第十一話
しがない小説家の祈理は専業作家ではなく兼業作家である。彼女は週に数日、副業としてとある小売店で働いているのだ。
専業作家でやっていける人間なんてほんの一握りしかいなくて。自分は小説家だけで食べていける人間ではないことを祈理自身よくわかっていた。
正直、書いた小説が売れるとは限らない小説家よりも副業の方が確実に稼げる。
けれど、書くことをやめるつもりはない。先のことはわからなくても、少なくとも今は。
書きたいから書く。ただそれだけ。
勿論、それだけで書いたものが書籍化され、更には売れるわけではないこともよくわかっている。
でも、根本的なその思いがなければ物語を書くことなどできないと祈理は思うのだ。
何せ、物語を書き終えるには根気がいる。物語を完結させるという意志がなければ、物語は完結しないし、そもそも物語を紡ごうという気がなければ、物語が生まれるはずもないのだ。
閑話休題。
小売店で働く祈理には先輩がいた。
祈理よりも一つ年上の、同じ兼業仲間であった。といっても、先輩は小説家ではないのだけども。
気さくな人柄の先輩は一年前に寿退社をして、小売店をやめていた。
そんな先輩と、今日も今日とて喫茶店に行こうとしていた祈理はばったり出くわしたのだった。
「いーちゃん久しぶり!」
声を掛けてきた先輩にびっくりしつつ、そういえば最近連絡も取っていなかったなぁと祈理は思ったのだった。
結婚してこの町よりも更に都会の街に引っ越して行った先輩だったが、夫が暫く出張中らしく実家に戻っていたらしい。
立ち話もなんだから、ということで二人は喫茶店へと赴いたのだが――
「はぁー、イケメンだわー」
先輩は頬に手を当ててうっとりとしていた。その視線の先には、カウンター内で作業をしているこの喫茶店のマスターこと志貴がいて。
そういえば先輩ってイケメン好きだったなぁ……。まあ、志貴さんがイケメンなのに異論はないけど。
祈理は先輩に呆れつつも、そのことに関しては同意した。
「いいわー、目の保養だわー」
「……先輩、旦那さんは?」
「旦那のことは勿論愛しているわ。でも、それとこれとは話は別。目の保養って大事よね」
「……さいですか」
キリッとした表情でそう言ってのけた先輩に、祈理は脱力した。そして、このことについてはもう何も言うまいと決心した。
「年下のイケメンアルバイターがいる喫茶店ってそれだけで美味しいわよね」
「先輩、あの人はバイトじゃなくてマスターですよ」
「え、そうなの?」
「因みに、学生じゃなくてアラサー。わたしたちよりも年上です」
「……マジ?はぁー、いーちゃんも童顔だけど、あの人も童顔ねぇー」
羨ましいと素直に言われて、祈理は複雑な気持ちになった。
童顔は童顔で、いろいろと苦労しているんですよ先輩。
祈理が少しだけ不機嫌になったのに気づいて、「ごめんごめん」と先輩が謝る。
「奢るから許して」
「許します」
思わず即答してしまい、チョロいな自分と祈理は思った。
「それでそれで、いーちゃんの彼氏ってどんな人なの?」
イケメンに目を奪われて一瞬忘れちゃってたわー、と先輩が朗らかに笑う。
そのまま忘れていてくれればよかったのに、と祈理は思わず舌打ちしそうになったが何とか堪えた。
ここに来る道中で、先輩が愚痴ったのだ。「旦那のことは愛しているけど、いろいろと勝手が違って困っているのよねー」と。それに「わかりますわかります」と頷いたのがいけなかった。
「ん?ちょっと待っていーちゃん。わかりますってどういうこと?」
「え、えーっと……」
「その狼狽えよう……怪しいわねぇ……」
じとーっと見つめられ、祈理は視線を逸らしたが逃げられなかった。いろんな意味で、だ。
向けられるのは先輩の疑いの眼差し。目の前には目指していた喫茶店。
今この話題でこの店に入るのはマズい!
と、祈理はそう思ったが時既に遅し。
「あ、ここがいーちゃんお勧めの喫茶店ね!」
祈理が止める間もなく、先輩は緑の扉を開けて店の中に入って行く。伸ばされた祈理の小さな手は無残にも空を切ったのだった。
店内に入った先輩が容姿端麗な志貴に感嘆の声を漏らした。それを慣れた様子で受け流しつつ、志貴は二人を席へ促して注文を取った。
いつも通り「かしこまりました」という言葉を残して、彼が離れて行く。そして、その後ろ姿を見送った先輩が「はぁー、イケメンだわー」と呟いて今に至る。
二人の会話は、祈理の彼氏についての話題に戻ってきた。
別に勿体振っている訳でもないのだが、ここでその話は是非ともやめてもらいたい。
何せ、その彼氏様が店内にいるからだ。
少し距離が離れているとはいえ、本人がいる空間でその人の話をするなんて一体どんな罰ゲームだ。
祈理はそう思ったが、この先輩に口で勝てる気がしなかった。
「どんな人、と言われても……」
「イケメン?」
「イケメンですね」
再び即答してしまい、祈理ははっとした。そんな彼女を見て、先輩がくすくすと笑った。恥ずかしさで祈理の顔が少しだけ赤くなった。
けれども、先輩は追撃の手を緩めない。
「そうかそうかー、イケメンなのかー。写真とかないの?」
「写真……」
あるにはあるがここで出したら、「何よ、マスターじゃない!」となってしまうだろう。
別に自分たちが付き合っていることをひた隠しにしている訳ではない。知っている人は知っているし、知らない人は知らないだけ。
でも、この店で志貴は祈理を一人の客として対応する。尤も、他に客がいない時はそれ相応に接してくるのだけれど。
彼が自分のことを客として対応するなら、自分も客として彼と接するだけだ。
元々そういう関係だったから特にこれといって苦ではなかった。
マスターの志貴の一人称は『俺』じゃなくて『僕』で、大人に対しても子どもに対しても丁寧な言葉遣いで話す。
それが何となく面白い。けれど、少しばかり寂しく感じることもある。それはきっと、彼と自分の関係が変わったからだろう。
兎に角、志貴さんに迷惑は掛けたくないなぁ……。
その考えに至って、今写真は持っていませんよと祈理はふるふると首を振った。
「それなら、彼氏さんとマスター、どっちがイケメン?」
……これまた答えづらいことを!
祈理は心の中で思い切り叫んだが、やはり目の前の先輩の勢いは止められそうにない。わくわくといった様子で、その目はきらきらと輝いて見える。今も昔も先輩は相変わらず強かった。
「うーん、どっちがイケメンって言っても、好みは人それぞれですし……」
「いーちゃんの主観でいいのよ」
そうは言われても同一人物である。見た目は一緒だ。
好み、か……。
祈理は視線を彷徨わせた後、顔を俯かせてぼそりと答えた。
「……彼氏さんの方が好きですね」
誰にでも丁寧に接するマスターよりも、素で接してくれる志貴さんの方が好きだなぁ……。
そう思って答えたのだが、次の瞬間、先輩は「きゃー!」と叫び声を上げた。
祈理が「先輩、声が大きいですよ」と窘める。先程と同じように「ごめんごめん」と先輩は謝った。
「はぁー、ご馳走様ー。もうこれだけでお腹いっぱいだわー」
「おや、お腹いっぱいなんですか?」
聞こえてきた第三者の声に、祈理はびくりと肩を震わせた。
あ、ちょっと待って!待ってください!
祈理の願いむなしく、先輩が「あ、マスター」とその人物を呼ぶ。
「いやねー、お腹いっぱいっていうのは、この子の彼氏の話を聞いたからなんですよー。あてられちゃったと言いますか惚気られちゃったといいますか」
「ちょ、ちょっと先輩!」
やめろ!お願いだからやめてくれ!
身を乗り出して物理的に先輩を止めようとしたが、祈理の動きを制止するかの如く、目の前にカップとポットが置かれてそれはできなかった。
向かい側にカフェモカを置いて、にこりと志貴が微笑む。
「それはそれは僕も聞いてみたかったですね」
「あれ、マスターも興味あります?」
「ええ。野暮ではありますが、常連さんの彼氏がどんな人なのか気になりますね」
志貴は爽やかにそう言ってのけた。
し、白々しい!
祈理はキッと志貴を睨んだが、睨まれた本人は何処吹く風であった。
さっさと何処かに行ってください!
そんな祈理の願いは今度は叶った。タイミング良く「すみませーん」と他の客に呼ばれて、「少々お待ちください」と志貴が返答したのだ。
「それでは、ゆっくりしていってくださいね」
決まり文句を述べて、志貴は颯爽とその客の元へと向かった。
ほっと胸を撫で下ろした祈理の傍で、「やっぱりイケメンだわー」と先輩が零す。そして、徐にトッピングの生クリームをスプーンで崩して、カフェモカを一口啜った。「あ、美味しい」と呟いてから、彼女は祈理を見遣った。
「それじゃあ、いーちゃんの彼氏についてもう少し詳しく話してもらいましょうか」
にやりと先輩が怪しげに口元を歪ませる。
追撃の手はまだまだやみそうにない。
*
何とか彼氏の話を終え、仕事の話や最近見たテレビの話、今話題のお店の話などで盛り上がっていたその時だった。
今日何度目かの鈴の音が店内に響いた。
扉を開けて入ってきたのは、一人の男だった。ひょろっとした体型で、少し気の弱そうな、けれども優しそうな顔をした人だった。
何気なく、本当に何気なく先輩はその人をちらりと見た。
彼を認めたその瞬間、先輩はぴたりと動きを止めた。
「え、は、え?」
体は動かず、目は瞬きを繰り返す。訳がわからないという先輩の感情がその顔にありありと浮かんでいた。
「な、な、何で!」
びしり、と指差して先輩は声を張り上げて叫んだ。
反射的に男の肩がびくりと震えた。その顔にはマズいとはっきりと浮かんでいて――
「す、すみません!」
がばりと頭を下げて男は入って来たばかりなのに、店を出て行ってしまった。
暫く固まっていた先輩だったが、激しく揺れる鈴の音を聞いてはっとしたように席を立った。
「あ、ちょっと待って!」
男の後を追うように、先輩はばたばたと慌てて店を出て行った。
店内にいる誰もが何が起きているかさっぱりで――
あ、無銭飲食……。
なんて、祈理は思ったが、先輩の鞄は席に置かれたままだった。つまり、財布やスマホなどの貴重品は席に置きっ放しで。否が応でもこの店に戻ってくることになるだろう。
その予想は的中して、ものの数分で先輩は戻ってきた。
「マスター、皆さん、お騒がせしてすみません」
先輩が志貴や他の客にお詫びを言えば、「いえいえ」と志貴が答え、客たちは彼女を一瞥した後、何事もなかったかのように各々自分の時間へと戻っていった。
再び席に座った先輩の額には少しばかり汗が滲んでいた。
「どうかしたんですか?」
ここぞとばかりに祈理が訊けば、先輩は少し困ったように笑った。
「さっき男性が店内に入ってきたでしょう?」
「はい」
「その人、私の同級生に似ていたのよ」
「そうだったんですか」
相槌を打ったが、祈理はふと思った。
でも、どうしてあんなに驚いていたのだろう。
その疑問は、直ぐに解けた。
「実はその同級生……数年前に亡くなっているの」
声を潜めて先輩は言った。その言葉に、祈理はぞっとした。
数年前に亡くなっている。それはつまり、あの男の正体は――。
そう考えて、あ、と声が零れた。
先輩の話から「え、何それホラーですか? わたし、ホラー苦手なんですけど!」と叫びたくなったが、よく考えてみろ自分。
ここは何の店だ?……そうだ、喫茶店だ。それも、ただの喫茶店ではない。霊も訪れる喫茶店だ。
つまり、亡くなった先輩の同級生が霊としてこの店を訪れても何も可笑しくはない。
だが、それは事情を知っているからこそ言えることで。
普通亡くなったはずの同級生とばったり鉢合わせたら誰でも驚くよね……。
そんな当たり前のことを失念していた。
……ああ、非日常的なことが日常になってしまっているんだなぁ。
そう、まざまざと実感させられた気がした。
それでね、と先輩が続けたので、祈理は意識を戻して彼女の話に耳を傾ける。
「その同級生、私の初恋の人だったのよ」
優しく微笑みながら、先輩は静かに告げる。
「でも、それは何年も前の話で……。正直、彼の顔や声がどういう風だったか段々と記憶が薄れてきていてね。さっきの人の顔をもう一度見たくて思わず後を追いかけちゃったの」
でも、もうこの辺りにはいなかったわ。
先輩は一つ息を吐いた。
少しだけ落胆しているように見えるのは、祈理の思い過ごしだろうか。
「ほんと馬鹿よね……。その同級生は確かに亡くなっているのに。まあ、どう考えても他人の空似よね。そりゃあ、見ず知らずの人にいきなり指差されたら驚くわー」
自嘲する先輩の言葉に祈理は黙り込んだ。
もしかしたら、先程の男は先輩の言う通り他人の空似かもしれない。
でも、祈理は知っている。この店は、霊が訪れる店であることを。
知っている人は知っている。知らない人は知らないそれを、先輩に伝えたらどんな反応をするのだろうか。
俄かには信じられない、そんな話を――。
「例えばこの店は霊が訪れる店で、さっきの人がその亡くなった同級生さんだったらどうしますか?」
祈理は少し震える声で訊いた。
先輩は目を丸くさせて、うーん、と悩んだ。
「さっきは追いかけちゃったけど、どうもしないわね」
あっけからんとした声で先輩は答えた。
「初恋の人に会いたくないかと訊かれたら、会いたいと思う気持ちは確かにある。好きですって告白すらできなかったしね、心残りはあるかな」
でも、と先輩は続けた。
「どうしても会いたいという訳ではないわ。私が今会いたいと思うのは旦那ね」
左手を翳して先輩が綺麗な笑顔を浮かべる。その薬指に嵌められた銀色の指輪が誇らしげに輝いていた。
「先輩からのアドバイスよ。いーちゃんも、彼氏に言いたいことがあるならはっきりと言いなさい。後悔先に立たずってね。言いたい時に、伝えられる時に、ちゃんと声に出して言いなさい」
生クリームが溶けきったカフェモカを飲む先輩に、祈理はこくりと頷いた。
それから二人は他愛もない会話をして、店を後にした。
*
「もういいですよ」
志貴がゆっくりと扉を開けて声を掛ければ、店の外で蹲っていた男が顔を上げた。
思わぬ所で思わぬ人物とばったり出くわしてしまったその男は、慌てて店を飛び出したが逃げてはいなかった。店の外、扉のすぐ側に蹲ってやり過ごそうとしたのだ。
外に出て来てきょろきょろと辺りを見回した彼女の姿が男にははっきりと見えていた。
最後に見た彼女よりも少しだけ大人っぽくなったなぁ……。
男はそう思った。
だが、彼女には男の姿が見えなかった。確かにこちらを見たはずなのに。
……ああ、そうか。今の僕は霊だった。
店から出てしまえば、霊である自分の存在など彼女には認知されない。
そんな当たり前のことに、男は少しだけ胸が痛んだ。
彼女が戻って来る前にさっさと何処かに行けばいいのに動く気がしなくて。
再び戻ってきた彼女を認めつつ、彼女がこの店を去るまで男はその場に蹲っていた。
志貴が「どうぞ」と促せば、男は再び店の中へと入ってきた。
「あー、びっくりした……」
カウンター席に座って、男がゆっくりと深く息を吐き出す。その姿には疲れが滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫大丈夫……。ちょっと驚いただけだから」
「先程の女性と知り合いなんですか?」
白々しく志貴が訊けば、男はああ、と頷いた。
「あの人は僕の同級生で、僕の……初恋の人なんだ」
まさか、ここで会うとは思わなかった。
少し照れたように、そして、困ったように男が頭を掻いた。
「そうだったんですか……こんなことを訊くのは野暮だとは思いますが、彼女に想いを伝える気はありますか?」
「ないよ」
志貴の問いに、男は即座に答えた。
「彼女は結婚しているようだったし、そもそも僕はもう死んでしまっているからね。好きだと伝えられずに死んでしまったのは少しだけ後悔しているけれど……僕が彷徨っているのは、それが理由じゃないからね。このままこの想いは閉まっておくことにするよ」
ちらりと見えた彼女の左手薬指の指輪を見ても、特に胸の痛みは感じなかった。
やるせない気持ちは確かにある。けれど、彼女が幸せそうに笑っているのを見て、ああ、よかったと自然と胸を撫で下ろしたのだから、きっとそれが自分の本当の気持ちなのだろう。
かつての同級生。そして、好きだった人。けれど、自分が今会いたいのは彼女ではない。
男が小さく笑みを浮かべる。そんな彼を見て、志貴はゆっくりと口を開いた。
「そう言えば、まだ注文を訊いていませんでしたね。何にします?」
「うーん……それじゃあ、アメリカンで」
「かしこまりました」
暫し逡巡して、ゆったりとした口調で男が告げた。
志貴がそれ以上何かを訊くことはなく、男の他愛もない話に相槌を打つだけだった。




