血に揺れる心。
『十二の神の名を持つ器が、いつか世界を救うだろう。彼女の血を継ぐ十二の武器が』
隻眼の翁はそう呻き、満月を見上げた。
『両双が蟲綜と呼ばれる所以、篤と見よ』
どこからか飛んできた一匹の蝶が翁の肩に止まる。翁が最後の呼吸を終えると蝶は分厚い書物の表紙に乗り、そして動かなくなった。
「起きたか?」
羽衣の瞳を覗きながら青年は言った。寝惚けていた頭が目まぐるしく回り始める。
羽衣よりは年上だが、そう離れてはいなさそうだ。深い青色に染められた小袖をはだけ、そこから細い体躯の割に厚い胸板が顔を覗かせている。日頃から鍛えられているのだろう。
(私は過切と戦い、そして大刀に斬られた――そのはず。この人は誰……? ここはどこ……?)
「まだ混乱しているか。仕方がないな、相手はあの弁慶だからな。転がったままでいいから、とりあえず話だけでも聞いてくれ。後のことはそれからだ」
若者は膝を崩し、淡々と語り始めた。
まずは弁慶だが、やつは死んでいない。姿をくらましただけだ。あんたと戦って以来、目撃されたって話も俺の知る限りはないな。
弁慶が去った後あんたは気絶して、俺がここまで運んできた。
遅くなったが、俺の名前は両双國丸。まだ齢二十だが、蟲綜の名を継いだ現当主だ。よろしく。
ここは両双の屋敷で、あんたは三日ほど寝こんでいたかな。噂には聞いてるよ、四大刀神の一角を、腕の立つ俺より若い女子が担っているってな。
そこで本題なんだが、じい様に聞いた話だと、禊の打つ刀は刀自体を狂わせる能力が秘められているらしい。が、刀の主――つまり所有者には何も影響を及ぼさないと聞いた。そして、あんたが弁慶と戦ったときの神伐の太刀――、主の感情を平らかにするという妖刀だそうだな。
弁慶が振り回していた大刀は、間のモノで、重く固く、受けた衝撃を流してしまう。それ以外には特殊な力を持たない。間のモノが異質な力を持つって話自体聞いたことがないけどな。
俺たち両双は鍛えるだけで、元の武具の能力を大きく変えるような力はない。どちらかといえば、変えるではなく特長を伸ばすんだ。それに、あの場に俺たちが鍛えたモノはなかった。つまり、あの場にあった刀のいずれにも、一人の女子に弁慶を超える力を与えることなどできないはずなんだ。
あんた、何者だ? 何をした? 俺はそれが訊きたくて、わざわざあんたを助けてやったんだ。紅くなった神伐の刀と、あんたの瞳。どんなことだっていい。その力の秘密、教えてくれないか。
お礼といっては何だが、折れた神伐の刀を鍛え直してやってもいい。両双の腕にかかればどんな刀でもさらに強くなる。弁慶を討つのならば、少なからず役に立つだろう。
――どうだろうか? 悪い話じゃないはずだが。
「申し訳ありません。私にも、判らないのです……」
國丸が答えを聞こうと口を閉じてから数十秒、羽衣は恐々ながらも胸の内を明かした。
「教えられないのではなく、判らない? どういう意味だ?」
「過切の大刀を避けて転んだところからの記憶が、一切合切ないのです……。なので、それから何が起きたのか、私が何をしたのか判らないのです」
羽衣の言葉に嘘はなかった。今にも身体を喰らおうとする夜叉之骨割、それが羽衣に残された最後の記憶。紅く染まった太刀も、二分された夜叉之骨割も、過切の捨て言葉も、羽衣の脳に留められてはいなかった。
「では以前、刀が光るようなことは起こらなかったか? もしくは、記憶を失くしたことは?」
「そのような奇怪な出来事は一度も……」
「そうか……。長々とすまない、疲れているだろうに。粥を用意してあるから、少しでも食べておくんだ。その後、じい様に会ってもらいたい。両双の先代で、刀に関する知識においては並ぶ者がいないほどの素晴らしい人だ。弁慶との戦いについて、何か分かるかもしれない」
國丸は羽衣の枕元に粥を置き、静かに部屋を離れた。
布団から起き上がった羽衣は、そこで初めて違和感に気付いた。左腕の感覚がないことに変わりはなかったが、それ以外に異常がなかった。なぜか、左腕を自在に動かせるのである。
夜叉之骨割を和太刀で受けた際の衝撃で、羽衣の左腕の骨は折れていたはずだった。それが、皮膚の上から触れてみても、何らひびなど見当たらないのだ。
(あの方が治してくださった――わけではないでしょうね。治療した跡なども見受けられませんし。それに刀匠の専門は刀であって、刀は壊すためにあるモノだから)
羽衣は懐から羽衣を取りだし、そっと鞘を撫でた。しかしその目は、和紙に乗せられた太刀の残骸を見つめていた。打ち直すことなどできないと一目で分かるほどの惨状。四大刀神の一角はおろか、刀としての価値すら見いだせない金属の破片と、それが刀だったことを物語る柄。
それを、國丸は鍛え直すと言ったのだ。羽衣は過去に一度だけ両双の刀に触れたことがあったが、正直、世間に騒がれるようなモノではないと評価した。羽衣の方が腕前は上だと思ったのである。
――評価自体に間違いはないが、両双の真髄を当時の羽衣は見誤っていたのだが。
羽衣にできないことを、國丸はできると言った。会って間もない見ず知らずの若い男の言葉に、半信半疑ではあるものの、すがるほかに道はなかった。
既に冷めてしまった粥を食べ、布団を整えた羽衣は、膳の前に正坐すると羽衣の刃を左腕に当てた。
「どうだ、落ち着いたか――おいっ! おまえ、大丈夫か!? その血はどうした!?」
粥が入っていた椀に、なみなみと注がれた紅い液体。國丸が驚くのも無理はなかった。それは、全て羽衣の生き血だったのである。
「吐いたわけではありませんのでお気になさらず……。禊の血――、とりわけ私の血は、刀に好かれているらしいのです。あいにくですが手持ちがなく、助けていただいたご恩を返せないというわけでして……、こちらをお代ということにしていただけないでしょうか」
「そうか――、見たところ身体に傷はないようだが、方法は訊かないでおこう。だが、無理はするなよ。それと、別に、見返りが欲しくてあんたを助けたわけじゃないんだが――、あんたの気がそれで晴れるってなら、ありがたく頂戴しとくよ。じい様が喜びそうだしな」
國丸は近くにあった空の花瓶に血を移すと、羽衣を横抱きにして立ち上がった。
「ひゃっ!? あのっ、何を!?」
「暴れるなって。身体もまだ本調子じゃないだろう? かなりの血を絞ったみたいだからな、体力は温存しておきな。どうせ、すぐに弁慶を捜しにいくつもりだろ? 戦う前から弱ってちゃ、勝ち目なんてありえないぜ」
図星を指され、羽衣は何も言えなくなった。
四大刀神の一角を担う禊の当主であるとはいえ、まだ十六の少女。幼少の頃から家族か刀としか縁がなく、友人どころか近い年の知人すらいない。若い男も客として訪れ、時には求婚されたこともあったが、羽衣がなびくことはなかった。羽衣が生きる為の理由、それは『復讐』のみ。平和や幸せを捨ててまでも、羽衣はただそれだけを成し遂げるためだけに生きてきたのだった。
すなわち、男と近い距離で接することのなかった羽衣が、國丸に触れられ、さらには抱きかかえられて、羞恥心を覚えないはずがないのである。頬を赤く染めた乙女に取れた行動は、國丸の首にしがみつき、少しでも重いと感じられないようにすることだった。
屋敷の離れ、ところどころにしみのある襖の前で羽衣は下ろされた。
「じい様、入ります」
すぅっと襖が引かれ、そこに広がる光景を目にして、羽衣は静かに息を呑んだ。
壁一面を覆う様々な武器。刀はもちろん、槍に長刀、鎚に斧、さらには弓矢や銃までもが所狭しと飾られていた。その中には、禊の刀の気配もいくつかあった。
「初依殿は元気かな?」
羽衣の肩が小さく跳ねた。振り向けばすぐそばに翁の顔があり、羽衣はさらに跳び上がった。
「おばあ――祖母をご存知なのですか?」
「逆に、そなたは知らぬのか? 『禊の巫女』という役割を。この世界に身を置くものにとって、初依殿は生ける伝説。知らぬ者の方が少ないと思うが……。儂も初依殿も歳を取ったということかな」
「禊の――、巫女?」
小首をかしげる羽衣に、翁は座蒲団を勧めた。
「――國丸も座りなさい。羽衣殿といったかな、國丸の話では或る幽霊と戦っているそうだが……。勝ち目はあるのかい?」
穏やかな口調ではあったが翁の顔に笑みはなく、羽衣の目をじぃっと覗きこんでいた。國丸のつばを飲み込む音が響く。
懐の小刀を握り締め、羽衣は毅然たる態度で言い放った。
「勝つか負けるかではないのです。私がいかに命を散らすのか、いかような死に様を曝すのか。空しく殺されるのか、仇討ちを果たし少し晴れやかな心地で死を迎えるのか。それが今日なのか、明日なのか、もしくは数年先になるのかは分かりません。しかし、私は死にます。私の命は羽衣を生んだとともに失したのです」
――ゆえに、死は怖くありません。勝ち目があろうとなかろうと、刀と一緒に戦う。それが私の覚悟です。
羽衣の答えを聞いた翁は、途端に相好を崩した。
「良い眼をしておる――が、無残にその命を散らしてしまうのも惜しい。せめて晴れやかな終わりを迎えられるよう、幽霊の正体について語るとしよう。今日とも明日とも知れぬ命の、老いぼれの長話に付き合ってくれるかな」
國丸もしかと聞くがよい。儂ら両双の作とされる武具は、この世には存在しない。両双は世に存在するモノを鍛えるのみで、新たに生み出さないからの。
では、何故儂らの打ったモノは、世に評価されておるのじゃろうか? 言ってしまえば強いからじゃが、基の武具の特長を殺さず、逆に伸ばすのは至極難しい。そこで必要となってくるのが知識である。鍛えるモノについて、あらゆることを知っておく。知識こそが両双の真髄じゃ。
間の刀は繊細とは言えんが、刀単体での威力においては四大刀神随一の破壊力を持つ。鬼と呼ばれる間の骨が、その破壊力を生み出しておるんじゃよ。
ここからが本題じゃ。羽衣殿はご存知であるかもしれんが、禊の血は刀を狂わせる。血を使えば使うほど刀はより狂い、それが禊の刀を強くする。そして、神伐の刀は亡者の血で鍛えられる。亡者の現世での未練が精神を冒す力の大小を決めるのじゃ。
ふと気付かんかね? 禊と神伐が似ておることに。どちらの刀の贄も血。
禊は刀を狂わせ、神伐は人を狂わせる。実はの、禊も神伐も、もとを糾せば起源は同じ一人の男なのじゃ。両者で異なるのは、生き血か亡者の血か、ただそれだけなのじゃよ。
その男――名を闇未現左衛門、字は過切と言うが――こそ、羽衣殿の追っておる幽霊の正体じゃ。
過切はの、刀を探して彷徨っておる。魂のみとなってしまった己の器と成り得る刀を。
ゆえに過切は、羽衣殿に惹かれるのじゃ。正しく言うならば、禊と神伐の血を併せた羽衣殿の刀に惹かれておるのじゃよ。
だがしかし、過切が羽衣殿の刀と混ざりしときが訪れたならば、この世から平穏の二字は消え去るであろう。
「それが――、じい様の予測する未来なのですか?」
尋常ではない翁の話に、堪えきれなくなった國丸が口を挟んだ。
「予測ではない。無数に枝分かれした未来の一つを述べたまでじゃ」
「私は、どうすればよいのでしょう……。四大刀神の刀を使っていることもあるのでしょうけれど、過切の用いる剣術は、この世のものとは思えない動きでした。國丸様の仰っていた『紅い刀』もよく分からないですし、刀も一振り折ってしまいました……。正直なところ、倒せる自信が全くないのです」
羽衣が弱々しげに俯いた瞬間、羽衣の目前に積まれていた太刀の欠片が、赤い光を発した。あまりの輝きに目の眩んだ羽衣だったが、視界を取り戻すとさらに目を疑うことが起きていた。
わずか数秒の間に、砕けた太刀が直っていたのである。
「じい様、今のだ! 俺が見た光は!」
戸惑いを隠せず黙り込む羽衣とは対照的に、國丸は興奮気味に太刀を指差した。
「儂は今、その太刀に禊の血を与えた。遠い昔に譲り受けた、初依殿の血を。『禊の巫女』とは、刀の穢れや闇を祓う、禊に代々受け継がれている職じゃよ。初依殿は、歴代の巫女の中でもとりわけ腕が良かった。儂も幾度となく世話になったの」
「おばあさまが……?」
「儂の記憶では、月衣殿――羽衣殿の母上――が『禊の巫女』を継ぐ前に亡くなってしもうて、羽衣殿が禊を継いだために、後継ぎがいなくなったはずじゃ」
(知らなかった……。おばあさまにそのような役目があったなんて。刀たちのことも私は何一つ理解できていない……。こんな私に過切を倒せるの? 過切を追い払った記憶もないのに。何も知らない私にあの怪物を斬れるの? 口ではあのように言ったものの、仇を討たずして死ぬのは嫌。私は、どうしたら過切を殺せるの……)
羽衣の耳につんざくような悲鳴が届いた。
「じい様っ、今のは!?」
羽衣が反応するよりも早く、國丸がつと立ち上がった。
「羽衣殿にも聴こえたようじゃな、流石は四大刀神の血筋じゃ。して、國丸は何を聴いた?」
「神伐――ですが、一振りではないようです」
「そこまで分かれば上々かの。羽衣殿にもおそらく聴こえたであろう今の声は、刀の声じゃ。近くに過切がおるのじゃろう。さて、時間もないが最後に一つ、羽衣殿が過切に勝っているモノを教えておこう。これで儂の長話も終いとしよう」
和太刀を胸に抱きひた走りに走る。羽衣の耳にこだまするのは刀の悲鳴。聞いているだけで心の冷えていくような、悲哀に満ちた叫び。
――禊の血は濃い。ゆえに巫女か刀匠かを隔てるのは、ほんの一つの些細な要素じゃ。
背後から追う國丸の気配を感じながらも、父の仇へ向かう足は止まらない。國丸を巻き込みたくない気持ちはあったが、羽衣には押しとどめる時間さえもどかしかった。
――怨みよりも哀しみよりも刀を活かす、ただ一つの感情。
過切を斬ることよりも強く、羽衣の頭を占めるのは刀のことであった。
和太刀、血錆、そして羽衣。個性は違えども同じ刀であることに変わりはなく、羽衣の注ぐ愛も等しかった。
――羽衣殿は疾うに備えておるはずじゃよ?
父を斬った刀であろうが、父の遺した刀であろうが、羽衣の生んだ刀であろうが、羽衣は刀そのものを愛しているのだ。
――さよう、その感情とは、愛じゃ。
(刀たちを愛することだけなら、私は過切に負けない。惜しみない愛をもって、過切を斬る!)
「羽衣っ、後ろだ!」
束の間の気の緩み、それが羽衣の過ちだった。駆ければ駆けるほどに鼓膜を響かせていた刀の悲鳴が、一切聞こえなくなっていた。
國丸の声に振り返ろうとするも時すでに遅く、
「余の器ヲ返しテいたダこウ」
和太刀が粉々に砕け散る。喉を貫いた翠色の刃を瞳に映し、羽衣はその場に崩れ落ちた。
過切は緋と翠の一双の刀を捨て、羽衣の懐から転がった羽衣を手にした。
「此れが私の器……。素晴らしい、素晴らしいぞ。私にも光が見える」
過切が羽衣を掲げると、羽衣は懐剣から太刀へと形を変えた。鏡のごとく煌めいていた刃も、黒糸で飾られていた柄も、今は全てが雪のように白い。
「白き神に祈りを」
羽衣だったそれが、無慈悲に羽衣へと振り下ろされた。
こんにちは、白木 一です。
三ヶ月経ってようやく、第三話です……。
えっと――、第一話と第二話で一年以上開いていたはずなので、それと比べたらはやいのではないでしょうか(汗)
さて、四話完結の第三話、つまりは次話が最終回!
今年中には書き上げたいです――が、バカみたいに広げた風呂敷を仕舞っていかないといけないので、十二月末までに終わるかどうか……。
お仕事も忙しい時期になってしまいましたし……。
気長に待っていてほしいです。
前回、前々回の後書きは解説みたいなことをしておりましたが、ネタ切れです……、申し訳ないです。
ですが、誰得ではありますが、次話の最終回の後書きにて、全四回に登場した刀について解説します。楽しみにしてください! 楽しみにしていてほしいです。
最後に、これからも中二病をこじらせちゃったダメダメ作者、白木 一と私の書いた物語を、これからもよろしくお願いいたします
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