初めてがいっぱい
ニャ〜
「うるさいっ!」
ピコリンがベランダから飛び降りて消えた後、育代は一時間ほど眠りについた。しかし、起きてからも怒りは冷めやらず、自室に入ってきて擦り寄って来た飼い猫を一喝し憂さ晴らしをした。
シャーと反抗して来た飼い猫をピコリンに見立て、自室の真ん中で対峙したまま、育代は怒鳴り散らす。
「勝手に来て散々振り回したくせに、勝手に明日帰るなんて、ほんと勝手過ぎるよっ! もうどうでもいいよ!」
「シャー!」
「そもそも私、ピコリンの事なんか呼んでないしっ! 小さい時の事なんか知らないよっ! それを偉そうに呼ばれたからとか、ドヤ顔で人を見下したような返事ばっかりっ! なにさまのつもりなのよっ!」
「シャ、シャー!」
「しかもちょっとだけ……意識しちゃったし! なんか私だけバカみたいじゃん!」
「ニャ?」
処理しきれない様々な想いが育代の脳内を駆け巡り、自然と目から涙が溢れる。威嚇していたさすがの飼い猫も、異変を察し育代を見つめる。
「ピコリンが来るのを……」
「ニャ〜」
「楽しみにしてたのに! 人の気も知らないで……」
「……」
両手で顔を抑え泣き崩れしゃがみ込む育代。そして飼い猫を抱きしめたのだった。
◇◆◇◆◇◆
想いを吐き出した事で落ち着きを取り戻した育代。その後の夕食時は余韻を両親に悟られないよう、いつものように他愛もない会話でやり過ごした。
そして自室に戻り、布団を鼻まで被り天井を見つめる。
(明日ほんとに帰っちゃうのかな……もっと色々お話ししておけばよかったよ……ピコリン……ピコリン……)
そしてそのまま泣き疲れ入眠した。
◇◆◇◆◇◆
翌朝
「おい。早く起きて用件を言え」
「う……う〜ん……用件……?」
お察しの通り、まだ眠っていた育代の枕元に立ち一方的に話す医師の手術服姿のピコリン。霞んだ目をこすり焦点を合わせる育代。
ガバッ!
「ぅえっ!? ピッ、ピコリン?!」
「ああ。やっと起きたか」
「……」
「用件を早く言え」
「……」
(この男はどこまでも神出鬼没で自分勝手だよ……)
「どうした」
「うるさいっ!」
「なんなんだお前は?」
「こっちのセリフだよ! だいたいレディの睡眠中に入ってくるなんて失礼極まりないよ!」
「ハハハ! レディだと?」
「……」
その瞬間、ピコリンが自分を女性として意識していない事が判明したような気がした育代。手術服の格好など気にする様子もなく。
「ピコリン……」
「なんだ?」
「帰っちゃうの?」
「ああ、もちろんだが? 滞在燃料費も馬鹿にならんからな――ウグ!」
そうピコリンが言い放った瞬間、育代はピコリンの顔を両手で挟んで近づけ、ピコリンの唇と自分の唇を合わせた。
帰ってしまう寂しさ、怒り――
帰ってしまうからせめて思い出と自分の初恋の証として――育代にとって色々な意味があった。
「えへへ……」
苦笑いし俯く育代。
「おい。暴力、物を投げ散らかす、侮辱に飽き足らずセクハラか?」
「え?」
気持ちを伝えるため、自分にとっては一世一代の大仕事を終えたつもりの育代だったが、あまりにも想定外の反応をするピコリンに困惑する。
「ち、違うよ! いや、その……あれだよ! よ、用件だよ!」
「……どういう事だ?」
「それは……エイリアンと結婚したかったんだよ! だから呼んだんだよ!」
それは幼き日の両親にも隠していた願い。
もうどうせ帰ってしまうのだから……と、開き直った育代の羞恥心ダムは決壊した。
「結婚だと? 俺と? だから呼び出したのか?」
「そ、そうだよ!」
「わかった」
「え?」
「だが、そのためには準備がある」
「はい?」
「一度ギガメッシュに戻る。そして改めて迎えに来る」
「え?」
「じゃあな」
ピコリンはそう言葉を残し、窓を開け、二階のベランダから飛び降りた。
育代がその後を追うようにベランダに出てピコリンの姿を確認しようとするも、すでにその姿はなかった。
放心状態の育代。
レディという発言を鼻で笑われ、半ば自暴自棄気味に唇を合わせたが、あっさりと結婚の承諾。
ファーストキス、初めての告白……このわずか数分の間に人生において重要な経験を怒涛の如くした育代。
感触を確認するように、自分の唇に指を当てながら考える育代。
(迎えに来るって言ったよね? でも、いつなの?)
その瞬間、記憶の戦慄が走る。
(あれ? ピコリンってたしか1969歳とか言ってなかったっけ? それにたった10年前に呼ばれたとも……)
そう。育代はピコリンと自分の時間経過のスピードが違う事に、今さらながら気付いた。
(ちょっと待って? よくわからないけど、私に呼ばれて来たのに10年かかるとしたら、往復だから……ピコリンが次に来るのは最低でも20年後?)
「……」
言葉を失う育代であった。