第十二話
黄昏時。誰彼時。暮れ六つ。酉の刻。
学生時代に知ったのか、はたまた小説を書くネタとして調べたのかはもう覚えてないが、それはいつぞや覚えた確かな知識だ。
今の時刻の呼び名はいろいろあるけれど、今の状況も踏まえると逢魔時もしくは大禍時と呼ぶのが相応しいだろう。
魔物と遭遇する時刻。
大きな禍が起こる時刻。
昔からそう呼ばれている時刻。
いつもと変わらないようで、いつもとは全く違うそれ。
十字路の影になっているその場所にそれはいた。
それを認知した瞬間、祈理の背筋に悪寒が走った。
――ああ、あれは駄目なやつだ。
直感的にそう思った。
それに気づかれる前に、それと目が合う前に、祈理は咄嗟に近くの細道に逸れた。
間違っても、あれに「誰ぞ、彼は」なんて声を掛けてはならない。
だって、あれは人ではない。霊だ。それも、所謂悪霊と言われるモノで。かろうじて人の形をしているがそれも時間の問題な気がした。
普通に歩いていたのが早歩きになって、気づいた時には走っていた。
肩掛け鞄が揺れて体に当たるだとか、運動不足で息が切れるだとか、そんなことは気にしていられなかった。
ただただ走る。もつれそうになる足を叱咤して、安心できる場所を目指して、我が家を目指して、祈理は走り続ける。
「この靴でっ、良かった!」
ヒールなんてものはないぺったんこのデッキシューズを履いてきて良かった。高いヒールの靴なんて履かないしそもそも持っていないけれど、少しでもヒールがあったらこうはいかなかっただろう。自分の運動神経のなさと運動不足故の体力のなさなどわかりきっている。
頭の片隅でそんなことを考える冷静な自分もいたが、兎に角今はその靴を履いた足をただただ動かした。
さっと後ろを振り向いてみたが、追いかけてくるのは己の影のみ。
それでも祈理は怖さを振り切るように走って走って走り続けた。
我が家へと辿り着き、急いで玄関の扉を開けて、転がり込むように家の中へと入る。内側から鍵を閉めて、その場にへなへなと座り込んだ。
肩で息をする。どくどくどくと心臓が鳴っている。安心感と疲れがどっと押し寄せて苦しい。足も、肺も、心臓も、何処も彼処も辛い。
祈理は鞄の中を探ってスマホを掴んだ。その手は震えていて、スマホを取り落としそうになったが何とか堪える。
落としてなるものかと、スマホを掴む手にぐっと力を入れ、小刻みに震える指で操作をする。
耳にそれを当てれば、プルルルルという無機質な音が聞こえてきた。
早く出て。早く早く早く!
何コールかして電話が繋がった時には、祈理は半泣き状態だった。
「もしもし?」
「志貴さぁん……」
待ちわびた声が聞こえて安心したからだろうか。口から出たのはそれはそれは酷く情けない声だった。
うわぁ、これは酷い。
祈理はそう思ったが、出てしまったものはもうどうすることもできない。
「どうした?」
祈理の様子が可笑しいと察した志貴の声はいつもより低かった。心なしか空気がピリピリしている。
震える唇から絞り出すように声を出して、祈理は志貴に説明した。
「……そうか。それで、怪我はしてないか?」
「足が痛いのと、呼吸するのが辛いです」
「それはただ単に祈理が運動不足なだけだ」
「知ってます」
知ってはいるけれど、人に言われるのは癪だ。
祈理は口を尖らせながらも答えた。
「特に怪我はしていませんよ」
「……そうか」
よかった。
ぼそりと呟かれたそれには安堵の色が滲んでいた。
心配してくれたんだな、と思うと不謹慎だが嬉しくて、ついつい祈理は口元を緩ませてしまった。
「それで、何処で見たんだ?」
「え?えっと……」
ほっこりとしていたのも束の間のことで、次の瞬間には空気が変わった。真剣な声で問われ、慌てて詳しい場所を説明すれば、「わかった」と言葉が返ってきた。
「後は任せろ。祈理は絶対に家から出るなよ」
「出ませんよ。というか出られません。無理です」
「まあ、そうだろうな」
ふっと鼻で笑われてしまった。自分で訊いたくせに笑うのは如何なものか。
祈理は「笑わないでください!」と大声を上げて、子どもみたいに頬を膨らませる。
そんな彼女の様子が見えている訳でもないのに、更に志貴がくつくつと笑った。
全く、と呆れつつ祈理もつられて笑ってしまった。
「さてと。それじゃあ、何とかしてくるとするかな」
「気をつけて。いってらっしゃい」
瞼を閉じて静かに告げる。「いってきます」という返事の後、電話は切れた。
目の前に彼はいない。それなのに、送り出すなんて少しだけ不思議な感覚だった。
これから、あれをどうするのだろう。あのまま放置しておくのはきっと危ない。何がどうしてあそこまで堕ちてしまったのか、その理由はわからない。知りたいともあまり思わない。
祈理は膝を抱えて顔を埋める。そして、小さな体を更に小さく縮こませた。
真っ暗な視界の中で彼女は願った。
志貴さんが無事に帰ってきますように、と――。
*
ガチャリと鍵を開ける音がした。次いで扉が開いていき、聞こえてきたのは「ただいま」という聞き慣れた声だった。
祈理は顔を上げてゆっくりと振り返る。すると、目を見開いて驚いた様子の志貴がそこにいた。
「おかえりなさい」
「ただいま。というか、こんな所で何してるんだ?」
「いえ、別に……」
扉を閉めて祈理に視線を合わせるように屈んだ志貴に、「忠犬ハチ公よろしく貴方を待っていました」なんてそんなことは言えなかった。
因みに、志貴が言う『こんな所』とは、玄関である。祈理はあれから一歩も動いていなかったのだ。
いつもなら、玄関で待っているなんてことはしない。志貴が喫茶店にいようと、もう一つの仕事をしていようと、祈理は祈理自身の生活を送っていた。
でも、実際にあれを見てしまったからか、志貴のことが心配で心配で仕方がなかったのだ。
あれに直接触れられたわけではない。害をなされたわけでもない。見たのはほんの少しのことで、目を合わせたわけでもない。十分距離もあった。
それでも、怖くて。ただただ怖くて仕方がなかった。
眠っている間に生霊になってしまうからといって、時々霊を見ているからといって、怖いものが平気という訳ではない。
ホラーもスプラッタも苦手だ。それは幼い頃から変わらない。これでも、少し……ほんの少しだけ慣れたのだ。走って逃げられるぐらいには。
でも、無理だ。やっぱり怖いものは怖い。幾つになっても苦手なものは苦手だ。克服なんて早々できるものではない。
そんな怖いモノたちをこの人はずっと見てきたのだ。その灰青色の瞳で、ずっとずっと見てきたのだ。
霊を。悪霊を。人間の堕ちた姿を。
見て、見せて、祓ってきたのだ。
一体それがどんな世界なのか、祈理にはよくわからない。考えたところで、所詮それは想像の世界に過ぎないのだ。
様々なモノを見てきたであろう灰青色の瞳を見つめて、今度は祈理が問う。
「怪我はしていませんか?」
「してないよ」
「本当に?」
「本当さ。確かめてみるか?」
そう言って腕を広げた志貴に、祈理は思い切り飛びついた。
背中に腕を回してぎゅっと力を込める。いつだったか、こうした時に彼が怪我の痛みで呻き声を上げたことがあったのだが、今回はそんなことはなかった。
ほっと胸を撫で下ろし、彼の肩に顔を埋める。
志貴は慰めるように祈理の背中を撫でた。その手付きが優しくて、祈理は泣きそうになった。
そんな彼女に気づいて、志貴はその耳元に唇を寄せて囁いた。
「何なら、風呂で確かめてくれてもいいけど?」
「志貴さんおっさんくさいですよ!」
「それなら、ベッドで」
「だから、おっさんくさいです!」
無茶苦茶からかってくるなこの人!
祈理はむっと顔を顰めて、べしり、と広い背中を思い切り叩いた。恥ずかしさと怒りから顔を真っ赤にさせて、更に言えば耳まで真っ赤にさせて、何度も何度も叩いた。それでも、叩かれている本人は特に気にした様子もなく、何処か楽しそうに笑うだけだった。
もう、と悪態を吐いた時、祈理はあることに気がついた。
あ、と声を漏らした祈理に志貴が首を傾げる。
「どうかしたか?」
「実は、ですね……とっても深刻なことがありまして……」
「深刻なこと?」
視線を彷徨わせた後、意を決して祈理は申告した。
「実は、夕飯ができていません」
そう。この場からずっと動いていないので、夕飯の準備を全くと言って良いほどしていなかった。
顔面蒼白の祈理に対して、志貴はがくっと脱力した。
「何だ、そんなことか」
「そんなことではありません!ご飯はちゃんと食べないと!」
「どの口が言う……普段食事を疎かにしているくせに」
「わたしは良いんです」
「いや、良くないだろ」
至極もっともなことを志貴が突っ込む。だが、祈理は「こんなことをしている場合じゃない!」と彼からその身を離した。
「すぐに作りますので志貴さんはゆっくりしていてくださいね」
「あ、おい!」
それでは、と手を挙げて急いで廊下を駆けていった後ろ姿に、志貴は思わず手を伸ばした。だが、それはむなしくも空を切った。
先程まであったぬくもりが消えて、少しばかり寂しいと志貴は感じた。
そんな自分に呆れながら、志貴は履いたままだった靴をゆっくりと脱ぐ。
「俺も手伝うよ」
今はもう姿が見えない彼女にそう声を掛けて、彼は廊下を歩き出した。




