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東京帝国女学院 四季の情話

屋根裏の八月 ──阿佐野愛子の手記──

作者: 真野真名

【東京帝国女学院】スピンオフ作品。愛子の物語です。




 わたしは、人生のだいたいの失敗を「思いつき」でやらかしてきた。

 そして、思いつきのたびに謹慎になった。


 父の口癖は「女に思いつきは不要だ」だったけれど、どうもこの言葉は思いつきで言っているようにしか聞こえなかった。


 東京帝国女学院三年、阿佐野愛子。

 終戦間際の十八歳。

 ──将来の夢は「何かになること」。


 この「何か」というのが曲者で、自分でもよくわかっていなかった。

 けれど、何かにならなきゃこの時代に飲まれてしまう気がして、もがいていた。




一、酒粕と爆撃


 最初の失敗は、酒だった。


 近所の酒蔵が焼けた、という話を聞いたのが、あの蒸し暑い午後。

 空襲の煙がまだ西の空に漂っていた。


「お父さん、酒蔵が燃えたって!」

「知っとる。で?」

「酒がもったいないわ!」


 父は新聞を読んだまま、「阿佐野家に飲兵衛はいらん」と言った。

 しかしわたしには、父のために酒を取りに行くという立派な大義名分があった。


 問題は、付き合わされた弟の誠二郎である。

「姉ちゃん、空襲警報、まだ解除されてないよ」

「女は度胸、男は勇気よ」

「どっちもない家系だろ」


 そんな会話をしながら、二人で焼け跡へ向かった。


 現場はまるで地獄の釜のあと。

 瓦礫の中に、焦げた木の匂いと、鼻をくすぐる強い酒の香りが混じっていた。

 無事な酒樽は、すでに誰かが持っていってしまったらしい。

 だが、酒粕があった。大量に。


「これよ! これが残ってたのよ!」

「……姉ちゃん、それまだ食べられるの?」

「非常時には非常食!」


 拾い集めた酒粕は、焦げて黒くなっていた。

 でも匂いがすごかった。嗅いでるだけで、頭がふわふわしてきた。

 そして、現地で一口、味見したのが運の尽きだった。


「うまい!」

「姉ちゃん、それアルコール残ってんじゃ──」


 気がついたら、夕暮れの中をふらふら歩いていた。

 弟が腕を引っ張り、「もう帰ろうよ」と言ってるのを、

「お父さんにお酒を! 娘の愛を!」などと叫びながら拒んだらしい。


 家に戻ると、父が門の前に仁王立ちしていた。

「火事場泥棒のような真似をして……!」

「ち、違うの、これは……家族愛よ」

「愛の前に理性を持て!」


 以後、三日間の謹慎。

 わたしは畳の上で正座しながら、酒粕の匂いを嗅ぐたびに、人生の方向性を少しだけ見失った。




二、帝国歌劇団事件


 謹慎が明けたころ、街角で見つけたポスターに運命を感じた。

 『帝国歌劇団 新団員募集!』

 ──白いドレス、舞台の光、拍手。


 あれを見た瞬間、「これだ」と思った。

 戦争だろうが何だろうが、心の中でライトがついたのだ。


 父に相談したら絶対に反対されると思ったから、もちろん内緒で応募した。

 試験は翌週。

「歌か踊り、いずれかを披露」と書いてあったが、どっちも中の下だった。

 でもまあ、熱意は上の上だった。


 会場は有楽町の劇場。

 空襲の跡が残る街を抜け、ドキドキしながら行った。


 控室には、未来の大女優たちがずらり。

 でもわたしは思った。「みんな顔が真面目すぎる」。

 女は笑ってなんぼだ、と父が言っていた。

 ──その父を無視して来ている時点で説得力ゼロだけど。


 いざ面接室。


「お名前をどうぞ」

「阿佐野愛子です!」


「特技は?」

「えっと……家での謹慎中に鍛えた正座です!」


「……一応、歌か踊りは?」

「歌います!」


 歌い出したのは、なぜか防空壕で皆が歌っていた「月の沙漠」。

 音程は行方不明、緊張で膝が震え、終盤は涙でぐしゃぐしゃ。


 ──でも、拍手はあった。審査員の一人が同情で叩いたやつだと思うけど。


 会場を出たとき、なぜか確信があった。

 「これは受かった」。

 人生の根拠のない自信ほど危険なものはない。


 帰りの電車の中で、空襲警報が鳴った。

 電車が止まり、地下に避難。

 煙と焦げた匂いの中で、「人生って壮大な劇場だわ」と呟いた。


 誰も笑わなかった。


 夜遅く帰宅したら、父が玄関で待っていた。

「お前、帝国歌劇団だと?」

「ど、どうしてそれを」

「面接票が家に届いた」


 父の顔は般若だった。

「足を出して踊るなど裸踊りと同じだ! 国賊行為だ!」


 ──以後、再び謹慎。

 二階の窓から見える月だけが、唯一の観客だった。




三、白衣の天使


 そんなわたしでも、少しは人の役に立ちたいと思ったことがある。


 きっかけは雑誌『少女倶楽部』の広告だった。


『銃後後援強化週間──白衣の天使募集』


 横には『空爆にキャラメル持って!』という意味のわからない広告も載っていたけれど──


 看護婦が傷病兵を優しく看取るあの笑顔。

 「これだ!」とまた思った。


 歌も踊りもだめでも、看護ならできる。

 白衣を着て、戦地で「お大事に」と言うだけだ。簡単だ。


 母の形見の鏡の前でポーズをとってみた。

 なかなか似合っている。

 「これで世界を救える」と思った。


 だが現実は、だいぶ違った。


 派遣されたのは、軍病院ではなく被災地の応急所。

 トラックの荷台で町を回り、瓦礫の中から遺体を拾い上げる仕事だった。


 最初の現場で、わたしは動けなくなった。


 焼け焦げた人影。

 すすけた玩具。


 どんな言葉をかけても、何も返ってこない。


 その夜、宿舎で上官の婦長に言われた。

「泣くな。泣くと感染する」


 感染って何が、と思った。

 でも、たぶん「弱さ」だ。


 二日目の朝、わたしは逃げた。

 トラックの荷台から、荷物のように飛び降りて。

 走って、走って、走って、家に戻った。


 玄関で父と目が合った。

「戻ったのか」

「ええ」


「……死体より、生きてる娘の始末のほうが、よほど問題だ」


 父は深くため息をつき、こう言った。

「お前のしたことは敵前逃亡と同じだ。憲兵が来るかもしれん」


 その夜、わたしは屋根裏に押し込まれた。




四、屋根裏の八月


 屋根裏は、夏でも寒かった。

 いや、寒いのは心の方かもしれない。


 板の隙間から夜風が入ってきて、埃が舞った。

 外では、時々サイレンが鳴っていた。

 でももう、怖くなかった。


 下の部屋から、父と弟の声が聞こえた。

「姉ちゃん、ほんとにここでいいの?」

「国のためだ」と父。

 ──何の国のためなんだろう、と思った。


 懐中電灯をつけて、ノートに書いた。



 八月十日 屋根裏にて

 わたしは、今、生きている。

 でも、生きているって、どういうことだろう。

 死なないこと? 笑えること?

 たぶん、今日もバカなことを考えられることだ。



 窓の隙間から見えた空は、やけに青かった。

 あの色を、戦争のせいで失いたくなかった。


 四日目の朝。

 外が妙に静かだった。


 弟が梯子を上ってきて、顔を出した。

「姉ちゃん……戦争、終わったって」


 わたしは、ぽかんとした。

「終わった? 本当に?」

「うん。ラジオで。天皇陛下の声、みんな泣いてた」


 わたしは笑った。

 涙が出たけど、それでも笑った。


 屋根裏の木の梁に頭をぶつけながら、叫んだ。

「出てもいいの!? もう謹慎終わり!?」

 弟が苦笑した。

「国が終わっても、姉ちゃんの謹慎は終わらない気がする」


 そう言って、二人で笑った。




五、屋根裏を出て


 屋根裏から降りたわたしを、父はじっと見た。

「……生きていたか」

「ええ。けっこう快適でした」

「馬鹿を言うな」


 けれどその声は、どこか震えていた。

 父の目尻に、光るものがあった。


「お父さん、もう怒らない?」

「怒る元気がなくなった」

「じゃあ、許してくれる?」

「戦争が終わったんだ。何でも許す」


 その言葉を聞いて、初めて泣いた。




六、戦後の空


 八月の終わり。

 焼け野原の東京を歩いた。

 空は広く、街は静かだった。


 誰もがぼんやりと歩いていた。

 これからどうすればいいのか、わからない顔をして。


 わたしも同じだった。

 でも、ひとつだけわかっていた。


 もう「何かになる」とかじゃなくていい。

 「何かでいる」こと。

 泣いたり笑ったりして、生きてるだけで、もう充分だと。


 角を曲がると、焦げた壁に貼り紙があった。

 『帝国歌劇団、再建予定』


 思わず笑った。

 もう踊らなくていい。

 でも、あのときの思いつきがなければ、いまの自分はいなかった。


 だから、悪くない。




七、酒粕の匂い


 家に帰ると、台所の隅に、例の酒粕がまだあった。

 カチカチになっていて、焦げの匂いが少し残っていた。


「姉ちゃん、それまだ捨ててないの?」

「思い出の品よ」


「それ、腐ってるよ」


 匂いを嗅ぐと、あの日の煙と笑いが蘇った。

 馬鹿みたいだけど、泣き笑いしてしまった。


 戦争も、恋も、夢も、全部焦げた匂いに混じっていた。

 でも、消えはしなかった。




八、澄子への手紙


 夜、机に向かって、便箋を一枚出した。

 宛名は「藤己澄子 様」。

 学校でも会えるが手紙で伝える事が大事なの。



 澄子へ。

 あなたの“文学”が恋や夢を守ったように、

 わたしの“失敗”も、家族を笑わせた気がします。

 だから、戦争が終わっても、私は思いつきをやめません。

 いつか一緒に、笑いながら“春はあけぼの”をもう一度読みましょう。



 封をして、ポストに入れた。


 夜風が吹いた。

 遠くの空で花火のような光がひとつ、残っていた。

 爆撃じゃない。

 平和の灯りだった。




九、あとがき


 あれから何十年も経ったけれど、いまだに父は言う。

「女に思いつきは不要だ」

 でも、そのあと必ず笑う。


 ──きっと、思いつきで生きた娘を、少しだけ誇りに思っているのだろう。


 そして私は今でも、ときどき焦げた酒粕の匂いを思い出す。

 あの匂いの中には、終わった戦争と、終わらなかった青春と、

 ちょっとだけ、希望の香りが混じっていた。


 人生って、発酵するのね。





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