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第一話

 色褪せたレンガ調の壁。深紅の店舗テント。緑色の扉には、『営業中』の札が掛かっている。

 大都会よりも田舎、ど田舎よりも都会。そんな町の片隅にひっそりと佇むそれは、小さな喫茶店だった。

 だが、可愛らしい外見の何処を見ても店名を記した看板はない。それ故に傍から見たら何の店なのかわからない。

 そんな少し変わった喫茶店の中。お気に入りの場所であるカウンター席の隅っこに座って彼女は待っていた。

 何を待っていたかと言えば――

「お待たせいたしました」

 聞こえてきたのは落ち着いた男性の声だった。その声に導かれるように彼女は読んでいた小説から顔を上げてその人物を見た。

 癖のない黒髪。色素の薄い灰青色の瞳。やや童顔ながらも端正なその顔立ちは、間違いなくイケメンの部類に入るであろう。

 その男――この喫茶店のマスターこと志貴は、彼女の目の前にティーポットとティーカップ、そして砂糖入れを置いた。

 優しく微笑みを携えた志貴の姿が眩しくて彼女は目を細めた。そして、極々自然な動作で彼を拝むように合掌した。

「ありがとうございます。そして、ご馳走様です。ありがたやーありがたやー」

「……まだ紅茶も飲んでいないのに何を」

「ふふふ。怪訝そうなその顔もかっこいいですね」

「……全く」

 向けられたのは酷く呆れた顔だった。でも、それも一瞬のことで。

 まるで先程までの呆れ顔が幻覚だったんじゃないかと思うくらいに、志貴は接客業のお手本のような完璧な笑みを浮かべる。

「ゆっくりしていってくださいね」

 そう一言告げて、彼は作業に戻って行った。

 ……うん、やっぱりイケメンだ。

 志貴の姿を眺めつつ、彼女は独りごちる。

 だが、そう思っているのは彼女だけではない。

 彼女がちらりと横目で近くの席を見遣る。自分と同じくカウンター席に座っている若い女性の様子を窺えば、頬を赤らめて心ここにあらずといった様子で惚けていた。その熱い眼差しの先にいるのは言わずもがな志貴で。

 尤も、この若い女性は心ここにあらずではなく肉体ここにあらずと言った方が正しいのかもしれないがそれはさておき。

 わかりますわかります!志貴さんイケメンですよね!

 と、その女性に彼女は激しく同意した。だが、知らない女性に声を掛ける勇気など彼女には更々なかったので、その言葉は心の中に留めておくだけにした。

「……さてさてさーて」

 彼女は持っていた小説を置いて、代わりに使い込まれた銀色のティーポットを手に取った。

 溢れないように気をつけながらカップに紅茶を注いでいく。

 真っ白なカップに溜まるのは一番綺麗な瞬間の夕焼けの色だ。その中に、ソーサーの上に添えられた輪切りのレモンを浸す。

 まるで夕日みたいだなぁ……。

 そんなことを考えながらその果肉をスプーンで少し潰してから取り出し、ザラメの混じった白砂糖を入れてかき混ぜる。ぐるぐると回る渦。残ったザラメの欠片がゆっくりと底に沈んだ。

 カップを口元に持っていき、火傷しないように少しずつ紅茶を口に含む。ほのかなレモンの香りが口内を満たし、甘さと少しの酸味とほろ苦さを残して喉を通って落ちていく。その部分があたたかい。

 彼女はほっと息を吐いて、志貴をちらりと見遣る。

 カウンター内で作業をする志貴は、慣れた手つきでコーヒーを淹れている。

 マスターだから当たり前のことかもしれないが、凄いなぁと彼女はその姿を見る度に素直に感心するのだ。

 自分なんてコーヒーの美味しい淹れ方どころかコーヒーの種類もさっぱりわからないから。

 エスプレッソ?アメリカン?ブレンド?コーヒーはコーヒーでしょ。

 カフェオレ?カフェラテ?すみませんもう一度違いを教えてください。

 なんて、そんなことを言ったらコーヒー好きな人たちに怒られるかもしれない。

 豆の種類なんて以ての外で彼女はコーヒーの味に特にこだわりはない。更に言えば、彼女はどちらかといえばコーヒーよりも紅茶派である。

 とは言っても、紅茶も特に茶葉にこだわりはない。食に関しては特にこだわりなどない。それが彼女なのである。

 そんな人間が喫茶店に行くなよと思う者もいるかもしれないが、敢えて言わせてもらおう。

 彼女は、この店の常連客である。鞄から小さなノートを取り出し、堂々と小説を書き始める程には。

 自称この店の常連客である彼女こと祈理はしがない小説家である。普段は家に引き籠って書いているのだが、違う環境で書きたいと思うこともあって緩やかな時間が流れているこの喫茶店で書くこともある。一応、マスターである志貴の承諾は得ている。

 はじめは周りの目を気にしていた。でも、今は特に気にせずに書いているのだから慣れというものは恐ろしい。

 因みに、先程小説を書くと述べたが、祈理が今やっている作業はメモ書きに近い。

 思いついたシーンや設定、使いたい単語や表現をノートにどんどん書き出していく。

 箇条書きのものもあれば、文章として成り立っていないもの、会話文だけのもの、一言二言で終わっているもの、何行も書き連ねたもの等、その長さはばらばら。思いつくままに書いているため、同じ設定で書かれたものなのに違うページに飛んでいるものもある。

 ごちゃごちゃと書かれたノートは他人から見たら何だこれと思うだろう。事実、祈理自身も後でノートを開いて読み返した時、

「え、何これ?何を思ってこれを書いたのわたし」

 と、首を傾げることがしばしばある。書いた本人ですらこうなのに他人がわかるはずもない。

 そして、この文章の中から何が使われてどんな物語が生み出されるのかも、彼女自身わからない。全く使われることなくただただノートに記されただけで終わる文だってある。

 それでも、祈理は書くのをやめない。自身の頭の中に浮かんだもの、今書きたいものをただただ書き連ねていく。

 紅茶やコーヒーに時々頼む日替わりデザート。そして、何と言ってもイケメンなマスターの爽やかスマイル。それらを味わいながら小説を読んだり、文章を書いたりするこの時間は、祈理にとってまさに至福のひとときであった。


 文字を綴るのに没頭して、どれくらい経っただろうか。

 カップの紅茶はすっかり冷めていた。ティーポットの蓋を開けて中を見れば、色が濃くなっている。流石に渋いだろうなぁと思って、祈理はそれをカップに注ぐのはやめた。

 その様子に気づいた志貴が彼女に声を掛ける。

「淹れ直そうか?」

「いえ、大丈夫です」

 腰を上げようとした志貴を制す。彼はカウンター内に置かれている椅子に座っていた。そして、その片手にはコーヒーカップが握られていて――

「……あれ?」

 祈理が顔を横に向けると、自分と同じくカウンター席に座っていた若い女性の姿はそこにはなかった。それどころか、きょろきょろと店内を見渡せば、客は彼女以外誰もいなかった。

 壁の掛け時計に目を向ければ、そろそろ夕飯の時間だった。

 なるほど。だから人もいないし、そんなに寛いでいるのか。

 うんうんと祈理が一人納得していると、彼女の手元にあるノートを覗き込むように志貴が訊ねた。

「たくさん書けたか?」

「……うーん、どうでしょうねぇ」

 曖昧に答えつつ、祈理ががさごそとノートをしまう。さっきまで黙々と書いてはいたものの、いざ見られそうになると恥ずかしいものなのだ。

 あははとから笑いする祈理の心情を察したのだろう。ふっと小さく笑った志貴が「そうか」と言って、コーヒーを啜った。

「で、今日の夕飯は?」

「それが、まだ考え中なんです。スーパー行ってから決めようかなぁ、と」

「今から行くのか?」

「はい。本当はもう少し早い時間に切り上げてスーパーに行こうと思っていたんですけど……」

「時間も忘れてノリにノって書いて、気づいたら今に至る、か」

「……はい、その通りです」

 呆れた眼差しを向けられた祈理は反論することなくただただ肩を竦めた。

「書くのをやめろとは言わないが、キリがついたらちゃんと食事はとるように」

「……善処します」

「いや、そこは素直に頷けよ」

「でもでも、一食ぐらい抜いたって人間死にはしませんよ」

「ちゃんと、食事は、とるように」

「……はい」

 はきはきと区切るように念を押され、しゅんと祈理が落ち込んだ。その姿はさながら飼い主に叱られた犬のようだ。勿論、志貴と祈理の関係は飼い主と飼い犬などではない。

 しょんぼりと垂れた耳と尻尾の幻覚が志貴には見えた気がした。

 ああ、可愛いな畜生……じゃなくて。

「全く、何回言わせれば気が済むんだ」

 犬でも腹が空いたら吠えるというのに、こいつは平気で食事を抜くんだよな……。

 片手で顔を押さえつつ志貴は溜息を吐く。そして、未だ項垂れたままの彼女を一瞥し、徐に手にしていたカップを置いて立ち上がった。

「……俺も行く」

「え?」

「買い物。俺も行く」

「え、いいんですか?お店は?」

「もう閉める」

 カウンターを出て店の入り口へとすたすたと歩いて行った志貴は、扉の掛札を『準備中』にかえた。

 おいおいそれでいいのかマスター。

 そう祈理は思ったが、この店のマスターは志貴なので彼女は何も口出しはしなかった。

 口出ししたら後が怖いなんて、これっぽっちも思っていませんよー。

 そう心の中で呟いたのは内緒である。

 カウンターへと戻る際に、志貴が祈理の元にあるポットやカップ、砂糖入れを回収する。慌てて祈理も席を立ち、その後をついて行く。

「片付け手伝います」

「ありがとう。それじゃあ、俺が食器洗うからそこの布巾で拭いて」

「はーい」

 洗った食器を志貴から受け取って拭いていく。それが終わった後は、机を拭いたり椅子の位置を直したりした。

 他に客がいる時は全く手伝わせてもらえないから、こうして志貴を手伝えることがとても嬉しくて祈理の頬は自然と緩んでいた。

 更に鼻歌まで歌い出すその姿を見て、

「もう少し手伝う機会を与えるべきか……いや、でもなぁ……」

 と、志貴が一人悩んでいることに、上機嫌な彼女は気づいていなかった。


 二人でやればあっという間に片付けは終わってしまった。それが少しだけ名残惜しいと祈理は密かに思った。

 店を出れば外はすっかりと夕色に染まっていた。鍵を掛けたのを確認して、ゆっくりと二人で歩き出す。

 当たり前のようにするりと繋がれた手に祈理は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。

「志貴さんは何が食べたいですか?」。

「何でもいいよ」

「即答しないで少しは悩んでください。それが一番困るんですよ」

「そうか。それなら、言い方を変えよう。祈理が作ってくれる料理なら何でもいい」

「う、うわぁ……」

「何だよその反応」

「いやだってですね……というか、さらっと言いましたけど、そういうこと自分で言ってて恥ずかしくないんですか?」

「正直自分でもちょっと鳥肌立った」

「ふふふ」

「まあ、本心だけど」

「……う、うわぁ」

「引くか照れるかどっちかにしろ」

 繋がれていない方の手で顔を覆った祈理の頭を志貴が小突く。だが、彼女を見つめるその眼差しは酷く優しいものだった。

 呆れて、怒って、笑って、他愛ないことを話す。

 当たり前のような光景。だけど、特別で幸せを感じる時間だ。

 たとえ二人が少し変わった人間だとしても、それは普通の人と何も変わらないのだろう。

 ゆっくりと、だが確実に、丸い丸い夕日が沈んでいく。

 その光に祈理は少しだけ目が眩んだ。

「……紅茶の中のレモンだ」

 ぽつりと独り言のように呟く。

 その声を拾った志貴が同じように空を仰ぎ、そして小さく笑った。

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