この生命は、唯『生きるため』にあり
『誰かの役に立とう』なんて、考えた事も無かった。
自分が『生きる』ことに、特別な感情なんて無かった。
ただ、ひたすらに『宿主に死期が来たら、次に乗り移る』。
それだけの人生だ。‥‥いや、『私』にとって『人生』という言い方は正しくない。
何しろ『私』は人間ではないのだから。
『私』の本質に肉体というものはない。いわば『魂』だけの存在と言えるだろう。
それ故、他人の身体を『乗っ取る』事で生を得ている。
『私』に仲間は居ない。
人や動物のように『親、兄弟』が居る訳でもない。
天涯孤独。
もう何時からこうして生き続けているのか、自分でも覚えてはいない。
何百年?何千年?いや、或いは何万年なのか。
何しろ『次』に乗り移って暫くすると以前の宿主の記憶は薄まっていき、やがて最後には完全に忘れてしまうからだ。
残っているのは『自分が普通の人間では無い何か』であるという事実だけ。
そうして、人々の影に隠れて今日までひっそりと生き続けてきたのだが‥‥
はぁ‥‥はぁ‥‥
漆黒の闇に包まれる山道を、『私』は追っ手から逃げていた。
しとつく雨が体温を奪う。吐く息が白く煙る。寒さと『痛み』が意識を霞ませる。
ふと、背後を確認する。
先程まで赤々と見えていた松明の火が、見えなくなっていた。
振り切ったか‥‥
ふぅ‥‥
ひと呼吸をつける。
くっ‥‥!
思わず苦痛で顔が歪む。
腹からの出血はただ事では無い。
‥‥特に酷い『刺し傷』は1箇所か‥‥
それと、それなりに痛い傷は数え切れないほど全身に感じる。
『この身体』に無数の『刺し傷』を作ったのは『槍』だった。
耳の奥に、村人たちが『私』に叩きつけた罵声がはっきりと残っている。
「この、魔女めっ!」
それが、『私』に言い渡された『罪状』だった。この国では『魔女』である事そのものが、裁かられるべき悪事なのであろう。
『私』は知らなかった。
槍というもので刺されると、例えようの無い激痛が襲うという事を。
大量の出血を見るという事が、ああも恐怖を感じるという事を。
そして何より、自分に向けられる明確な『殺意・敵意』というものが、ああも寂しく辛いものであることを‥‥
衣服は自身の血で真っ赤に染まっている。
もう『この身体』は、どれほども『持たない』だろう。
マズイな‥‥
気持ちが焦る。
『私』が他人に『乗り移る』には、2つの条件があった。
ひとつは『手の届く範囲に相手が居ること』
もうひとつは『相手と眼を合わせる事』だ。
その瞬間、『私』は相手に乗り移る事が出来る。だが今はダメだ。周囲には誰も居そうにない。
この状況で宿主が『死んでしまう』事態になれば、『私』もこの宿主と運命を共にすることになるだろう。
それだけは嫌だ、死にたくはない。
しかし、この状況だ。
どうする‥‥?
とにかく、出血を抑える事が最優先だ。そのためには‥‥?
心臓の動きを極限まで下げてみる。
ギリギリまで心臓の動きを下げれば、それだけ出血する量を抑えられるだろう。
だが、その対価として身体は動きにくくなるし、何より思考が進まなくなる。極めて危険ではあるが、しかし今はもう『それ』しかあるまい。
吐く息が白く成らなくなった。体温が下がったのだ。
ゆっくりと、身体を動かす。
もう、何時間もこの怪我を抱えたままで山越えをしているのだ。限界が近いのは確かだろう。
その時だった。
バウバウッ!バウバウッ!
犬の鳴き声が聞こえる。
近いな‥‥
グルル‥‥!
警戒する唸り声だ。
野犬か‥‥だとすれば、もはや此処までかも知れない。この状態で野犬の襲撃から逃げられるとは到底思えないからだ。恐らく、『私』の血の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
ぐっ‥‥
足に力が入らなくなり、身体が足元から崩れ落ちる。
すると。
「おいっ、アンタ!どうしたんだ、その怪我は!」
人間の声だっ!人間の声がする!
うっすらと眼を開けて見てみる。
老人のようだ。肩から猟銃を下げている。
猟師か‥‥助かった‥‥
「こ、こりゃぁ酷い怪我だ‥‥飼犬が騒ぐから『何か』と思って着いてきたが‥‥とにかく、ワシの小屋まで運ぶからな?医者が来るまで持ちこたえるんじゃぞ!」
持ちこたえる?
ああ、持ちこたえるとも。『あなた』が来てくれた事で、『私』はこの生命を繋ぐ事が出来るのだ。こんな嬉しいことはない。
「おい‥‥?どうしたんじゃ?何を泣いておるのだ?」
老いた猟師が『私』の顔を覗き込む。そう、『眼が合った』のだ。
ありがとう。来てくれて本当にありがとう。
この喜びを、『私』はいったい何に感謝したら良いのだろうか。乗り替わりで、こんなに嬉しくて有り難い気持ちになったのは始めてだ。
何しろ『死なずに済んだ』のだから。
これは果たして『偶然』なのか?それとも『運命』というものなのか?はたまた『神』と呼べる存在が『私』に生きよと命じたのか。それは『私』には分からなかったが。
それはともかく。
そうして『私』はその瞬間から『猟師・ジュゼッペ』として暫しの生を得る事が出来たのだ。
‥‥そして、6年の月日が流れた。