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国の血           :約4500文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/06/04

「こちらです……総理」


「ああ……」


 おれは車から降り、目の前にそびえ立つ灰色の建物を見上げた。コンクリート打ちっぱなしの外壁は継ぎ目が一つも見当たらず、窓もない。今日の曇天も相まって、まるで巨大な墓標のように見えた。

 側近が前に進み出て、重そうな金属扉を押し開けた。蝶番が低く軋み、鈍い音が響いた。

 側近は一歩脇へ退き、手で中を示した。おれは軽く頷き、足を踏み入れた。

 建物の内部は外よりもひんやりとしていた。やや湿気があり、鼻をすすると、かすかにカビにも薬品にも似た妙な匂いが鼻腔に入り込んでくる。おれは小さく息を吐き、呼吸を浅くした。

 廊下は長く、天井も高い。照明は等間隔に埋め込まれた足元灯だけで、全体的に薄暗い。歩くたびに乾いた靴音が広がり、壁や天井にぶつかって遅れて返ってくる。その反響音が耳に心地よく、おれは意識して歩き続けた。


「――総理。総理?」


「ん、ああ。どうした?」


「お足元にお気をつけください。少々暗くなっておりますので」


「そんなこと言われなくても分かっているよ」


「はっ、失礼いたしました。少しふらついているように見えましたので」


 おれはふんと鼻を鳴らした。だが、確かに気分が少し浮ついているのかもしれない。

 総理……。ああ、夢でも聞き間違いでもない。おれは総理。総理大臣になったのだ。


 数年前のことだ。このままでは国が駄目になる――そう思い立ったおれは、一念発起して選挙へ打って出た。

 何の後ろ盾もないただの一般市民だったが、声高に『国民が一番』、『国民ファースト』、『強い日本を取り戻す』と叫び続けていたら、不思議なほど支持が集まり、結果は見事に当選。その後、あれよあれよという間に党内で担ぎ上げられ、総裁選に出馬する流れになり、そして……勝利した。

 まさか自分にここまでの才覚があるとは思ってもみなかった。いや違う。これは才能でも運でもない。天命だ。おれは総理になるために生まれ、ここまで生きてきたのだ。

 胸の奥から込み上げてくる使命感に震えながら、おれは拳をぐっと握りしめた。そのとき、前を歩いていた側近がふいに足を止めた。


「こちらになります」


 側近は静かにそう告げ、目の前の扉の取っ手に手をかけた。

 おれは黙って頷いた。ここがどこで何のために連れてこられたのか、具体的な説明は受けていない。だが、想像はつく。

 おそらく何らかの重要な儀式が行われるのだろう。総理大臣としてこの国を背負うのだ。それくらいの通過儀礼があって当然。いや、それだけで終わるはずがない。何か……そう。とんでもない国家機密を継承することになるのかもしれない。たとえば、実は政府は宇宙人と密かに交流していた、とか。……なんてな。

 おれは小さく笑うと、高鳴る胸にそっと手を当て、ゆっくりと扉の向こうに足を踏み入れた。


「ようこそお越しくださいました、総理」


 薄い色のサングラスをかけた男が恭しく頭を下げた。

 室内の広さはそこそこ。天井の蛍光灯が青白い光を均一に落とし、機械の低い駆動音が絶え間なく鳴り続けている。周囲には白衣姿の人間が数人立っており、ひそひそと何かを話しながらこちらを窺っている。目が合うと小さく会釈してきた。

 部屋全体が薄暗く、独特の匂いが漂っており、異様な空気を作り出していた。

 そしてサングラスの男の背後――部屋の中央に置かれた台の上には、大きな透明ケースが据えられていた。

 分厚いガラスに覆われたその内部に何かが横たえられている。あれは……。


「総理……?」


 おれは思わずぽつりと呟いた。男はゆっくりと口角を吊り上げ、頷いた。

 透明なケースの中に収められていたのは、紛れもなく元総理大臣だった。それも歴代最長の在任期間を誇り、圧倒的なカリスマで政界を支配し続けた、あの偉大なる総理である。


「し、しかし、あの方は亡くなられたはずでは……?」


 そう、あの方は例の事件で命を落とした。一度は総理の座を退いたものの、なおも政界に絶大な影響力を持ち続け、いずれ再び総理の座に戻ってくるだろうと囁かれていた。前回のオリンピックの成功も、あの方の手腕によるものだと語る者も多いと聞く。

 盛大な国葬が執り行われ、世界各国から要人が集まり、一般弔問の列は何日も途切れなかった。テレビでは連日特番が組まれ、多くの国民が涙を流して別れを惜しみ、その功績を称えた。

 嗚呼、名僧。嗚呼、政誉。嗚呼、清浄。嗚呼、寿。未来永劫ばんざい。ばんざーい。ばんざーい――。

 それなのに、なぜここにいる。


「ええ、確かにお亡くなりになりました。ですが……」


 男がちらりとケースに目をやった。おれもつられて視線を移す。まるで透明な棺の中で――いや、そのものだ――元総理は裸の状態で何かの液体に全身を浸していた。

 生前、元総理がご愛飲していた水だろうか。神なんとかというありがたい水……いや、違う。やや黄色がかったジェルのようだ。近づいて覗き込むと、体の至るところに透明な管が取り付けられているのが見えた。

 腕、胸、首、頭、背中、脚――無数の細い管が伸び、周囲の機械に繋がっている。そのうちの何本かには赤黒い液体が絶え間なく流れていた。


「あの日……総理が倒れてから、ずっと輸血を続けていたのです」


「え、ずっと!?」


 思わず声が裏返った。


「馬鹿な……死体に輸血を? そんなの意味がない……。国民の血の無駄じゃないか」


 言い終えた瞬間、室内がしんと静まり返った。全員の動きがぴたりと止まり、まるで空気そのものが凍りついたように感じた。おれは慌てて口を押さえた。


「……確かにそうかもしれませんね」


 男は一拍置いて、短く笑った。その笑みはどこか引きつっているようにも見えたが、おれはひとまず胸を撫で下ろした。


「ですが、そのおかげで総理のお身体は現在の状態を維持できているのです。このジェルは特殊なものでしてね。肉体の腐敗を極限まで抑制する効果があるのですよ」


「維持って……しかし、何のために? ここは政府の施設でしょう? ただでさえ財政が厳しい時代なのに、こんなことに税金を使うのは無駄じゃないですか」


 またも沈黙が落ちた。空調の低い唸りと機械の規則的な駆動音だけが、室内にかすかに響いている。

 おれは慌てて咳払いした。


「無駄ではありませんよ」


 男は静かにそう言った。


「必要なことなのです」


「た、確かに偉大な総理だったのかもしれませんけど……。でも、なぜそこまでして保存を? あれだけ金をかけて国葬までしたのに、御神体というやつですか? まるでカルト宗教だ」


 言った瞬間、「あっ」と声を漏らし、おれは慌てて口を押さえた。またやってしまった。おれはどうも昔から失言が多いのだ。意識していないと、思ったことがついそのまま口から出てしまう。

 男は苦々しげに笑い、「さすが現総理ですね」と言った。おれは困ったように笑って返し、ほっと息を吐いた。


「そ、それで、私はここで何をすればいいんですか?」


 気まずさを振り払うようにおれは話題を変えた。


「宣誓でもするんですか? 亡き総理の遺体の前で、この国のために尽くすと……」


 おれはちらと元総理に目を向けた。確かに、あの方を前にすると自然と身が引き締まる思いがした。親任式はすでに終えているが、これでさらにこの国のために命をかける覚悟が固まるというものだ。

 あの方に誓いを立てておいて、不正や私欲に走るなどありえない。

 偉大なる先人。この国の象徴。聖人君子――おれは拳を強く握り、胸にそっと置いた。


「いえ……」


 男は静かに首を横に振った。


「総理はまだ生きておられますよ」


「えっ? でも、さっき……」


 おれはもう一度、ケースの中に目を凝らした。青白い皮膚。閉じたまぶた。黒ずんだ唇。どう見てもただの死体だ。胸は上下しておらず、呼吸しているようには到底見えない。

 だが管の中では血液が絶え間なく循環していた。赤い液体が体内に送り込まれ、また別の管から排出されていく。

 取り込み、吐き出す。取り込み、吐き出す。

 国民の血税を取り込み、汚して吐き出す――なぜだかわからないが、見ているうちに頭に『マネーロンダリング』という言葉が浮かんだ。


「頭部にも管が刺さっているでしょう」


 男がこつこつと指先でガラスを軽く叩いた。


「あそこから薬品を脳に流し込み、劣化を防いでいるのです」


「だからそんなことをしても……」


 無駄だ。いったい何年、どれほどの国民の血がこの死体に注ぎ込まれてきたのか。その分を本当に必要としている人間に回せていたなら――そう思うと、急にやるせない気持ちになり、おれは顔を背けた。


「まだ生きているんですよ」


 男はゆっくりと言った。おれは顔を伏せたまま小さく首を横に振った。

 元総理は死んだのだ。清廉潔白な指導者として。

 だからこそ、きちんと灰にしてやるべきだ。そう思った。


「脳はね」


「脳……? でも――うっ!」


 顔を上げた瞬間だった。突然、背後から側近たちに腕を強く掴まれた。反射的に振り払おうとしたが、その前に首筋に鋭い痛みが走った。

 直後、視界が急激にぼやけ始めた。膝から力が抜け、世界がぐにゃりと傾いた。意識が下へと沈んでいき、おれは引きずり込まれるように床に倒れ込んだ。

 歪んだ靴音が響いている。こちらへゆっくりと近づいてくるようだ。やがて目の前に影が差した。サングラスの男だ。

 男はしゃがみ込み、そっとおれの頭に触れた。その鈍い感触を最後に、おれは完全に意識を手放した。



 ……どれほどの時間が経っただろうか。

 おれは目を覚ました。目の前には灰色の天井が広がっていた。斜め上から白い照明が当てられており、その熱がわずかに肌に伝わってきた。どうやら、おれは手術台のようなものに寝かされているようだ。

 肩に手を添えられ、ゆっくり上体を起こした。体に掛けられていた薄緑色のシートがぱさりとずり落ちた。

 手を開き、閉じる。また開く。閉じる。感触を確かめるようにその動作を繰り返した――が、それはおれの意思ではなかった。


「総理、いかがですか?」


 あのサングラスの男が腰を屈め、顔を覗き込んできた。

 おれは口を開こうとした。だが、できなかった。口だけではない。目も指も、何一つ自分の意思で動かすことができない。

 おれはただ視界の奥に存在しているだけだ。まるで一人称視点の映画を見ているかのようだった。


「おい、うまくいったんだろうな?」


 男が近くにいた白衣の者に苛立ち混じりの声を投げつけた。


「え、ええ……。総理の脳の一部を適合者に移植しました。現時点で拒絶反応は見られません。おそらく手術は成功しているかと……」


「おそらく? おそらくじゃ駄目なんだよ!」


 男が声を荒げた。


「何のためにここまで準備したと思っている! 官房機密費を投入し! 信者に票を流させ! 党内の派閥を金で取りまとめ、この男を総理にまで押し上げたんだ! この国を立て直すには、総理の力が必要――」


「トリモロス……」


 低い声が室内に響いた。おれが――いや、おれの口が勝手に開いたのだ。


「えっ?」


 男が振り返った。


「……肉体を取り戻した。次は日本を取り戻す。世界の中心で咲き誇るようなあの強い日本を……そうだろう?」


「は、はい!」「はい!」「はい!」


 白衣の者たちが声を揃えた。

 おれの――いや、総理の腕がゆっくりと持ち上がっていく。拳が強く握り締められ、天井へ向けて高々と掲げられた。

 その瞬間、おれは理解した。


 おれは――ただの傀儡だったのだ。


 直後、視界の端が黒く滲み始めた。じわじわと絞られるように視界が狭まっていき、総理の力強い声も遠のいていく。先ほどまで感じていた空気の揺れも消え失せ、水の中にいるような冷たさが体を覆っていった。

 周囲の連中の媚びたような笑い声が鈍くこだまする中、おれの意識はゆっくりと暗く、深い底へと沈んでいった。

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