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第十四話

 まだ少し湿ったままの髪をタオルで拭きながら、祈理はペタペタと廊下を歩く。

 その途中で冷蔵庫からカップアイスを取り出し、スプーンも持って意気揚々とソファーへと向かえば、そこには志貴がぶっ倒れていた。

 ……いつの間に帰って来ていたんだろう。

 いや、いつと言われれば、自分が風呂に入っていた時なのだろうが。

 全然気づかなかった、と祈理は肩を落とした。

 ソファーに近づいて志貴を観察すれば、その目は閉じられていて。

 祈理はアイスとスプーンをローテーブルに置いた。

 志貴にそっと手を伸ばして、その頬をつんつんと突いてみる。ダメだ、反応がない。

 次いで、肩をゆさゆさと揺すってみる。ダメだ、反応がない。

「志貴さん。おーい、志貴さーん」

 今度は呼び掛けてみたがピクリとも動かない。

「ダメだ、ただの屍のようだ」

「……誰が屍だって?」

 ふるふると頭を振って祈理が巫山戯てそんなことをのたまれば、声が聞こえてきた。

 おや、と思い顔を向ければ、透き通った灰青の瞳と目が合った。

「おかえりなさい、志貴さん」

「……ただいま」

 掠れた声には疲労が滲み出ていた。

「お疲れのようですね」

「……ああ、疲れた」

 志貴がゆっくりと気怠げに起き上がる。彼が身に纏っていたスーツの上着はネクタイとともに既にソファーの背凭れに乱雑に置かれており、シャツは首元のボタンが外されていた。けれど、上着をハンガーにかけたり、部屋着に着替えたりする気力はなかったらしい。

 喫茶店では見せないだらけたその姿に、祈理はついつい口元が緩んでしまう。

 まあ、客がいない間にコーヒーを飲んだり、暇だと欠伸を零したりしていることはあるが、それでもやはり仕事の時と家にいる時は違うだろう。

 喫茶店のマスターたる志貴は、笑顔を携えてコーヒーや紅茶などを客に振る舞う。もう一つの仕事をどういう風に彼がこなしているかは祈理にはわからないけれど、たとえ自分の好きなことであろうとなかろうと、どんな仕事も疲れるものだ。

「あいつは顔には出さないけど、なんだかんだ気を張っていると思うんだ」

 だから、まあ、宜しく頼むよ。

 前に景がそんなことを言っていた。

 何を宜しく頼むかは教えてくれなかったが、祈理がこくりと頷けば景は満足げに笑った。

 景の言葉を思い出しながら、祈理は願う。

 この家が志貴さんにとっての休息の場でありますように、と。

 うとうとと船を漕いでいる志貴の姿に、よっぽど疲れているんだなぁと思いつつ、祈理はその頭にゆっくりと手を伸ばす。そして、そのまま梳くように髪を撫でた。

「相変わらずさらさらな髪だなぁ……」

 優しく撫でていたのだが、いよいよ志貴が寝落ちしそうになったので、いかんいかんと祈理はその手を止めた。

 この状態でこのまま寝られたら、それはもう非常に困る。風呂は朝に入ってもらうとして、こんな所で寝たら確実に疲れなど取れないだろう。だが、小柄な自分が彼をベッドに運ぶなど無理なことだ。

 あと、着替えさせるのも無理。シャツを脱がせるだとか、その細い腰のベルトに手を掛けるだとか、無理だ。無理ったら無理。羞恥心で死ぬ。

 この際着替えはいいからせめてベッドに行ってほしい!

 祈理は再度志貴の肩を揺さぶり、時にべしべしと叩きながら、彼が完全に夢の世界へと旅立たないように妨害する。

「志貴さん、こんな所で寝ないでください」

「んー……」

 呻く声が色っぽい……じゃなくて!

 こんな生温い方法じゃダメだ!何か……何か!

 きょろきょろと辺りを見回す。「こうなったらリモコンで叩く?いや、でもなぁ……」と暫し逡巡して、ふと目に入ったのはローテーブルに置かれたそれ。はっと祈理は閃いた。

 さっとそれを手に取って、ぐいっと志貴のシャツの襟元を引っ張る。

「とりゃあっ!」

「……うわっ!」

 威勢の良い掛け声とともに祈理はそれを――アイスを志貴の首元に押し当てた。

 生温い方法じゃダメだと思った彼女は、アイスの冷たさで目を覚まさせるという物理的手段を取ったのだった。

 ひやりとした感覚に志貴がパッと目を開く。慌てて祈理の細い手首を掴んで、己の首元から冷たいそれを引き剥がした。

「目が覚めましたか?」

「……覚めた」

 悪戯っぽく笑う祈理に、志貴は片手で顔を覆った。

 もっと別の方法で起こせよと思わなくもなかったが、彼女の行動は自分が寝落ちしそうになったからであるから、志貴は何も言えなかった。

「ついでにアイス食べます?」

「……食べる」

 不貞腐れながらも素直に頷いた志貴に、「ちょっと待っていてくださいね」と声を掛けて祈理はアイスの蓋を開ける。

 放置していたおかげか少し柔らかくなった部分をスプーンで掬って、それを志貴に差し出す。

 開いた口にアイスを放り込んで、志貴が咀嚼している間に自分もアイスを食べる。

 それを何度も繰り返しながら、祈理は薄く笑みを零した。

 さながら、雛に餌をやる親鳥の気分である。

 慣れとは恐ろしいもので、初めは食べさせるという行為に照れていたが、今となっては人が見ていなければどうってことはない。

 更に言えば、「素直に口を開ける志貴さん可愛いなぁ……」なんて思っていたりするのだが、そんなことは彼には言えない。言えないったら言えないのだ。

「男にはプライドというものがあってだね……それを踏みにじるようなことはしちゃダメだよ」

 なんて、そんな忠告も前に景が言っていた。それを思い出すと尚のこと言えないし、そもそも言うつもりなんてこれっぽっちもない。

 言ったら最後、「ほおー、そんなことを思っていたのか……」と据わった目で睨まれてやり返されるのは目に見えている。

 イケメンは怒ると怖い。経験論だ。

「ん?何笑っているんだ?」

「いやー、風呂上がりのアイスは最高だなぁと思って!」

 訝しげに見てくる志貴に、祈理は声を張り上げて誤魔化した。


 二人で食べればあっという間にアイスはなくなった。その頃には、志貴の目もすっかり覚めていた。

「志貴さん、お風呂入りますか?」

「入る」

「それなら、入ってきてください。タオルと着替えは用意しておきますので」

「祈理も一緒に……」

「わたしはもう入りました!」

 言わせねぇよ!

 そう言わんばかりに食い気味に言った祈理に、志貴が少々残念そうに「そうか……」と呟いた。

 だが、直ぐ様にこりと浮かべられた笑みに、祈理は嫌な予感しかしなかった。

「それなら、せめて服を脱がしてくれ」

「……はい?」

「眠くて脱ぐ気力もないんだ」

「いやいや、明らかに目覚めていますよね?ほらほら、つべこべ言ってないでさっさと入ってきてください!」

 祈理は両手で志貴の腕を掴んでソファーから立ち上がらせた。

 そのまま後ろに回りこんでぐいぐいとその背を押す。

 絶対に今意地悪い笑み浮かべているよこの人!

 後ろにいるため志貴の表情は窺えないが、その背に触れた掌から振動が伝わってくるし、何よりくつくつ笑う声もばっちりと聞こえている。

 ……ああ、こっちはさっきの志貴さんの言葉で顔が熱いというのに!

 振り向くなー振り向くなーと念じながら、急いで志貴を浴室へと押し込む。

 ばんっと扉を閉めた祈理はふぅと息を吐いた。

「……何か疲れた」

 未だ志貴のからかいには慣れなくて、その度に慌てふためいてしまう自分が情けない。

「いつか……いつかぎゃふんと言わせてやる!」

 そう意気込んで、祈理はどすどすと足音を荒立てて廊下を歩き出す。

 因みに、この時既に志貴の着替えを用意するということを祈理はすっかり忘れてしまっていた。

 故に、浴室から出てきた志貴が腰にタオルを巻いただけの姿で、驚いた祈理が思わず声を荒げてしまったのはその数十分後の話である。

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