ってさっと目を逸らしたのだが、どうやらそういう訳ではないようだ。
祈理は志貴を認めて、おずおずと口を開いた。
「あの……さっきはすみませんでした」
「さっき?」
「家事のことです。志貴さんだって、料理したり掃除したりしているのに……。お店、一人で頑張っているのに……偉そうなこと言ってすみませんでした」
頭を下げる祈理に、志貴がぱちぱちと目を瞬かせる。
そして、彼女の旋毛を暫し見つめた後、ふっと笑った。
「別に謝ることじゃないだろ。実際に家のことは祈理に任せっきりだし」
「でも、面倒くさいなと思ってサボる日もありますし……」
未だ顔を俯かせたままの祈理に志貴が呆れた眼差しを向ける。
……正直者かよ。
そんなこと申告しなくてもいいのにと思わなくもないが、彼女の変に素直なところが割と好きなので志貴は指摘しなかった。
「別にサボりたいならサボればいいさ。俺だってそういう時があるし」
「……イケメンな志貴さんでも?」
「今イケメンとか関係ないだろ……。それより、これを機にやっぱり家事はちゃんと分担しよう」
「いえ、それは結構です」
祈理がきっぱりと断れば、志貴は不機嫌そうに顔を顰めた。
「何でだよ」
「家のことはわたしがやります!そりゃあ、偶にはサボりますけど、別に家事が嫌いなわけではないので……だから、どうか!どうか家のことは任せてください!」
土下座する勢いで祈理が頼む。
「何でそんなに必死なんだよ」
若干引き気味な志貴にそう言われて、祈理はぐっと言葉に詰まった。
い、言えない!家事をしている時に「まるで奥さんみたいだなぁ……」などと思っているなんてことは絶対に志貴さんには言えない!
訝しげに見てくる志貴を祈理はあはははと空笑いで受け流す。……尤も、受け流しきれてなどいないのだが。
「と、ところで、志貴さんって明日の仕事何時に終わりますか?」
あ、話逸らしたな。
わかりやすい奴だなぁと呆れながらも、あからさまな話題転換について志貴が突っ込むことはなかった。
「何かあるのか?」
「いやぁ、買い物に連れてってほしいなぁ、なんて……」
ちらちらとこちらを窺う様子に、何だそんなことかと志貴は呆れた。
付き合う前も、付き合ってからも、祈理は何処か遠慮がちだ。時にはぐいぐい来ることもあるけれど、基本自分を押し殺すことが多い。きっとそれは彼女の元来の性格故だろう。
もう少し我儘になってくれてもいいのに。
志貴としてはそう思ってはいるが、その思いも虚しく現実はこれである。更に言えば、甘やかせば「子ども扱いしないでください」と怒られる始末で。
別にそういうつもりではないんだけどなぁ……。全く、どうしたものかな……。
内心で盛大に溜息を吐きながら志貴は答える。
「昼からならいいぞ」
「ほんとですか?よかったー。明日特売日だからいろいろと買い込んでおきたかったんですよー」
……こいつ、俺に荷物を持たせる気満々だな。まあ、彼女に重い荷物を持たせて何もしない彼氏にはなりたくないし、そもそも非力な祈理に重い荷物なんて持たせたらふらついてまともに歩けないだろうし、そんな姿なんて危なっかしくて見ていられないし、そもそも荷物を持たせようなんて思ってもいないから別にいいんだけど。
と、志貴は一瞬のうちに思考した。
未だカップを持つ祈理の手は小さくて、己の手で包み込めば簡単に隠れてしまうのを彼は知っていた。
か細い腕は力を入れれば簡単に折れてしまいそうで。脆くて非力で守ってあげたいと思う存在。けれど、いざという時の意志の強さが彼女の小さな身の内にあることも彼は知っている。
それでも、頼ってほしいんだよなぁ……。
なんて、そう思ってしまう。それこそただの自分の我儘だろうか。
……全く、どうしようもないな。
自嘲する男の小さな悩みが尽きることなどない。
カップの中は既に空になっていた。
暫く二人で他愛もないことを談笑していると、何かを察したように、あ、と祈理が小さく声を漏らした。
「どうかしたか?」
「もうそろそろ時間のようです」
「……そうか。それ片付けたら帰るよ」
「わかりました」
ごちそうさまでしたと祈理が手を合わせて丁寧に頭を下げる。「お粗末様でした」と返せば、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
志貴が彼女を見たのはこれが最後だった。……尤も、最期ではなく最後であり、更に付け加えるならば、今日この店で、だ。
ぱちり、と志貴が瞬きをしたほんの一瞬。
彼が次に目を開けた時、目の前に彼女の姿はなかった。
先程まで祈理が座っていた席を見つめて志貴は一人呟く。
「ほんと、たいへんだよなぁ」
まあ、人のことは言えないけど。
小さく笑う自分以外、誰もいない空間で志貴は思う。
端からみたら自分たちは普通の人間だ。けれど、自分も彼女も明らかに普通ではない点がある。
それでも、どちらも普通に生きている。全てとはいかないまでもお互いに共有して、二人で普通に生活している。
そんな生活を志貴は幸せだと感じるのだ。