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第十三話

 ばんっと勢いよく緑色の扉が開かれた。それに合わせて大きく大きく鈴が揺れる。

 足音を荒げながら喫茶店に入ってきたのは、白髪交じりの老人だった。眉間には皺が寄っており、いかにも不機嫌そうだ。

「いらっしゃいませ」

 カウンター内からいつも通り志貴が老人に声を掛ける。

 老人はそんな志貴を認めて首を捻った。

「ん?何だアルバイトか?」

 その言葉にぴしりと志貴の動きが止まった。その様子に気づいた祈理が「ひえっ」と小さく叫んだ。

 きょろきょろと店内を見回した老人が更に言葉を続ける。

「他に店員はいないのか?」

「いません。ここで働いているのは僕一人です」

「何?マスターは?」

「マスターは僕です」

 志貴がはっきりと答える。

「あんたがマスターか……」

 老人は口を噤む代わりに、値踏みするような不躾な視線を志貴に向ける。

 こんな若者がマスターなんて、とその目は語っていた。

 ……ああ、嫌だな。

 自分に向けられた訳でもないのに、祈理はそっと顔を逸らした。

 先程の『アルバイト』という言葉から、きっと老人は童顔な志貴のことを学生ぐらいの年齢だと思っているのだろう。

 童顔の人に対して周りの人たちの反応といえば、「老け顔よりマシでしょ」とか「若く見られていいじゃん」とかである。

 そうじゃない。若く見えることはいいことかもしれないがそうじゃないのだ。

 童顔は童顔で苦労している。今がその一例だ。

 見た目で判断されて、侮られたり、訝しがられたりする。

 それは酷く理不尽で腹が立つことだけれど、どうしようもないことだ。特に接客業をしている時は客に言い返すなんてことはできない。

 浴びせられる言葉を、視線を、ただただ耐えることしかできないのだ。

 恐る恐る祈理は志貴を見遣る。

 これまたいつも通りの調子で「お好きな席にどうぞ」と促す志貴は憤慨している様には見受けられない。

 流石です志貴さん!

 祈理は心の中で盛大な拍手を送った。自分だったら、もっとぎこちない対応しかできないだろう。

 けれど、それはあくまで外面のことだ。志貴が内心どう思っているかなんて祈理にはわからない。

 ……舌打ちはしてそうだな。

 祈理はそう予想した。

 未だ不機嫌そうな老人は荒々しくどかりとカウンター席に座った。

 その振動が伝わってきて、同じくカウンター席に座っていた祈理が肩を揺らす。

 いやいや、こんな近くに座らないでくださいよ!他にも空いている席があるでしょう!

 なんて、そんな彼女の心中など老人が知る由もなく。

 お願いだから荒事だけは勘弁して……。

 そう願いつつ、祈理は鞄からスマホを取り出した。そして、その小さな画面に文字を打ち込み始めた。どうやら、小説を書くという現実逃避に徹することにしたらしい。

 そんな祈理をちらりと一瞥した後、志貴は老人に訊ねた。

「ご注文は?」

「……コーヒーを」

「かしこまりました」

 注文を受けた志貴は早速コーヒーを淹れる準備をする。

 志貴が取り出したのは、サイフォン――水蒸気の圧力を利用してコーヒーを沸かす器具だった。

 上の筒状の部分をロート、下の球状の部分をフラスコといい、それらはガラスでできていた。

 志貴はフラスコに湯を入れて、フラスコが割れないようにするために、外側に付いている水滴を丁寧に拭き取った。

 次にそれをアルコールランプにかけて湯を沸かしていく。透明なフラスコと湯が火に照らされて、幻想的に淡く光り輝いた。

 フィルターをセットしたロートに中挽きのコーヒー粉を入れ、ロートをフラスコへ斜めに差し込む。

 次第にフラスコ内の湯がぶくぶくぶくぶと泡立ち、湯が沸騰したことを告げた。

 志貴は傾いたままだったロートをしっかりとフラスコにセットした。すると、沸騰した湯がゆっくりとロートに昇っていき、透明な湯が褐色のコーヒー粉と混ざって少し濁った。

 ヘラを取り出して、志貴が慣れた様子で浮いているコーヒー粉を軽くほぐす。そして、数回円を描くようにくるくると素早く攪拌して、湯とコーヒー粉をなじませていく。

 その後、火を弱め、暫く置いて抽出されるのを待った。その時間は僅か数十秒。けれど、ここで置きすぎると雑味が出てしまうため、それはとても重要な時間なのだ。

 ロートを横から見ると、その断面は上から泡、粉、液体の三層にわかれていた。

 それらは各々違う褐色をしており、下に行けば行くほど濃くなっている。

「まるでコーヒーの海ですね」

 そんなことを前に言ったのは、祈理だった。

 ちらりと志貴が窺えば、老人だけでなく、いつの間にか祈理もスマホから顔を上げてこちらを見ていた。

 じーっとサイフォンを見つめるその瞳は、心なしかきらきらと輝いている。

 ほんと、好きだよなぁ……。

 志貴はふっと苦笑した。まあ、自分も同じなのだけれど。フラスコの湯がロートに昇っていく様はさながら理科の実験みたいで面白いのだ。

 周囲の様子を観察しつつも、志貴はそのタイミングを逃さない。抽出時間が過ぎた後、火を消してもう一度攪拌する。

 ロートの中のコーヒー液がフラスコ内に落下していくその様を、六つの目が見つめていた。

 暫くするとコーヒー液が完全に落ちきった。

 ロートを外し、フラスコ内に溜まったコーヒー液をカップに注げば、均一の褐色から真っ白な湯気が立ち込めた。

「お待たせいたしました」

「あ、ありがとう」

 志貴がそれを差し出せば、はっとしたように老人が瞬きした。

 淹れたてのコーヒーの香りを嗅いでゆっくりとそれを口に含む。

「……美味い」

 一言そう呟いた老人の顔が綻んだ。

「えぐ味がなくて飲みやすい。美味い。本当に美味い。まさか、君みたいな若者がこれほどのものを淹れるとは」

「ありがとうございます。でも、若いといっても僕もうアラサーなんで」

 次の瞬間老人は噎せた。それはもう盛大に、だ。

 ごほっごほっ。咳をし続ける老人に、「大丈夫ですか」と志貴が声を掛ける。

 咳が止まったところで老人は傍にある水の入ったグラスに口をつけた。

 ごくごくと水を飲み、ぷはっと息を吐く。そして、信じられないといった様子で志貴を見つめ、続けて素っ頓狂な声を出した。

「あ、アラサーだと!」

「ええ、まあ」

 志貴は頬を掻きながら困ったように眉を下げる。その姿はやはり学生にしか見えなくて。

 ……生きていて驚いたことはそれはもうたくさんあった。だが、死んでからもこんなに驚かされることがあろうとは!

 老人は心中で驚愕の声を上げた。

 まじまじと志貴を見つめながら、譫言のように「アラサー……アラサーか……」とぶつぶつと老人が呟く。

 そんな老人に祈理はうんうんと首肯した。

 わかる!わかるよおじいさん!アラサーには見えないよね!

 少しだけふふっとふき出してしまったがこれでも我慢した方だ。

 見た目で馬鹿にされるのには嫌悪感を抱くが、実年齢を聞いた相手が驚く姿を見るのはどっきりが成功した時のようにちょっぴり楽しいのだ。

 口元を隠す祈理を志貴がちらりと見たことに彼女は気づかなかった。

 いろんな意味で漸く落ち着いた老人はグラスを置いて、少しばつが悪そうに志貴を見た。

「さっきは不躾に見てすまんかったな……気が立ってたんだ」

「いえいえ。誰にだってそういう時はありますよ」

 頭を振りやんわりと受け答えしつつも、志貴は「気にしてません」とは言っていない。やはり、多少なりとも気にはしていたらしい。

 そんな志貴の心中など露知らず、老人は視線を彷徨わせた後、ぽつりと呟いた。

「今から話すのは老いぼれのただの愚痴だ。つまらん話だが、聴いてくれないか?」

 老人の言葉に、志貴が「どうぞ」と促した。


 わしはな、もっと長生きする予定だった。人生まだまだこれからだと思っていた。

 だが、ある日ぽっくりと逝ってしまってな。人間いつ死ぬかわからないなんて当たり前のことを思ったものだよ。

 通夜や葬式には、たくさんの人が来てくれた。嬉しかったよ。ああ、自分にはこんなにも多くの人と繋がりがあったんだって。中には覚えのない人もいたが、わざわざ足を運んでくれたことが本当にありがたかった。嬉しかった。

 でも、それらが終わったら問題が出てきた。ああ、遺産相続だ。

 さっきも言ったが、わしは自分が死ぬとはこれっぽっちも思っていなかった。だから、遺言書なんて用意していなかったんだ。

 いつか書けばいい、なんて思って先延ばしにしていたのが悪かったんだな……。わしは、死んでから悔いたよ。

 子どもたちは遺産相続で揉めに揉めていてな。

 やれ金はどれだけあってどういう風に分けるのか。やれ何処何処の土地はどうするのか。皆で集まって話し合っていたはずが今や喧嘩になっておる。

 もっと金を寄こせだの、まだ何処かに土地があるはずだの、怒声が飛び交って挙句の果てには弁護士に依頼する始末だ。

 情けない。非常に情けない。……いや、元はといえばちゃんと遺言書を用意していなかったわしが悪いんだが。

 それでも、思ってしまうんだよ。わしの死を弔ってくれている者は果たしているのか、とな。

 そう思うと情けないし、悲しかった。

 ずっと悲しんでいてくれとは言わん。でも、時々でいいからわしのことを思い出してほしいと思うんだ。そう思ってしまうんだ。

 でも、子どもたちの頭は金のことばかりだ。会えば喧嘩する。それの繰り返し。

 そんなあいつらの姿を見ていると、悲しくて、情けなくて、わしは……。


 話している間にどんどん顔を俯かせていった老人は、ぷるぷると体を震わせていた。

 泣いているのかなと祈理は思った。

 だが、その予想は大きく外れた。

「わしは……わしは、次第に腹が立ってきたんだ」

 かっと目を見開いて老人は告げた。

 どうやら、悲しみではなく怒りで震えていたらしい。

 その目力があまりにも強くて、「ひえっ」と祈理は思わず声を零してしまった。

「わしはな、金のことで揉めている子どもたちに腹が立った。そして、何より自分に腹が立っている。わしが遺言書を用意していたら、子どもたちがあんな風に揉めることもなかったのにと思うとな……」

 言葉尻が段々小さくなっていく。そうかと思えば、何を思ったのか老人が突然がばりと立ち上がった。

 ……このおじいさん忙しい人だな。

 志貴と祈理の心の声が重なった。

 そんな二人の気持ちなど露知らず、両の拳にぐっと力を入れて、感情のままに老人は言う。

「ああ、思い出すと腹が立つ!確かに情けないのはわしも同じだ。だが、やっぱり子どもたちに言ってやりたい!金のことでいつまで揉めているんだって一喝してやりたい!いや、言ってやった。何度も何度も言ってやったさ!……でも、声は届かなかった。当たり前だよな。わしはもう死んでいるのだから」

 掌を開いて、力なく老人が椅子に座る。ぎらぎらしていた瞳から光が消えていった。

 黙り込んでしまった老人に、どうするんですかと祈理が視線で志貴に問う。

 ――取り敢えず、今はそっとしておく。

 ――了解しました。

 こくりと二人で頷き合ったその時、来客を告げる鈴の音がした。

「あっ、こんなところにいた!」

 声に合わせて明るい茶髪が揺れた。ずんずんと店の中に入ってきたのは、伝達者の青年だった。

「いらっしゃいませ」

「マスターこんにちは。でも、今日は客として来たんじゃないんです」

「そうなんですか。いやはや、てっきり仕事の合間にまた休憩しに来てくれたのかなぁ、と」

「今日は違うっすよ!」

 今日は、ね。

 店内の常連客誰もがそう思った。それほどまでに彼はサボりの常習犯なのである。

 青年がカウンター席の老人の元へとずんずんと近づいていく。

「探しましたよ。ほら、そろそろ戻りましょう」

「ちょっと待ってくれ。まだコーヒーが残っとる」

「なら、それ飲んだら行きますよ」

「うむ」

 再びごくごくとコーヒーを飲み始めた老人に青年が呆れた表情を浮かべた。

 何だ何だと首を傾げる志貴に青年が説明する。

「遺言書作っている途中なんです。ちょっと目を離した隙におじいさんが抜け出して……ずっと探していたんですよ」

「思い出したら腹が立って仕方がなかったからな。頭を冷やすためにコーヒーブレイクしようと思って……」

「それならそうと声を掛けるかせめて書き置きぐらいしてから行ってくださいよ!」

「そう怒るな。血圧が上がるぞ」

 怒る青年を老人が窘める。

 いやいや、さっきまで怒っていたのはあんただろ。

 店内の誰もが老人に突っ込んだ。

「さてと。さっさと遺言書を届けてもらって、つまらん遺産相続問題など終わらせてしまうか」

「その前にまず遺言書を書ききってくださいよ……」

 意気込む老人に青年が項垂れる。気苦労が絶えなさそうな青年に店内の人々は皆合掌した。


 コーヒーを飲み終えた老人はあれよあれよと言う間に青年に連れて行かれた。

「……何か、嵐が過ぎ去った後のようですね」

「そうですね」

 静まり返った店内に木霊した祈理の言葉に、志貴が相槌を打つ。

 暫く入り口を見ていた祈理が口を開いた。

「まあ、遺言書があれば遺産相続問題も落ち着きますね」

「だけど、それで兄弟の仲が元通り、という訳にはいかないでしょう」

 一度拗れれば修復は難しいだろう。家族でも、兄弟でも。いや、だからこそ、と言った方が正しいのかもしれない。

「死んだ後も誰かが想っていてくれたなら……それは、とても幸せなことなんでしょうね」

 祈理が静かに呟いた。それに対して、志貴は何も言わなかった。

「ところで、祈理さん」

「はい?」

 小首を傾げた祈理に、志貴がにこりと笑みを向ける。

「さっき笑ってましたよね?」

「……何のことでしょう」

 あ、これはヤバいやつだ。

 祈理はさっと顔を背けたが、志貴の追撃は続く。

「僕がアラサーだって言っておじいさんが驚いた時、笑いましたよね?」

「え、そうでしたか?」

 こうなったらしらばっくれてやる。

 そう考えて、祈理も負けじと笑みを浮かべる。じわじわと汗が手に滲み、持っていたスマホと落としそうになった。

 ますます笑みを深くした志貴が祈理へと顔を寄せる。

「家に帰ったら覚えておけよ」

 マスターの仮面がべりっべりに剥がれた声音で告げられた死刑宣告に、「ひえっ」と祈理は震えた。

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