第5話 お出かけしよう
チューハイを飲みまくった俺たちはまた眠りに落ちて、気が付けば夕方になっていた。夏織さんはしばらく休みだと言うけど、風俗にも年末休みがあるんだな。てっきり年中無休かと思ってた。
「ふわ~あ。俊くん、起きてる?」
「一応ね」
「ねー、晩御飯どうしようかな」
「もう食べられるなら何でも結構です」
「あ、謙虚モードになってる。別にいいのに」
「そうなの?」
「うん、邪魔になったら追い出すだけだから」
「そんなあ~」
夏織さんは丸眼鏡をかけ、くしゃくしゃになった髪をまとめてポニーテールにしていた。まだ頭が重い感じがしたので、俺はその様子をじっと眺めていたのだが、夏織さんが寝間着を脱ごうとしたので慌てて止める。
「ちょっ、夏織さん!?」
「えっ? あっ、忘れてた! あぶなー」
「意外と抜けてるよね」
「居候のくせに言うじゃん」
「あっ、ごめん」
「いいよ、合ってるから。ちょっと目塞いでて」
「俺が覗かない保障は?」
「そんな男なら拾ってないから」
そうまで言われると裏切るわけにはいかない。俺はそっと両手で目を覆い、着替え終わるのを待つことにした。向こうの方でごそごそと音がしているのが妙な気を誘う。……が、我慢だ。
「はい、目開けていいよ」
言うとおりにすると、夏織さんは黒いトレーナーに身を包んでいた。何を着ても似合うなあ、この人。
「ふー、体に毒だぜ」
「そんなに私の体に興味あるの?」
「どっちを言っても気を悪くさせちゃうだろ、それ」
「あは、分かってるねえ。……けど、あまり期待しないで」
「何だよそれ」
「見せられるような体じゃないから」
謙遜のつもりなのか、それとも。どちらかは分からなかったが、夏織さんの表情はいつにもまして暗いように見えていた。この人には何かある。そこまでは察しがついているのだが、それ以上のことは何も分からなかった。……って、お化粧を始めたじゃないか。
「出かけるのか?」
「うん。俊くんもだよ」
「え、俺も?」
「だってさ、いろいろ足りないでしょ」
「いろいろって?」
「服とか。ずっとその恰好でいるつもり?」
「たしかに」
「ついでに晩御飯でも買ってこようよ」
即座に納得してしまったが、よく考えれば「服を買ってあげる」って意味だよな。なんでもかんでも買ってくれるけど、お金は大丈夫なんだろうか。給料は安いと言っていたし。
「ねえ、そんなに俺に金を使って大丈夫なの?」
「だって使わないとどうにもならないじゃん」
「そ、そうだけどさ。こっちが心配になるっていうか」
「大丈夫。俊くんが独り立ちするまで、ちゃんと支えてあげるから」
夏織さんは小さな鏡台に向かったまま、頼れる言葉をくれた。本当にこの人に拾われてよかった、と思う。うっかり変な組織にでも連れ去られていたら大変なことだ。まあそれを承知で酔いつぶれていたわけだけどさ。
「じゃ、行こうか。準備いい?」
「おう、バッチリだ」
「まあ持っていくような物も無いだろうしね」
「身も蓋もないこと言うなって」
立ち上がってウインドブレーカーを羽織り、それから玄関へと向かった。外は今日も寒いのだろう。師走も下旬、クリスマスも終わってどこもかしこも年末ムードだ。新宿の街は忘年会を楽しむ人々で溢れているのかな。
「よいしょっと」
夏織さんが玄関の扉を開ける。夕方と言っても外はもう日が落ちているので、廊下も暗い。また夏織さんについていくようにして、エレベーターホールへと歩いていく。
「そういや、他のテナントって入ってないの?」
「んー、どうなんだろうね。たま~に変なお店が出来てすぐ潰れてる」
「へえ。場所は良いのにな」
「だからじゃない? 賃料が馬鹿にならないからねー」
だとすれば夏織さんの勤め先はなかなか太っ腹だな。いち社員のためにそこまでするとは。まあ、どうせ使い道がないから貸しているだけなのかもしれないが。
俺たちはエレベーターホールに着いた。このビルには二台のエレベーターが備わっており、日夜動きを止めないでいる。乗車する人間の大半は風俗を使う客か風俗で働く人間かのどちらかだが。
「あ、上から来るみたい」
「だな」
夏織さんの言う通り、間もなくエレベーターがやってきて扉が開いた。中に乗っていたのは厚い上着を羽織って気だるげにスマホをいじくる若い女。一仕事終えたところだろうか、まことにご苦労様である。
「乗らないの?」
「乗る乗る」
促されるままに乗り込むと、夏織さんがボタンを操作して扉を閉じた。一階に向かって下りていく俺たち。何もないはずのフロアから乗ってきた俺たちが気になるのか、若い女はチラチラとこちらの様子を窺ってきていた。
「そこらへんの服屋でいいでしょ?」
「夏織さんに任せるよ」
「じゃあコスプレ衣装とか買っちゃお」
「勘弁してくれ」
「冗談だよ。それともメイドさんになる?」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「だからキモいって」
などと言い合っている間に一階に到着した。夏織さんが「開」ボタンを押していると、若い女は礼も言わずに足早に降りていった。単に礼儀の備わっていない人間なのか、それとも俺たちのことを怖がっていたのか。
「あの子、新人だね」
「どうして?」
「私が住んでいることを知らないみたいだったから。何回かこのビルに来た子は分かってるんだけどね」
「へえー……」
やっぱり他人のことをよく見ているな。てくてくと歩いてビルの外に出ると、思ったよりもずっと冷たい空気が体を突き刺してきた。空を見上げると雪がちらついている。
「あちゃー、思ったより寒いね」
夏織さんは厚い上着を羽織り直し、バサバサと音を立てていた。こんな天気だと秋田のことを思い出してしまう。もっとも、向こうの雪はこんなんじゃ済まないけど。
「服屋はどこにあるの?」
「駅まで行けば大きいのがあるよ」
「うへー、新宿駅か」
「何か?」
「人が多いのは苦手なんだ」
「ま、東京に来た以上は慣れないとね。ほら、行くよ」
「はいよ」
こればかりは身勝手に東京までやってきた俺自身の責任だな。ワガママばかり言っても仕方ないし、さっさと行かないと。それにしても寒いな。冬なんてどこに行っても同じ、か。すると俺の脳内を読み取ったのか、横にいた夏織さんがこんな質問を投げかけてきた。
「俊くん、海外に行ったことある?」
「ないな」
「私もないの。一回でいいから行ってみたいんだよねえ」
「例えばどこに?」
「うーん……」
夏織さんは腕を組んで考えこんでいた。この人のことだから、きっと俺が知らないようなニッチな場所だろうな。飛行機を何本も乗り継いでいくような、日本人なんか誰もいないような――
「ハワイかな」
「は、ハワイ?」
あまりに定番の答えだったもので、思わず聞き返してしまった。
「だめなの?」
「だめじゃないけど。逆に意外だなって」
「そう? だって寒いんだもん」
「あ、そういうこと」
「常夏の島だって言うからさ」
どうやら単に暖かいところに行きたいだけらしい。その気持ちはよく分かる。寒い日は暑い場所に、暑い日は寒い場所に行きたがるというのが人間の性というものだ。
「で、なんだって急に海外の話?」
「いや、なんとなく。私、東京の周りくらいにしか行ったことがなくて」
「へえー」
「俊くんは?」
「会社にいた頃は営業でいろいろ行ってたよ。東北六県はコンプしたね」
「羨ましいなあ。美味しいものとか、食べた?」
「いやあ、車の中でコンビニ飯食うのが定番だった」
「そっか……」
まるで心の底から残念がるような声。二十歳にして社会からドロップアウトしかけた俺のことを哀れんでいるのだろうか。もちろん、もう少しあの会社で頑張っていればなと思うこともある。だけど俺には無理だったんだ。
「やっぱり苦労してるねえ」
「お互い様だよ」
「あは、そうかも。まず俊くんは働かないとね」
「うげー、分かってるよ」
労働かあ。東京の仕事ってどんなのかな。想像も出来ねえや。少なくとも、俺のことを店からたたき出したあの黒服のようにはなれないな。
「でも、きっと俊くんにはいいことあるよ」
「なんで?」
「なんでも何も――」
夏織さんは小走りで前の方に行った。そしてこちらを振り向き、一言。
「私という『あげまん』に拾われたわけだからね!」
「それ、死語だよ」
「えー、そうかなあ」
「そうだって」
むーと頬を膨らませる夏織さん。最初に会ったときは仏頂面だと思っていたけど、意外にも表情は豊かだな。そして何より可愛い。……本当に「あげまん」なのかもしれないな。
なんて思いつつ、雪の降る新宿を歩いていく。ああ、寒い。だけど心の中はそこまで寒くない。懐は寒いのに、なんでだろうな――