表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/37

始まり 告知


☆アルファポリス エッセイブログコンテストに参加しています。


ブログ形式にしなくてはいけないのかと誤解してブログにまとめてしまいました。

よろしければそちらもぜひ。 

https://tomotan2003.blogspot.com/ (サバイバー進行乳がんを生き抜いて)☆







14年前にステージ3Cという末期に近い進行性の乳がんになりました。

夫は軍関係者でしたので、ハワイでの闘病となりました。

10年生存率は約20%と言われた絶望の中、家族とともに戦った記録です。

壮絶で重い話だと思いますが、現在すっかり元気でオハイオで暮らしています。

闘病中の方の希望になって欲しい、それから検査の大切さも訴えたくてエッセイを書くことにしました。



挿絵(By みてみん)




マンモグラフィー


2003年3月


 左胸の中に大きな塊があるのはずっと気がついていた。

奥の方からズンズンと突き上げるような鈍痛もあった。当時癌は痛くないと一般に言われていたので、例えば乳腺症のようなものだと思っていた。乳腺炎にかかったことがあり、その時の感触と痛みにそっくりだった。 なので「またか」と軽く考えていた。 


 当時、私とアメリカ人の夫と息子はY基地の中で暮らしていた。アイダホ州から引っ越してきて1年と少し。息子はまだ8歳で基地内の小学校に通っていた。私はその学校の通訳や書類整理などのボランティアを毎日のようにしていた。そして軍人でこの基地に勤める夫は出張のために数ヶ月家を開けていた。

痛みはいつまでたっても収まらず、だんだん心配になってきた私は重い腰を上げてY基地の中の病院へ検査のために行ってみた。

ここのトップクラスの女医は難しい顔をしながら胸の触診をしていた。


「…これは……乳がんにしては大きすぎるわ、キャンサーではないと思う。大きな脂肪の塊ね、うん、大きすぎるもの」と良った。

「違うとは思うけど念の為にマンモグラフィーは受けてね」と言われたのだが「良かった、癌じゃないんだ」とすっかり安心してしまい、モンモグラフィー検査を受けに行ったのは日にちが合わなかったり、機械が壊れていたりしていたため、うんと後になってしまった。

マンモグラフィーの予約をボランティアをするためにキャンセルしたこともあった。学校の遠足で通訳をして欲しいという理由で。今考えるとバカなことをしたものだが、この時は医者の「キャンサーではないと思う」という言葉を信じきっていたためだ。


 約4ヶ月後、夫が帰ってきたので一緒に病院へ行きマンモグラフィーをすることになった。検査室でアクリル板で胸を潰されてレントン写真を撮る。

フィルムを見た技師の顔色が変わったのを見逃さなかった。


(え?何その顔、、なにかあったんだ)

「念の為にもう数枚とりますね、念のためだから」とJust in caseと繰り返す。

「なにか、悪いものなんでしょうか?」

「それは今からドクターが見て判断しますから、私は何も言えないんです」技師は私を見ないようにしているようだった。

それからすぐにフィルムを見たドクターは「乳癌の疑いがあります」と、はっきりと言った。「もっと詳しい検査をしなければわかりませんが、高い確率だと思います」

夫の顔色がみるみる真っ青になる。私は正直、信じられない気持ちのほうが強かった。健康で元気だ。体力もある。


「すぐにバイオプシーをしにハワイに飛んでもらいます、明日の金曜日にでも」と言った。検査のためにハワイにある陸軍T病院へすぐに行けという。

Y基地には当時オンコロジーと呼ばれる腫瘍専門医がいなかったためだ。明日行けとはあまりにも急だ。


「そんなに急に行かなくてはいけないんでしょうか?」と聞くとASAP一刻も早くという。そして私の顔を見て、アイムソーリーと言った。 


 息子はまだ小学校2年生で、小学一年生の途中でアイダホ州から転校してきて、やっと慣れたところだった。白人しかいなかったアイダホと比べ日本人とのハーフが多いこの学校は息子にとっても嬉しかったと思う。やっと友だちもできてきたところだった。

そして日曜日には誕生日パーティーを予定していた。金曜日に行けという医者にせめて日曜日のパーティーをさせて欲しいと月曜日のフライトになった。

辛い数日だったがなるべく顔に出さないようにしていた。というよりも実感がわかなかったのだ。

乳がん…? ブレストキャンサー?私が?

すごく元気で毎日のように学校のボランティアをして走り回っていた日々。何かの間違いではないのだろうか?


 夫のほうが落ち込んでいた。目を真っ赤にしてたが、私は最初本当に信じられなかったし、なんだか現実の話ではないような気がしていた。

誕生日パーティーの前日、風船を膨らませ、飾り付けをした。当時子どもたちに流行っていて、毎日見ていた海のスポンジのキャラクターの漫画のピニャータ(中にキャンディーが入っているもの、叩いて壊す遊び)を作った。ダンボールに黄色の紙を貼っていく。本の表紙を見ながら顔を書いていく。

飾り付けをし、プレゼントを包みながら「来年はどうなるのだろうか?もう誕生日パーティーをやってあげられないのだろうか?」そう思うと、急に悲しみに胸が締め付けられ、ピニャータの上に涙がポタポタと落ちた。

いつも陽気な黄色の漫画のキャラクターも泣いているように見えた。


 パーティーにはたくさんのお友達が来てくれて楽しい一日を過ごせた。この日はおもいっきり明るく振る舞った。いつもと同じに、おもしろいママのままで。

急に学校を休まされハワイに行くと言われた息子は少し泣いた。


「どうして?どうしてハワイに行くの?」

「大切なことを調べに行くの、ここではできないことなの。でもすぐに帰れるかもしれない、まだ何もわからないの」と説明する。

 「乳がんではなかったと帰ってくる人もたくさんいますよ」というドクターの一言だけが希望だった。

3日。月曜日の夜のユナイテッドの便に乗るためにお昼のバスに乗り込む。Y基地から成田まで出ている直通バスだ。夜ほとんど眠れなかったので2時間ほどのドライブの間ウトウトする。 

成田空港での待ち時間は長かったがあえて本や雑誌も数冊しか買わなかった。 洋服も1週間分パックしただけだった。


 「きっと何かの間違いだから、日本にすぐ帰るなら荷物になるから。すぐにトンボ返りするに決まってる」そう信じたかったからだった。


けれど、その日以来日本に住むことはもうなかった。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ