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第十五話

 何処に座ってもいいはずなのにいつも同じ席に座ってしまう。

 学生の頃からそうだった。決まってもいないのに毎回毎回同じ席に座ってしまう。他の席だと何だか落ち着かなくて。それに、いつも座っている席に他の人が座っていると、何でそこに座っているんだと思ってしまう。何処に座ろうとその人の自由だし、そもそもその席は自分のものではないというのにそう思ってしまうのだ。

 そして、今まさに「何でそこに座っているんですか!」とまではいかないが、あーあ、と落胆したところだった。

 学生時代から自分は変わっていないなぁと思って、祈理は少しだけ笑ってしまった。

 いつも座っている席――カウンター席の隅っこには先客がいた。

 齢五十程で、品のいいレースのワンピースを身に纏った婦人だった。

 まあ、自分がいつも座っているからといって、そこが自分だけのものとは限らないのは当たり前のことで。別の席に座ることだって勿論あるし、いつもとは違う場所に座って違う景色を見るのも偶にはいいだろう。

 ……さてさてさーて、何処に座ろうかなぁ。

 きょろきょろと店内を見渡して空いている席を確認する。

 あ、窓際のテーブル席が空いている。

 祈理は一歩踏み出してそちらに行こうとした、のだが――

「そこのお嬢さん、宜しければこちらでご一緒しません?」

 そう声を掛けてきたのは、先の婦人だった。

 こちらを見て手招きしている婦人を見て、祈理は思わず背後を確認した。だが、そこにあるのは緑の扉だけで。それならば近くにいる別の人に声を掛けたのかもしれないと思ったけど、店の出入り口付近にいるのは祈理だけで。

「……わたし、ですか?」

「ええ」

 念のため自分を指差しながら訊ねれば、婦人は祈理を見つめてこくりと頷いた。

 ……良かったー。ここで違うって言われたらかなり恥ずかしかったー。

 合っていたことにほっと息を吐いた祈理だが、それと同時に「何でわたしなんかを誘うんだろう?」という疑問が過ぎった。

 どう返せば良いのかわからなくて祈理が視線を彷徨わせていると、婦人が少し寂しそうに眉を下げた。

「……そうよね、いきなり知らないおばさんにこんなこと言われたら迷惑よね。こんなおばさんと話したくなんてないわよね」

「ええっと……」

「いいのよ。気にしないで。おばさんは一人で寂しく飲むから」

「ご、ご一緒させてください!」

 あまりにも哀愁が漂っていたため、祈理は半ば叫ぶように言ってしまった。

 その言葉を聞いた婦人はぱあっと花が咲くような笑みを浮かべたかと思えば、さっと自身の隣の椅子をひいた。

「さあさ、こちらの席へどうぞ……って、あらやだ、私の店でもないのに。ごめんなさいねマスター」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

 おほほほと笑う婦人に、「あ、もしかして嵌められた?」と祈理は顔を引きつらせる。

 婦人に促されるまま席に座れば、一連の遣り取りを見ていた志貴にふっと鼻で笑われた。

 ……気にしない。気にしたら負けだ!

「マスター、いつもので!」

「かしこまりました」

 祈理は意地悪のつもりで「いつもの」なんて言ってしまったが、志貴は迷うことなく紅茶の準備に取り掛かった。

 流石ですと称賛すればいいのか……。はたまた、紅茶ばかり頼んでいて悪かったですねと怒ればいいのか……。

 祈理が複雑な気持ちでいると、隣からふふふと笑い声が聞こえてきた。

「二人とも仲が良いわねぇ」

「……ただからかわれているだけですよ」

「そんなことないと思うわよ?」

 むすっと膨れっ面になる祈理を婦人は尚も笑いながら窘める。微笑ましそうに見つめられて、祈理は少しばかり恥ずかしかった。

「お嬢さんはこの店の常連さんなの?」

「紅茶ばかり頼んでいる常連客ですね」

 そう言ってちらりと志貴を見遣ったが特に反応はなかった。

 そんな祈理を見て、婦人はいっそう笑顔を深くした。

「やっぱり。さっきの口ぶりからして、そうかと思ったのよ」

 それにしても、と頬に手を当てて婦人は続ける。

「お嬢さん、まだお若いのにねぇ……。私はこんなおばさんだからいいけど……青春真っ盛りなその若さでねぇ……」

 祈理をじっと見つめて婦人が痛ましそうに呟く。

 きっと婦人が言いたいのは、「その若さで亡くなるなんて可哀想に」ということなのだろう。

 そんなことを言われて、何とも言えない申し訳なさが祈理の胸を占めた。

 すみませんすみませんすみません!わたしは青春真っ盛りな年でもないし、霊にはなっているけど生霊なんです!わたし、まだ死んではいないんです!

 脳内で盛大に平謝りしつつ、荒ぶる感情を表に出さないようにしながら、祈理は婦人に訂正した。

「あのー……わたし、まだ死んではいないんです」

「あら」

「それと、成人してから何年も経っているので、青春真っ盛りでもなくてですね……」

「あらあら。いやだわ、ごめんなさいね。いろいろと勘違いしちゃったみたいで……」

 頬に手を当てて、少し恥ずかしそうに謝罪した老人に、「いえいえ」と祈理が返す。年齢を間違えられるのはよくあることなので、と口には出さず心の中で祈理は付け足した。

 ふと、何かを思いついた婦人が「あ、そうだ」と口を開いた。

「ねぇ、お嬢さん。いきなりで申し訳ないんだけど貴女は今何か欲しいものはない?」

「……はい?」

 突然そんなことを訊かれて、祈理が素っ頓狂な声を上げる。そして、ぱちぱちと目を瞬かせ、首を傾げた。

「欲しいもの、ですか?」

「ええ。実は私、どうやら欲しいものがあるみたいなの。何かが足りなくて心にぽっかりと穴が空いているような気がして……。欲しい欲しいって心の中でずっと思っているんだけど……でも、それが何だかわからなくて。思い出せそうなんだけどなかなか思い出せなくて……。だから、いろんな人に訊いているの。もしかしたら、その中に私の欲しいものがあるかもしれないから」

 そう婦人が言い、祈理は「なるほどなるほど……」と相槌を打つ。

「それで、お嬢さんは何が欲しい?何でもいいから何か言ってみて?」

 パッと思いついたものでいいから、なんて婦人は言う。

 うーんと唸って、祈理はぽつりと言葉を紡ぐ。

「やっぱり、文才ですかね……」

「え?」

「あっ、いえ何でもありません。そうですね……わたしは、本が欲しいです」

「本?服とかアクセサリーとかは?」

「本が欲しいです」

 きっぱりとそう言えば、婦人は何処か感心したようにほうと息を吐いた。

「偉いわねぇ……」

「別に偉くはないですよ。全ては、私利私欲のためです」

「私利私欲、ねぇ……ふふ、私が貴女ぐらいの頃は、モデルさんが着ている服が欲しくて欲しくて仕方がなかったわ」

「今は違うんですか?」

「確かに欲しいかと訊かれれば欲しいけど、心揺さぶられる程欲しいって訳じゃないから、きっと私が今本当に欲しいと思っているものではないわね。本を読むのも好きだけど……どうやらそれも違うみたい」

「そうですか……」

「ごめんなさいね。いきなり訊いておいてこんなこと言うなんて」

「いえいえ、気にしないでください」

 軽く返せば婦人はふんわりと微笑んだ。口元と目尻に皺が寄り、その笑みは柔らかく温かいものだった。

 人間、こんな風に美しく年を取れるものなんだなぁ……。

 頭の片隅で祈理はそう思った。

「お嬢さん。もし欲しいものがあってそれが手に入れられるものなら、我慢しないことをお勧めするわ。本当に欲しいと思うものなら特に。死んでしまったらどうしようもないもの」

「……はい」

 カップを撫でながら、婦人は目を閉じて静かに言った。言葉に重みがあって、祈理はただ頷くことしかできなかった。

 欲しくても手に入れられないものがあるのは当然のことで。それは、生きている人だとか霊だとかは関係ない。

 この人は、人生の中でどれだけ欲しいものを手に入れることができたのだろう。

 そして、霊となった彼女は今、一体何が欲しいのだろう。……まあ、それがわからないから彼女はこうして彷徨っているのだが。

 自分は生きているうちに、どれだけ欲しいものを手に入れることができるのだろう。

 これだけは、何としてでも。

 そう強く思う瞬間は、きっと誰にでもあって――。

「お待たせいたしました」

 祈理が思考に耽っていると、目の前に紅茶が置かれた。

 ぱっと顔を上げれば、志貴が綺麗な笑みを浮かべていた。

 お礼を言って、祈理は紅茶に手を付ける。

 婦人のカップにコーヒーのおかわりを注ぐ志貴を眺めつつ、ふと祈理は考える。

 顔良し、頭良し、運動神経良し。更には料理の腕も良し。

 全く、世の中って本当に不公平だ。

 そう思ってしまうぐらい、人々が羨むものを志貴は持っている。おまけに普通の人にはない類稀な才能も持っていて。

 そんな彼にも何か欲しいものはあるのだろうか。

 これだけは、何としてでも手に入れたいと思うものがあるのだろうか。

 もし、そんなものがあるとしたら……ちょっと嬉しい、かな。完璧なこの人にも、そんなものがあるのだと、人間らしいところがあるのだとほっとできるから。

 その一方で、そんなことを思ってしまう自分の浅ましさが嫌だと祈理は思った。

 ……ああ、駄目だ。こんなことを考えていては、折角の紅茶が不味くなってしまう。

 祈理はぶんぶんと頭を振って暗い思考を打ち消した。「どうかした?」とこちらを心配げに見てきた婦人に、「何でもないです」と笑って誤魔化す。

 婦人は何か言いたげだったが、それをさせないように祈理は先に口を開いた。

「紅茶美味しいなぁと思っただけですよ」

「……そう」

 笑顔をはりつけて紅茶を飲むが、きっとそれはぎこちないものだっただろう。それでも、何も訊いてこない婦人にありがたさと申し訳なさを感じつつ、今は彼女の優しさに甘えることにした。

 その後も祈理は婦人と様々なことを駄弁った。

 それは楽しいひと時だった。だがその一方で、祈理は何故だか苦さを感じていた。

 ……今飲んでいるのはコーヒーじゃなくて紅茶なのになぁ。

 なんて、巫山戯てそんなことを思ってみるも、心は晴れない。

 欲しいもの。

 わたしが、欲しいもの。

 志貴さんが、欲しいもの。

 婦人と会話をしながらも、ずっと何かが胸につかえて苦しかった。


   *


「久しぶりにおしゃべりができて楽しかったわ」

 頬を緩ませ満足そうに婦人が言った。

 それは、生きている人間と何ら変わりのない姿だった。

「わたしも楽しかったです」

 祈理がそう言えば、婦人は柔らかな笑みを浮かべた。そして、上品に喫茶店から去って行った。

 店内には志貴と祈理だけとなった。

 じゃあじゃあと志貴がカップを洗う音をぼんやりと聞きながら、祈理は徐に口を開いた。

「志貴さんは何か欲しいものありますか?」

 不意に口をついた言葉に自分自身で驚きつつ、祈理は胸のつかえが少しだけ取れた気がした。

「欲しいもの?」

 水を止め、手を拭きながら志貴が祈理を見遣る。

「……ああ、さっきの婦人との話か」

「はい」

 合点した様子の志貴が顎に手を当ててふむ、と考える。

 そんな姿もこれまた絵になるからズルいなぁと祈理はぼんやりと思った。

「強いて言うなら……そうだな、金かな」

「うわぁ……」

「おい、何だその反応は」

「いや、夢がないなぁ、と」

「夢がないって言うけど、本を買うのにもまず金がないとはじまらないだろ」

「確かにそうですけど、そうじゃなくて……」

 祈理が脱力して項垂れる。

 ああもうこの人に訊いたのが間違いだった気がする、と一瞬考えてしまったが許してほしい。

「お金以外でお願いします」

「そうは言ってもなぁ……。欲しいもの……欲しいもの、か……」

 じっと志貴が祈理を見つめる。そうかと思えば、ふっと小さく笑った。

「……いや、今はまだその時じゃないか」

「何のことです?」

「何でもないよ」

 ゆるゆると頭を振る志貴に、祈理はただただ首を傾げるのだった。

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