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第十七話

 画面に最後の文字が刻まれた。

 キーボードに触れていた手を離して、その代わりにマウスを持つ。

 カーソルを移動させしっかりとそれを保存した祈理は、ばっと両手を天へと掲げた。

「できた!」

 一人なのをいいことに、声を大にして叫ぶ。

 子どものようにはしゃぐ祈理を咎める者はいなかった。

 上機嫌で鼻歌までも歌い出した彼女は浮かれていた。それはもう盛大に、だ。

 何故そんなに浮かれているのかと問われれば、理由は至って簡単。小説を書き終えたからである。

 世界の何処かしらには、今書き終えたばかりの話と似たような話が存在しているのかもしれない。そして、もっと面白い話が存在しているのかもしれない。

 でも、それでも、自分は一つの物語を書き終えたのだ。

 何万という文字で構成された、自分が生み出した物語。

 これが一冊の本となって世に出るのかはわからない。けれど、今確かに祈理の胸に占めるのは、物語を書き終えた達成感と満足感、物語を生み出したという誇らしさ、そして、終わってしまったという少しばかりの寂しさだった。

 それらを味わいながら、祈理は保存できているのかをもう一度確かめた後、ノートパソコンを閉じた。

 まだ修正したいところはたくさんある。誤字や脱字は勿論のこと、表記の違いとか、語句の使い方の間違えとか、読み返せば矛盾しているところもあるだろう。

 でも、今日はこれで終わり。

 一つの物語を書き終えた。今日はただただそれだけに浸っていたかった。

「こんな時、志貴さんがいたらなぁ……」

 ぽつりと零れた言葉は虚空へと消えた。

 いつもなら、「小説書き終えたんですよ!」と誇らしげに言えば、「お疲れ様」と言葉が返ってくるのだ。

 けれど、今は言葉が返ってくるどころか、小説を完結させたことを伝えることもできない。

 数時間経てば伝えられるのではなく、数日経たなければ伝えられないのが酷くもどかしい。

 祈理はそっと目を閉じる。耳に響くのはカチカチという時計の音だけで。

 当たり前のことなのに、祈理は不思議に感じた。

 昨日まで会っていた人に会えないということが。

 と言っても、たかが三日のことである。

 その間、喫茶店が開くことはない。マスターである志貴がいないからだ。

 志貴はもう一つの仕事で出張中だった。故に、数日間彼がこの家に帰って来ることはない。

 それならスマホで電話するかメールを送れば良いのではないかと思うが、祈理はそれを実行しようとは思わない。

 イレギュラーな場合を除いて、祈理は仕事中の志貴に連絡をしたがらない。彼の仕事を邪魔してはならないという気持ちがあるからだ。

 勿論、志貴から連絡があったらちゃんと返すが、自分からということはあまりない。

 ――小説書き終えました!

 その一文という名の私情で連絡するのもなぁと考えてしまい、志貴に連絡を入れるのは憚られた。

 尤も、志貴に直接伝えたい、直接自慢したい、直接褒められたいという下心があったのも理由の一つではあるが。

 玄関で彼を見送って、あっという間に一日目が終わった。あと二日で彼は帰ってくるし、そうすれば店だって再開する。

 志貴が家に居ようと居まいと、それでも祈理は普通に暮らす。

 いつもみたいに起きて、ご飯を食べて、洗濯をして、掃除をして、文章を書き連ねて、小説を読んで、お風呂に入って、そして、寝る。

 それを繰り返していれば、あと二日なんてあっという間に終わってしまうだろう。

 でも、何処かぽっかりと穴が空いている。

 家で一人ぼっちなんて慣れているはずなのに、一緒に住んでいる人が帰って来ないことが、会えないことが寂しい。

 常日頃から二人で一緒の職場で働いている訳でもないから、一緒にいる時間なんてものは限られていて。喫茶店に行ったとしても、祈理は客でしかなくて。二人だけでいる時とはやっぱり志貴の対応は違うもので。

 でも、関係はどうであれ、会おうと思えば会える。あの喫茶店に行けば。

 だけど、今は違う。先にも言ったように喫茶店は開いていないのだ。

 出張先が何処なのか詳しいことはわからない。何も知らない。彼が何処で何をしているのか知らない。でも、そんなことはいつものことだ。

 三日経てば帰って来る。普通に会える。いつも通りに待っていればいい。そして、彼が帰って来たら伝えればいい。

 そう、祈理は思っていた。


   *


 夕方の公園にて。

 そこには遊具で遊ぶ子どもたちもいたが、ベンチに座る二人を見る者は、見られる者は、いなかった。

「志貴が帰って来ない?」

 首を傾げたことにより、陽に照らされた金髪が揺れる。大きな目を丸くさせる景に、祈理はこくりと頷いた。

「本当なら、一昨日帰って来る予定だったんです。でも、帰って来なくて……。今日になっても帰って来なくて……」

「電話は?電話はしてみたの?」

「はい。でも、繋がりませんでした」

「そうか……」

「景さんは、志貴さんの出張先が何処なのか知りませんか?」

「うーん、いくら幼馴染とはいえ、志貴の予定を全て把握している訳じゃないからなぁ……。出張に行ってることも、今祈理ちゃんから聞いて初めて知ったし……」

「そう、ですか……」

 景さんならもしかしたら何か知っているかもしれない。

 そう考えた祈理の予想は外れてしまった。

 こうなってしまっては、志貴が今何処で何をしているのか、知る術など祈理にはなくて。祈理にはもうどうすることもできなかった。

「もし、志貴さんに何かあったら……」

 無意識に零れ落ちた言葉。もしものことを考えると手が震えて、それをおさえるように祈理は両手を組んだ。

 ちらりとそれを一瞥して、景は顎に手を当てて考える。

「うーん、もしかして……」

「もしかして?」

 何か心当たりがあるのかと祈理が固唾を呑む。

 景はキリリと形の良い眉を上げ、人差し指をピンと立てた。

「浮気、とか」

 なーんて、冗談だよ。

 そう続けようとしたが、その途中で景は口を閉ざした。

 何故なら、景の言葉を聞いた祈理の顔から表情が消えてしまっていたから。

 あ、ヤバい。余計なこと言っちゃったわ。

 なんて、景がそんなことを思っても後の祭りで。

「浮気……志貴さんが、浮気……」

「い、祈理ちゃん?」

「そうか……浮気か……。そっちの線は考えていなかったなぁ……」

「冗談だから!さっきの、ただの冗談だからね!」

 顔を俯かせ、どんどん落ち込んでいく祈理に景が慌てふためく。

 場を明るくさせるために冗談で言ったつもりだったのだが、今の祈理に冗談など通じなかったようだ。更に言うのなら、傷口に塩を塗ったようなもので。

 ここまでメンタルがやられているとはねぇ……。あー、今この場に志貴がいなくてよかった。

 景は内心でほっと息を吐いた。

 こんな状態の祈理ちゃんを志貴が見たらどうなることやら……。

 まず言えることは、その原因の一つである自分が確実にぶっ飛ばされるだろう。「志貴が浮気しているかもしれない」なんて言ったことがバレてみろ。喫茶店出禁ならまだ良い方だ。……いや、これ以上考えるのは今はやめておこう。

 志貴が本気で怒ったらどうなるかなんてこと、幼馴染である景が一番よくわかっている。

 なんであんなこと言っちゃったかなぁ……。

 後悔しても後の祭りで。

 だが、祈理がこうなっている原因は自分だけではないのだ。

「全く、何やってるんだか……」

 それは、自分と、そして志貴に対しての言葉だった。

 そもそも、君がいないからこんなことになっているんだぞー志貴ー。

 女性を不安にさせるなんて、一人の男として情けない。それが大切な人なら尚更だ。

 悲しませるなんてことしないように、って言っておいたのに……。わかっている、って言っていたくせに……。全く、フラグ回収してるんじゃないよ。

 本人に直接悪態を吐きたいところだが、その相手がいないのだからもどかしい。

 どうしたものかなぁと困りながらも、未だ黙りこくってしまっている祈理に景が励ますように言う。

「大丈夫だよ、祈理ちゃん。志貴は浮気なんかしないからさ。あいつは祈理ちゃん一筋だからさ」

「そうだと嬉しいですけどわかりませんよ……。男心と秋の空って言いますし……」

「女心と、じゃないの?」

「男心の方もありますよ。まあ、こんなちんちくりんなんかより、志貴さんにはもっと素敵な大人の女性の方が似合うだろうし……」

「祈理ちゃん、頼むから志貴の前でそんなこと言わないでね」

 それは、祈理に対してだけでなく、自分自身の保身のための言葉でもあった。

 もし、志貴に知られたら……どうなるかわかったもんじゃない。

 ぶるりと身を震わせて、想像を打ち消すように景が頭を振る。

 ……ああ、志貴がいなくて本当によかった。

 そして、本日二度目の安堵の息を吐いたのだった。

 だが、いなくて良いのはこの場にだけである。誰も帰って来るなとは言っていない。寧ろ、早く帰って来いと叫びたかった。

 頭を抱える景に対し、祈理は虚ろげに空を眺めていた。夕焼け空に揺蕩う羊雲を見つめながら、その小さな口がゆっくりと動く。

「それに、形はどうであれ人間いつかはお別れする時が来るものですし……」

 ぽつりと呟いた後、祈理ははっとした。そして、すぐさま「ご、ごめんなさい」と謝った。

 ここにいる景は、霊だ。死ぬという一番辛い別れを経験した彼がいるというのに、自分はなんてことを言ってしまったのだろう。

 青ざめる祈理に、景は苦笑いした。そして、さっとベンチから立ち上がり、彼女の正面へと移動した。

「顔を上げてよ祈理ちゃん」

 優しい声音で言われて、祈理の肩が震えた。促されるままに祈理はゆっくりと顔を上げる。

 ベンチに座ったままの祈理が目の前に立つ景を認めた。

 景は瞼を閉じて、幼い子に言い聞かせるように彼女に告げる。

「確かに、いつかは別れる時が来るよ。理由はどうであれ、必ずその時はやって来る」

 けどさ、と景は目を開けた。深緑の瞳が祈理を映した。

「志貴と祈理ちゃんのその時は今じゃない」

 そう告げられ、祈理は目を見開いた。

「まあ、そもそも僕が浮気云々言っちゃったのが悪いんだけどね」

 あはは、と頭を掻きながら何処かばつが悪そうに景が言う。

 そんな彼をぼんやりと眺めつつ、祈理は彼の言葉を反芻した。

 ――その時は、今じゃない。

 はっきりと告げられた言葉。その言葉が、祈理の心の中にすとんと落ちてきて――。

 ……そうか、今は、その時じゃないのか。

 人に言われないとそう思えないなんて情けないなと思う。けれど、ずっと志貴と一緒にいた景にそう言ってもらえて、祈理は少しだけ勇気が沸いた気がした。

「志貴が帰って来ないのはさ、仕事が長引いているからだと思うよ。祈理ちゃんも知っての通り、不規則な仕事だしね。それで、連絡が取れないのはスマホの充電が切れたとかそんな落ちだろうよ。あいつ、結構適当なところがあるし」

 祈理ちゃんもそう思わない?

 景に言われて、祈理は考えてみた。

 ――あ、ヤバい。充電切れたわ。

 そう言って、やらかしたと顔を顰める志貴の姿が脳裏に思い浮かんで、祈理は思わずふふっと笑ってしまった。

 漸く見られた彼女の笑みに、景は人知れず息を吐いた。

「兎に角、僕の方で何かわかったら連絡するよ。伝手ならあるしね。だから、祈理ちゃんはあまり心配しないでね」

「……お願いします」

 祈理がゆっくりと頭を下げる。けれど、心配な気持ちは拭えず、その声は少しばかり震えていた。

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