第十九話
色褪せたレンガ調の壁。深紅の店舗テント。緑色の扉には、『営業中』の札が掛かっている。
大都会よりも田舎、ど田舎よりも都会。そんな町の片隅にひっそりと佇むそれは、小さな喫茶店だった。
だが、可愛らしい外見の何処を見ても店名を記した看板はない。それ故に傍から見たら何の店なのかわからない。
そんな少し変わった喫茶店の中。カウンター内の椅子に座って志貴は待っていた。
何を待っていたかと言えば――
「……よし」
小さな小さな呟きが耳に届いた。それは目の前の彼女から発せられたもので。
満足そうに顔を上げた祈理が、次の瞬間はっとしたように辺りを見回した。
目を丸くさせて唖然とした様子で掛け時計を見ている。
その様子を見て、志貴はくつくつと笑った。
いつも通り、「お待たせいたしました」と志貴が声を掛けて、祈理の元へ紅茶を運んだのは数刻前の出来事だった。
祈理は「ありがとうございます」と言って、嬉しそうに紅茶を飲み始める。
自分が淹れた紅茶を幸せそうに飲む彼女を見るのは快かった。
けれど、ずっと見ている訳にはいかない。彼女の他にも客はいるし、一人の客を贔屓する訳にはいかないのだ。
志貴が他の客の対応をしている間に、祈理は鞄から小さなノートを取り出してそこに何かを書き始めた。
かりかりと祈理が文字を書き連ねる音がかすかにだが志貴には聞こえていた。
祈理がそうしている間に他の客はいなくなって、この店にいるのは志貴と祈理の二人だけになった。
祈理のキリがついて、その時他に客がいなかったら閉めるか。
そんなことを考えながら、志貴は己のために淹れたコーヒーを片手に彼女を眺めていた。
以前、彼女が寝ている間にこっそりノートを見たことがあったが、志貴にはさっぱりわからなかった。
字が汚過ぎて読めないとかではない。そこには、ただ単に物語が書かれているのではなく、あらすじやら登場人物の設定なども書き連ねてあって、それが幾つも存在していた。
植物と話せる人間の話が書いてあるかと思えば、次のページには過去・現在・未来が見える人々の話が書いてあり、その次には青春モノらしき話が、その次には妖怪が出てくる話が……といったように、その内容はばらばらだ。しかも、数ページ先にまた同じ設定の話が書かれているものだから、前のページを遡らなければならない場合もある。
それだけでなく、単語や会話文、一言二言で終わっているものもあった。
……ダメだ、さっぱりわからん。
諦めてぱたんとノートを閉じたのは仕方がないことだと思う。
何故なら、祈理にノートの中を見たことは言わずに「そんなに文字を書き連ねて、何処に何が書いてあるかわかるのか?」と訊いてみたら、
「いえ、全然」
と、そう呆気からんと答えられてしまったのだから。書いた本人である祈理がわからないことを、書いてもいない志貴にわかるはずもない。
志貴の視線に気づくことなく、祈理はただただ文字を書いている。その姿は何処か楽しそうだ。
……この前まであんなにひいひい言いながら書いていたのにな。
思い出して志貴はくすりと笑った。祈理はそれにも気づくことなく、ただひたすらに手を動かしていた。
数ヶ月前。志貴が仕事で怪我をして、何日も家に帰って来られなかったあの時。更に詳しく言えば、志貴の意識が飛んでいる最中のことだ。
その時に祈理が書き上げた小説は出版されることとなり、祈理は締め切りに追われることとなった。
何度も何度も自分が書いた小説を推敲する。読んでは直し、付け加えては直し、悩んで、直して、悩んで、直して、直して、直し続けて。
「終わりました!」
何処か誇らしげに、叫ぶようにそう告げられて、志貴は苦笑しつつも「お疲れ様」とその小さな頭をゆるゆると撫でて褒めた。
物語を書くことのたいへんさはよくわからないけれど、仕事をやり遂げた達成感は志貴もよく知っているから。
その日、志貴は祈理をそれはもう甘やかした。
「すみませんすみません!もう勘弁してください!」
と、祈理に懇願される程に甘やかしたのだがそれはさて置き。
この数ヶ月、実にいろいろなことがあった。
祈理に改めてプロポーズをして。幼馴染にはお小言を貰い、そして呆れながらも祝いの言葉を贈られて。
本当に、いろいろあったなぁ……。
志貴は一人回想に耽る。
だが、それらがあったからこそ今があって――
「たくさん書けたか?」
「……うーん、まあまあですかねぇ」
顔を上げた祈理に訊ねれば、返ってきたのは曖昧な言葉で。
がさごそとノートをしまう祈理を横目に見ながら、志貴が椅子から立ち上がる。
「さて、そろそろ閉めようかな」
「手伝います」
今度は即答されて、志貴は苦笑した。
扉の掛札を『準備中』にかえて、カップなどを回収しつつ再びカウンター内に戻って行く志貴の後を祈理がついて行く。
志貴が食器を洗って、その隣で祈理が拭く。それは以前と何ら変わらない。
だが、変わったこともあって――
「あっ、おいこら待て外すな」
「すみません、つい……」
右手をもう片方の手に伸ばした祈理を志貴が慌てて止めた。
――ああ、またやってしまった。
そう言わんばかりに、何処となく申し訳なさそうに祈理が右手を下ろす。そうして見えたのは、左手薬指に嵌る銀色の指輪だった。
大きさは違えど、同じデザインのそれは志貴の左手薬指にも嵌っていて。
「好い加減慣れろ」
「こういうのは、慣れようと思って慣れるものではなくてですね」
「慣れろ」
「……はい」
念を押すようにもう一度言われて、祈理はこくりと頷いた。
そんな彼女を見て、全く、と志貴が悪態を吐く。
事あるごとに祈理はその細い指から指輪を外そうとするのだ。
傷がつくから、とか、落とすかもしれないから、とか、様々な理由を述べる祈理と、ここ数ヶ月そんな攻防戦を繰り広げている。
毎回勝つのは志貴だ。
漸く渡せた指輪なのだ。できることなら片時も外して欲しくはない。
「結婚している証なんだからちゃんとつけていろ」
女々しいかなと思いつつそう伝えれば、祈理はちょっと顔を赤らめながら「……はい」と素直に頷く。そのことを志貴は知っている。経験論だ。
彼女は決して指輪をつけていたくない訳ではなくて、ただ単に大切だからこそ、もしものことを考えて外してしまうだけなのだ。
それを知って志貴が人知れず安堵の息を吐いたことなど、祈理は知らない。
因みに、祈理が指輪を見て時々一人でにやけていることも志貴は知っている。尤も、本人はバレていないと思っているようだが……残念、バレバレである。
「志貴さん、どうかしましたか?」
手が止まっていたからか、祈理が下から覗き込むように訊いてきた。
「いや、幸せだなぁと思って」
「どうしたんですか急に。また頭でも打ちました?」
「打ってない」
「それじゃあ、何か変な物でも食べました?」
「食べてない。ここで客に振る舞う料理の味見を除けば、祈理が作った物しか食べてない。強いて言うのなら、早く帰って祈理の料理が食べたい」
「う、うわぁ……」
「おい、引くか照れるかどっちかにしろ」
カップを洗っていて手が濡れているからか、志貴に小突かれることはなかった。
祈理は無駄だと思ったが、拭いていたソーサーで顔を隠した。でも、それはやはり小さ過ぎて、少しばかり赤くなった顔を隠しきれてなかった。
人に自分が作ったものを食べてもらえることは、とても嬉しいことだ。それが、大切な人なら尚のこと。
それはきっと、自分なんかよりも目の前のこの人の方がよく知っているだろう。
「わたしも、幸せだなぁって思いますよ」
はにかみつつもそう告げれば、志貴が灰青の目を見開いた。
二人はお互いに顔を見合わせて、そして、幸せそうに笑った。
喫茶店のマスターと客。彼氏と彼女。そして、夫と妻。
関係は変わっても、それでも二人は同じ時間を生きていく。
霊が見えて見せられる者と霊になってしまう者。
少し変わっているけれど、それでも二人は普通に暮らしている。
ただそれだけのことが幸せだと、二人は思うのだ。




