晩夏
夏が過ぎた。
部屋にあった夏希の持ち物は数を減らしていき、家具の陰に身を潜めていた壁が姿を見せた。
新たな人生を歩むための準備は、もう時期終わりそうだ。
「ちょうど終わりそう」
腕まくりをした夏希が、時計を眺めてクローゼットの前で呟く。
秋に差し掛かって涼しくなっているものの、クローゼットの中を整理しているせいか暑そうにしていた。
部屋の至る所にあった段ボールは、昨日男性が車を使って運んでいった。
生活必需品以外もたくさん入っていたらしく、中身を見た男性は笑いながら「これ、いるの?」と口にした。
二人で断捨離をして、再びダンボールにガムテープが貼られた。
出来上がったゴミ袋の中には、心当たりのあるガラクタからミケが好きだった玩具まで様々なものが入っていた。
今朝がちょうどゴミの日だったため、今では部屋の中にゴミ袋は一つも残っていない。
予め掃除しておいたのが良かったのか、幸いゴミ袋の量はそこまで多くなかった。
「今日でここともお別れかぁー」
夏希が壁に手を当てて、部屋全体を見渡しながら言う。
彼女の目の前には、午後に運ばれる小さな棚と扇風機が置いてあった。
『……色々あったね』
横に立ち、同じように部屋の中を見渡しながら呟く。
「楽しいことで始まって、あの人がいなくなって辛くなって。思い返してみると、ここの部屋は私たち二人のものだったんだなって感じるなぁ」
『ずっと一緒に過ごしたからね』
タンスにできた擦り傷も、テーブルに出来たミケの引っかき痕も全て、僕と夏希がこの部屋で時間を共にした証拠だ。
二人のどちらかが過去にいなかったら、形を変えてしまっていたものがいくつもある。
「……冬実」
『何?』
夏希の正面に立って聞き返しても、視線が合うことはない。
それでも、彼女の言葉は間違いなく僕へと向けられている。
「一緒に過ごした時間よりも、一人でいる時間の方が多くなっちゃったよ」
『それはそうだよ。僕が死んでから、もう十年以上経ってるんだから』
「アルバムを見るとね、こんなこともあったなーって思い出すの。二人で行った場所なのに変な感じ」
『僕も久しぶりにアルバム見たときはそうだった』
「思い出すと、この部屋を出て行くのが寂しいなって感じる。一人になった後でも、ここにいれば冬実と一緒にいられている気分になれるから」
『死んだ後もずっと近くに居たんだけどね』
戯けたように笑って言っても、夏希は笑顔になることはなかった。
神妙な面持ちのまま、動くこともせずに部屋を見渡している。
「あの人を選んだ今でも、まだ少しだけあなたに未練があるのかもね」
『なんか、素直に喜び辛いよ』
こうしてはっきりと僕への想いを口にできるようになったのは、彼女が成長した証拠であって、僕の死を受け入れたからに違いなかった。
愛おしむ姿の裏側には、僕を自身の人生と切り離すことに成功したという事実が存在している。
僕を想う夏希が選んだのは、僕とは他人の男性だ。
十年以上も続いていた呪いは、夏希を愛するその男性の気持ちによって解かれていた。
「……幸せになるからね」
『僕の分までなってよ』
「冬実の分まで絶対に幸せになってみせるからね」
『……ありがとう』
偶然にも、僕と夏希の言葉が噛み合い会話にも似た内容になった。
意思疎通が取れたわけでも、自分の存在を認識されたわけでもなかったが、自然と口元が緩んでいく。
「……独り言なんて言ってないで、早く片付けないと」
夏希が髪を振り払い、左手をうちわの代わりにして顔を仰ぐ。
再びクローゼットの中に右足を入れて、中に入っている物の整理を始めた。
「……あれ? なんだろう、これ」
夏希が呟きながら、クローゼットの奥へと手を伸ばす。
『あ…………』
クローゼットから顔を出した彼女を見て、僕は思わず息を飲んだ。
浮遊感が全身を襲って、体温を上げていく。
どんな願いも聞いてくれなかった神様だが、最後くらいは奇跡を起こしてくれたようだ。
『……やっとだ』
夏希の右手には、僕が残した彼女へのプレゼントが握られていた。
サプライズで彼女に送るため、クローゼットの奥深くに隠していたものである。
『やっと……渡せる…………』
何も言わずに購入したそれは、夏希の手に渡ることをずっと待っていたかのように状態を保ったままクローゼットの中で身を潜めていた。
痛んですらいないその箱は、僕が生きていた頃からタイムスリップしてきたみたいだ。
「こんな箱……見たことないけど…………」
手にした黒い箱は、夏希の手のひらに乗るほどの小さな四角い箱だった。
十三年ほど前のものなので埃を被っている。
夏希は指先で角を摘んで、慎重に箱を開いていった。
「……そっか」
小さく微笑みながら肘を折って、上がった右手を大きく開く。
棚の上に箱を置いて、傷が癒えたばかりの薬指に輪を通す。
「もう、入らないみたい」
夏希は途中で止まった指輪を外して、黒い箱の中にそっとしまった。