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第十八話

 ゆっくりと瞼を開ける。

 一瞬祈理は自分が何処にいるのかわからなかったが、それもすぐにわかった。

 見慣れた玄関。数日前、祈理が志貴を見送った場所。

 志貴を、最後に見た場所だ。

 床がひんやりとしていて冷たい。頭が痛くて、酷く体が怠くて、意識がぼんやりとしていた。

 こんなところで寝ていたからか、それとも泣きすぎたからか、はたまた生霊となっていたからか。よくわからないが、体が重くて動く気にもならない。

 日はすっかりと沈んでいて、電気も点けていない家は暗かった。

 明かりもなく、物音も一つもしない。自分以外誰もいない。

 そんな現実から逃げるように、祈理は膝を抱えてそこに顔を埋めた。

 じわりとまた涙が出てきた。

「何で帰って来ないの……」

 震える唇で、掠れた声で、祈理は呟く。それに答える者は、答えてくれる者は誰もいない。

 はらはらと涙を零すことしかできない自分が情けない。

 もしも、もしも、志貴さんに何かあったら――。

 怪我をして帰って来た時の彼の姿が脳裏を過ぎって、もっと酷い状態を想像してしまった。考えることは暗いことばかりで、考えれば考えるほど怖くなった。

 だが、彼の安否を確認する術など、祈理にはなくて。

 志貴がこの家にいなくても、祈理は普通に生活してきた。

 でも、それは彼が帰って来ると、それが当たり前のことだと思っていたからだ。

 その当たり前が当たり前ではなくなる可能性はいつだって、何処にだって、誰にだって存在している。普通であろうとなかろうと、それは誰にでも当てはまる。

 その現実を忘れていた訳ではない。だが、そんなことは起きないと何処かで思っていたのも事実で。

 ただ、普通に暮らしたいだけなのに。

 ただ、二人で一緒にいたいだけなのに。

 ただ、それだけなのに。

 酷く脆いな、と思う。自分と彼の関係など、酷く脆いものなのだ、と。

 電話が繋がらなければ、あの喫茶店が開いてなければ、この家に志貴が帰って来なければ、彼との関係などすぐ断たれてしまう。

 そして何より、自分の存在自体が脆いと思った。脆すぎて、子どものように泣くことしかできなくて、ほんと嫌になる。

「……ダメだ」

 こんなんじゃダメだ。

 普通に、いつも通りにしていなくては。

 その思いが祈理の胸の内を占めた。

 手で涙を拭って、自分に言い聞かせるように「大丈夫大丈夫」と唱える。そして、壁に手をついて、力なく立ち上がった。

 家の中は暗い。暗いのは、苦手だ。寒く感じる。冷たく感じる。怖く感じる。孤独を、感じる。

 震える足を一歩前に出す。ぺたり、と踏み出した足が床につく。ぺたりぺたりと歩いて、祈理が玄関の電気を点けた、その時――。

 ガチャリ、と音がした。ガチャガチャとそれは外から聞こえてくる。びくりと肩を震わせて、緩慢な動作で祈理はそちらを見遣った。

 彼女の動きに呼応するかのように、ゆっくりと扉が開いた。

「……こんなところで何してるんだ?」

 耳に届いたのは、聞き慣れた心地よい声。目に入ってきたのは、焦がれた姿。

 その頭には包帯が巻かれており、行きよりもスーツは草臥れている。

 驚いたように目を見開いた後、その灰青色の瞳が優しい眼差しで、そして、何処かほっとした様子で祈理を見つめた。

 その姿を認めて、祈理が彼の名を小さな口で紡いだ。

「……志貴さん?」

「見ての通り志貴だけど。どうした?まるで霊にでも遭ったような顔して」

「霊なんですか?」

「いや、ちゃんと生きてるよ」

 ほら、と志貴が祈理へと手を差し出した。

 一歩一歩祈理が志貴に近寄る。恐る恐る伸ばされた祈理の手が、指先を伝って、志貴の掌と重なった。

 ――温かい。

 そう感じた時、志貴に手首を掴まれてそのまま引き寄せられた。そして、腕が背中に回り、しっかりと抱き締められる。

 華奢な祈理の体が志貴の腕の中におさまった。

 安心するぬくもりと匂いに包まれる。更には、あやすように背中を撫でてくるものだから、元から緩んでいた祈理の涙腺が決壊してしまった。

 祈理が広い背中に腕を回す。思い切りぎゅっと握れば、スーツに皺が寄った。

「今まで、何してたんですかっ!」

「何って……仕事だけど」

「その頭の怪我は何ですか!」

「仕事中に頭打った。それで気絶して、病院に運ばれて、ここ数日間入院していた」

「にゅ、入院?何で……何で、連絡してくれなかったんですか!電話しても繋がらないし!」

「暫く意識不明だったし、スマホが壊れて使えなかったんだ」

「い、意識不明って……。というか、公衆電話があるじゃないですか!」

「番号を覚えてなくて、電話しようにも電話できなかった」

「家電なら覚えているでしょ!」

「覚えているよ」

「それなら!」

「かけたさ」

 でも、祈理出なかったし。

 喚く祈理を遮るように、少し困ったように志貴が頬を掻いた。

 けれど、家の電話が鳴った記憶など、祈理にはさっぱりなかった。

 何で気づかなかったんだろう……もしかして、自分が生霊と化していた間にかけてきた、とか?

 そうだとしたら、タイミングが悪すぎる。

 ぐすぐすと子どものように祈理は泣き続ける。気づけば緩々と宥めるように頭を撫でられていた。

「心配かけてごめん。さっき言った通り、仕事中に頭打って気絶して、病院送りになっていたんだ。目が覚めて祈理に連絡しようとしたんだけど、スマホはぶっ壊れてるし、家電は繋がらないしで……帰った方が早いかなと思って、さっさと退院して帰って来たんだ」

 心配かけてごめんな。

 静かに凪いだ声。それは酷く優しいものだった。

「……許しません。許して、あげません」

 祈理は絞り出すように声を上げた。

 だって、心配したのだ。

 いつも通り見送ったはずなのに、帰って来なくて。だから、いつもはしないのに何度も何度も電話してしまって。でも、連絡も取れなくて。

 それなのに、この男は何ともなしに帰って来た。尤も、それはあくまで表情だけで、実際には怪我を負って帰って来たのだが、それが更に祈理の感情を揺さぶった。

 ずっと心配していたのに!それなのに、第一声が「こんなところで何してるんだ?」だって?

 全くもって腹が立って仕方がない。

 悔しくて、悔しくて……安心して、涙が出てくる。

 祈理は志貴にぐりぐりと顔を押し付ける。涙や鼻水でシャツやスーツが悲惨なことになろうが知ったこっちゃない。自分でクリーニングに出すがいい。

 そんなことを恨みがましく思いつつ、顔を埋めたままくぐもった声で祈理は言う。

「許してあげません」

「……それは困ったな」

 そう言ってはいるが、全然困ったようには聞こえない。

 それに対しても腹が立って、悔しくて。ぺしり、と祈理はその背中を叩いた。

「怪我、は……」

「ん?」

「他に、怪我は?」

「打撲して体のあちこちがちょっと痛いだけで、他は特にないよ」

「そう、ですか……」

「ああ。明日からはまた普通に喫茶店のマスターだ」

「そんなことはどうでもいいんです」

「そんなことって……」

 それはないだろう、と志貴が苦笑いを零した。

 黙れと言わんばかりにぺしり、と祈理が再度その背中を叩く。

「志貴さんは、人間なんです」

「まあ、人間だな」

「志貴さんは、ただの人間なんです。霊が見えて、他人に見せられて。そういうことができても、ただの人間なんですよ」

 祈理が顔を上げる。未だ涙に濡れた眼で、確と志貴を認めた。

「あなたはただの人間で、わたしの大切な人なんですよ」

 はっきりと告げられた言葉に、志貴が目を見開いた。

 それこそ、まるで霊でも見たようにじっと祈理を見て固まっている。いや、霊見ただけで志貴はこんなに驚いたりはしないが。

「志貴さん?」

 名を呼ばれてはっとした志貴は、さっと視線を逸らした。片手で顔を覆い、あーだとかうーだとか何やら呻いた後、深く息を吐いた。

 一体、どうしたんだろう……。

 珍しい志貴の様子に祈理が首を傾げていると、突然志貴がぱっと顔を上げた。

 向けられた灰青色の瞳は酷く真剣で。その美しさに、祈理は息を呑んだ。

「結婚してくれ」

「……はい?」

 唐突に投下された結婚という二文字の言葉に、ぱちぱちと祈理が目を瞬かせた。

 何言ってるんだろうこの人……。頭でも打った?いや、打ってたわ。

 志貴の頭の包帯を眺めつつ、祈理は回らない頭でそう思った。

 一方、そんな祈理に俄然せずといった様子で志貴が続ける。

「怪我して、入院して、それでも祈理に連絡が行くことはなくて……ああ、恋人は結局他人なんだなって思ったんだ。結婚して夫婦になれば、俺に何かあった時でも祈理に連絡が行くだろ?」

「まあ、そうですね」

「人間、何が起こるかわからないって今回のことで身に染みたし」

「わたしもです」

「本当はムードとかタイミングを見計らってプロポーズしようと思っていたんだけど……まあ、ちょうどいい」

「いや、何がいいのか全然わからないんですけど」

「指輪は今度の休みに一緒に見に行くとして……あ、ウェディングドレスと白無垢どっちがいい?」

「あの、待って……。ちょっと待ってください……」

 噛み合っているような、噛み合っていないような会話が二人の間を飛び交う。

 左手で祈理を抱きしめつつ、右手を顎に当てて志貴はこれからの生活について何やら考えていた。

 その姿は実に様になっている。だが、その腕の中の人物が混乱していることに、果たして彼は気づいているのかいないのか。

 気づいていながらもわざと畳み掛けているのか、それとも、気づいていなくとも畳み掛けているのか。どちらにせよ、彼を止められる者などいなかった。

 一方、祈理はと言えば、

「……まだ返事してないんだけどなぁ」

 と、ぽつりと呟いた。

 事実は小説よりも奇なり。

 その言葉が祈理の頭の中をぐるぐると回っていた。

 何がどうしてこうなっているのかさっぱりわからない。さっぱりわからないが、どうやら自分はプロポーズされたらしいということは何となくだが理解した。

 じわりじわりと志貴の言葉が胸の内に広がっていって。それは嬉しさと少しの気恥ずかしさを伴って、心と体をあたたかくしていった。

 嬉しい……凄く、嬉しい。

 口元が自然と綻んでしまう。ついでに、止まっていた涙がまた溢れそうになってきた。

 けれど、祈理は涙を零さなかった。目に溜まってはいるが、ぐっとそれを堪えた。

 ……泣いている場合じゃない!プロポーズの返事をしなくては!

 そう思うものの、いざ言おうとするとなかなか言えなかった。それに、未だ志貴は何やら思案していて、完全にタイミングを逃してしまった気がする。

 どうしたものかなぁ、と祈理は考える。

 勿論、断る気なんてさらさらないし、返事をしたいと思うのだが、今ここで、この状況で返事をするのは何か違う気すらしてきた。

 取り敢えず、今確実に言えるのは――。

 祈理はスーツの袖を掴んでくいくいと引っ張った。それに気づいた志貴が祈理と目を合わせる。

「志貴さん」

「どうした?」

 美しい灰青の瞳が自分を見つめてくれることが嬉しくて。

 今ここにこの人がいるのだということがただただ嬉しくて。

 すぅと一つ息を吸う。そして、蕾が綻ぶように、ふわり、と祈理は微笑んだ。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 ずっと言いたかった言葉に、ずっと聞きたかった言葉に、柔らかな笑みを浮かべたのは、彼か、彼女か――。

 抱きしめ合って、体温を分かち合って、そして二人は笑い合った。

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