吐露
僕を置いて、夏も秋も冬も通り過ぎていった。
窓から見える桜の木は緑一色になっており、冬へと向けて裸になる準備をしている。
二日前に梅雨が明けたのだと、女性のニュースキャスターが言った。
鬱陶しく屋根を叩いていた雨が嘘であったかのように、昨日から快晴が続いている。
葉の先に溜まった水滴や道端にできた水たまりが光を反射して、散らばった硬貨のように輝いている。
いつも以上に、部屋の中は整理されていた。
昨日、夏希は外から帰ってくるなり、手にゴム手袋をはめて部屋中の掃除を始めた。
写真立ての下やテレビの裏側、部屋の窓など、一切の漏れがないようにきっちりと綺麗にしていった。
きっと、誰かが訪問にくるのだろう。
一時間前、家を出る前の夏希のメイクは普段にも増して力の入ったものだった。
窓から陽の光が差し込んでも、僕の影が映し出されることはない。
地面に落ちたフロアスタンドの影は、僕と重なり合うこともなくはっきりとその形を保っていた。
十二年前までここに住んでいたなんて、想像もつかない。
高級ホテルの一室を借りたような感覚に陥ってしまう。
『……これ』
姿を変えた部屋の隅々を観察しながらキッチンへと足を運ぶと、コーヒーの袋が目に入った。
粉末状のもので、お湯を注ぐと液体になるものだ。
生前、僕が好んで飲んでいたものだった。
自分で挽いたコーヒーも美味しかったが、長い間飲み慣れていたこともあってかこのパッケージのものでないと落ち着かない部分があった。
『……懐かしいな』
それほどコーヒーを飲まなかった夏希は、僕が死んでからというもの家ではコーヒーを淹れなくなっていた。
もしかすると、友人と外で飲んでいるのかもしれない。
きっと、今コーヒーを淹れてもただの液体としか思えないのだろう。
暖かいも冷たいもなく、匂いを楽しむことすらもできないのだから。
『そもそも、何かを口に含むことができないけど』
食べることも触れることも、対話することもできない。
かろうじて目を閉じることがはできても、完全に眠りに就くことはできない。
音が聞こえるのは、口の動きを見ているからなのかもしれない。
霊体になると、常識では説明できない不思議なことがたくさんあった。
人を脅かすことが出来る幽霊は、どんなに幸せだろうか。
霊感の強い人間ですらも視認できない霊になった僕にとっては、避けられたとしても誰かに認知される幽霊は羨ましいと思えた。
もしそうだったのならば、女性の前に姿を表すことができたかもしれないというのに、避けられることすらもできない存在になってしまった。
くだらないことを考えて、無限に続く時間を過ごすしかない。
未練を果たせない以上、闇に溶ける真っ黒な野良猫のごとく、この世を彷徨い続けるほかない。
『あ、帰ってきた』
コーヒーの袋を横目にキッチンを出ると同時に、鍵穴に鍵が差し込まれる音が部屋に響いた、
鈍い音を二度鳴らした後、鍵が抜かれて扉が開かれる。
その先から、昨日髪の毛を切ってサッパリした夏希が姿を現した。
「……どうぞ」
「お、お邪魔します」
言葉とともに、夏希の背後から一人の男性が顔を見せる。
低い姿勢で小さく会釈をし、部屋の雰囲気を感じつつ周囲を見渡していた。
「そこに座ってゆっくりしてて」
夏希がリビングのテーブルを指差して、そう口にする。
男性は畏まった表情で「わかった」と言葉を発すると、すり足でリビングへと向かっていった。
『おかえり』
僕の言葉は届かない。
女性は新しく買ったカバンを壁に立て掛けると、袖をまくって流しで手を洗った。
「春人もコーヒーでいい?」
「うん」
夏希が口にしたその名前を、僕は何度か聞いたことがあった。
彼女が電話をしていた相手であり、部屋に飾られた写真に映っていた人物でもある。
彼は、僕が想像していた通りの紳士的な男性だった。
「ちょっと待っててね」
夏希が鼻歌を歌いながら、食器棚からマグカップを二つ取り出す。
コトンと調理台の上に置き、電気ケトルに水を汲んでお湯を沸かした。
「……いい部屋だね」
「でしょ」
夏希は得意げな表情で腰に手を当て、男性の視線を追うように部屋の至る所に視線を向ける。
「ずっとここに住んでるんだよね?」
「もう十年以上はね」
電気ケトルが音を立てて、お湯を沸かしている。
「夏希の部屋、想像してたのとちょっと違った」
「なにそれ、どんな部屋想像してたの?」
夏希が口元を押さえて、顔を綻ばせる。
幸せそうな彼女の笑顔を見たのは、久しぶりだ。
「いや。来ちゃダメって言ってたからさ、もっとヤバいものがあるのかと思った」
「あるわけないじゃん」
マグカップの中に粉を入れ、電気ケトルを手に取ってお湯を注ぐ。
湯に色がつき、マグカップから湯気が伸びる。
「本当にいい部屋だよ」
「でしょ?」
「うん。夏希が大切にしてるのがわかる」
「そうかな」
夏希は可笑しそうに笑って、コーヒーの入ったマグカップを二つテーブルの上に置いた。
寄り添った二つのカップから伸びる湯気が、高い位置に登って消えていく。
「あ、このコーヒー。俺も好きなんだよね」
「なんでわかるの?」
「匂いでわかるよ」
「本当に?」
夏希が訝しげに男性を覗き込み、ニヤリと笑う。
「本当だって。そんなことで見栄張っても意味ないでしょ」
「……そっか。なら、久々に買ってよかった」
「普段は紅茶しか飲まないもんね」
「そうなんだけど、昨日ふと飲みたくなったの。昔少しだけ飲んでた時期があったから、その時のこと思い出したのかもしれない」
二人は向き合って腰を下ろすと、息を吹きかけながらマグカップに口をつけた。
「……うん。やっぱり美味しい」
男性が口の中に広がる苦味を吟味しながら、目を閉じて匂いを嗅いでいる。
彼のコーヒーの好みは、僕と似通った部分があるのかもしれない。
「……春人もそうやって飲むんだね」
手のひらをテーブルの上に置いたまま重ね合わせて、少し乗り出すようにして夏希が言った。
「俺もって?」
「同じように飲む人がいたなって、つい思い出しちゃった」
「みんな同じように飲むと思うけどね」
「そうなんだね」
夏希が髪の毛を触りながらぎこちなく笑った後、服についた埃を払って膝の上に手を置いた。
「…………あ、あれ」
男性がタンスの上を指差す。
有名なテーマパークのキャラクターのぬいぐるみが腰をかけて座り二人を見下していた。
「春人も好きなの?」
「いや、特別好きってわけじゃないんだけど、同じやつ持ってるなって思って」
「うそ? 本当に?」
「うん。十周年記念のやつ、俺も持ってる」
「……へー」
会話の内容が切り替わるたびに、小さな間ができる。
すっと静まり返った雰囲気に取り巻かれる二人は、乱れた視線を時々ぶつけ合いながら話題を探していた。
視界に入った景色や思いついた言葉を口にして、短い話題をいくつも重ねていく。
ぎこちない会話のやり取りは、仲が深まってから三年が経っている間柄だとは思えない。
心ここに在らずといった様子で、関係のない僕ですらも居心地がいいとは思えない空間になっていた。
そんな中、沈黙と違和感を破ったのは男性の方だった。
男性は意味ありげに喉を鳴らすと、胸に手を当てたまま小さく息を吸って背筋を伸ばした。
「……でさ」
男性は呟くと、マグカップをテーブルの上にそっと置いて、一度足を崩して正座を組んだ。
男性に切り出される準備をしていたのか、夏希も此処ぞとばかりの表情で膝の上に手を乗せる。
「……一昨日のことなんだけど」
男性が顔つきを変えて、真剣な眼差しを女性に向ける。
「うん」
夏希は静かな声でそう言うと、立ち上がってクローゼットの方へと向かっていった。
男性は、その後ろ姿を落ち着いた様子でじっと眺めている。
「どうしても、春人に見てもらいたいものがあるの」
女性がクローゼットの取っ手を掴んで開き、その中からすっかり色の落ちたアルバムを取り出した。
その分厚さは、書店で売られているハードカバーの本と比較しても引けを取らないほどのものだ。
「……それは?」
「思い出。後、私にかかった呪いでもあるのかな」
まるでガラス製品を扱うかのように、女性はテーブルの上にそっとアルバムを置いた。
その表紙には、手書き文字で『春夏秋冬』と書かれていた。
夏希が表紙に手をかけて、なにも言わずにページを捲った。
一ページ目には、僕の誕生日を祝う彼女の姿が映っている。
「若いね」
「もう十年以上前の写真だからね」
「そんなに前なんだ」
「私も信じられない。昨日のことみたいだもん」
夏希はアルバムの端を指先で掴んだまま、写真の中で笑う二人を見ていた。
カットケーキの上に不自然に乗っているプレートのチョコは、夏希が店員さんに言って乗せてもらったものだ。
『…………懐かしい』
懐かしい思い出を眺めるため、夏希の隣にそっと座る。
近寄って夏希を見ると、指先が微かに震えているのがわかった。
二人が目を落とすアルバムは、僕が十年間思い続けていたものの一つだ。
クローゼットの中に閉じ込められていた、僕と夏希のかけがえのない思い出の景色の数々である。
夏希は男性の反応を待つこともなく、淡々とページをめくり進めていった。
誰かに見せているというよりかは、一人で懐かしい思い出に浸っているといった様子である。
どのページにも、僕の姿があった。自分でも覚えていないような写真から、当時の記憶が鮮明に残っている写真まで様々だった。
「この人は?」
男性が写真に映る僕を指差して、首を傾ける。
問い詰めるという様子はなく、単純に疑問を投げかけているようだった。
夏希は口を閉じたまま、視線を彷徨わせていた。
口を半分開いては、また言葉を探すために閉じてを何度も繰り返している。
「……えっとね」
悩む姿を見ても、男性はなに一つ言葉を挟まなかった。
急かそうともせずに、言葉を整理する夏希をじっと見守っている。
『そんなに悩まなくてもいいんだよ』
「昔付き合ってた人」とでも言えばいい。
僕らが付き合っていたのは十年以上も前の話だから、今になって過去の柵にとらわれる必要はない。
「彼氏……って言うのは、ちょっと違う感じがする……」
夏希は左の手のひらを額に当てて、頰杖をついたまま視線を下げて答えを探している。
『適当に言えばいいんだって。僕と君は十年以上も前に付き合ってた、ただのカップルだよ』
膝立ちになって、丸くなった夏希の背中に手を当てる。
触れる瞬間、一度だけ躊躇ってしまったが、半透明の自分の腕を見て現実に引き戻された。
『結婚も……プロポーズさえもしてないんだから、ただ付き合ってただけなんだよ』
答えを探している姿を見ているのが辛くて仕方がない。
その答えが出し辛いことも、その事実が彼女を苦しめていることも僕は知っている。
「たしかに……私たちは付き合ってて……支え合っていたはずで…………」
途切れ途切れの夏希の声は、今にも消えてしまいそうなほど掠れていた。
「…………彼氏だったんだけど、でも…………」
『ただの彼氏だって。それ以上のこと、僕はなにもできてないんだから』
今こそ、奇跡が起きて声が届いて欲しかった。
「……考えたことなかった。そんなこと聞かれる日が来るなんて思いもしなかったから」
『それは……』
聞こえてもいない声を止めて、赤くなった夏希の耳に目を向ける。
僕だって、そんなことは一度も考えたことがない。
ずっとずっと、当たり前の幸せが続くと信じて疑わなかった。
「……大好きだった人で…………でもそれ以上に一緒にいて欲しかった人で……」
力なく開いた口元に涙が滴る。
彼女自身もすぐさまその存在に気がついたのか、右手で涙を払い、グッと口元に力を込めて目を強く閉じた。
「……ごめんね、なんかよくわからなくなっちゃって」
夏希が勢いよく顔を上げて、男性と視線を合わせる。
乱れた髪の毛の間から見える彼女の顔は、涙と汗のせいでメイクが落ち始めていた。
「いいよ、全然」
「……もうちょっとだけ待ってて」
男性は応じるように首を上下させると、マグカップを手に取ってコーヒーを口の中に含んだ。
「……冬実」
囁くように、女性が僕の名前を呟く。
「……冬実…………冬実」
僕が生きていたと言う事実を噛み締めるかのように、何度も何度も繰り返している。
一回ごとに声のトーンが微妙に変化して、ゲシュタルト崩壊を起こしたみたいになっていた。
名前を呼ばれるたびに、十数年前の夏希との思い出が蘇った。
記念に行った旅行の景色や年明けに聞いた除夜の鐘、クイズ番組を見ていて一致した答え。
色褪せて、灰みたいになった思い出に色が付いていく。
寝たら忘れてしまいそうなありふれた景色が、十数年の時を経て記憶の底から目を覚ましていく。
『……夏希』
宇宙のように広がっていく膨大な思い出は、本心を隠したまま受け止めることができるほど空虚なものではなかった。
積み重なっていく記憶が、蓋をしていた気持ちに手を伸ばした。
その小さな手の柔らかさは、死ぬ前の大切な感触と似通っているようにも思える。
蓋の先にあった夏希に対する気持ちは、何年経っても色褪せてはいない。
「………………冬実」
最後は、普段僕を呼ぶときと同じような声のトーンだ。
『どうしたの?』
夏希の肩に腕を回して、口を閉じた彼女の呼びかけに応じる。
もちろん僕に視線を向けることはなく、夏希は静寂に身を委ねるように目を閉じていた。
時計の針が時間を刻んで、一分が過ぎる。
「……あ」
ゆっくりと目を開き、夏希がぽつりと口にする。
まるで真っ暗闇の中を迷い続けて、遂に微かな明かりと対面したみたいだった。
「…………わかった」
小声で言うと、くしゃくしゃになった顔を上げて再び男性と目を合わせた。
目頭に溜まった涙など気にもかけずに、目を細めている。
「私に、寄り添ってくれた人だ」
女性の言葉を聞いて、喉の奥がカッと熱くなっていた。
十年以上ずっと探していた夏希の笑顔を、やっと見つけることができたみたいだ。
「そっか」
男性は頷くと、視線を下げてアルバムに映る僕の姿を眺めていた。
「……優しそうな人だね」
アルバムの端に手をかけた男性は、目元を微かに和らげてとても柔らかな声で呟いた。
「そうなの。とてもいい人だったの」
夏希が涙を払い、表情を変えてアルバムに指を差す。
彼女は僕との思い出を、一つ一つ丁寧に説明していった。
ページを捲るたびに、僕と夏希の思い出は終盤へと向かっていく。
こうして見てみると、僕も夏希も付き合ってきたわずかな期間のうちに、相当変わっていたことがわかる。
当時は気付くことができなかったが、何度かメイクも変えていたみたいだ。
自分が経験したことなのに、他人事のようだった。
頭の中に記憶が存在しているものの、写真の中で幸せそうに笑う男性が自分だということが信じられない。
それでも、どこか懐かしさを覚える部分もあった。
写真一枚から、音や景色が鮮明にイメージされていき、それが僕と夏希の思い出の証として形になっていく。
「……これで、おしまい」
夏希がアルバムを閉じて、男性と視線を合わせる。
男性も、彼女が本題に触れようとする気配を感じたのか、座り直して背筋を伸ばした。
「私ね、嬉しかったんだ。春人が『それでも、一緒にいたい』って言ってくれて」
「……なんか、恥ずかしいね」
男性が夏希から目を背けて、頬に指を当てて言う。
「十年くらい、私は後悔とか喪失感とかに苛まれてたの。ある日を境に、時間が経つことに恐怖を感じるようになった」
男性へと向けられた夏希の言葉は、きっと僕にとっても他人事ではないのだろう。
「誰かを大切だと思うことが怖くなって、距離を置いて一人で生きることが楽だとしか思えなくなった。仲を深めることが、将来の別れをより辛くするものだって気づいてたから」
「会ってすぐの頃は、毎日辛そうな顔してたもんね」
いつの日からか、夏希の顔色は良くなっていった。
自然と笑うことも増え、僕の名前を呟くことも少なくなった。
きっと、男性との仲が深まったのも同じくらいの時期なのだろう。
「人って不思議で、嫌なことほど忘れることができないものなんだよね。辛いことがあった後だと、忘れちゃいけないかけがえのない思い出も忘れちゃうみたいなの」
夏希がアルバムに視線を向ける。
「こうやって振り返ってみれば、辛いことを経験してもお釣りがくるくらい幸せを貰ってるのに。本当に大切なことすらも思い出せなくなって、最後には記憶を空っ
ぽにしたいって考えちゃう」
『僕だって、何度も思ったよ』
暗い部屋で一人になった時も夏希が酒を飲んで泣いていた時も、何度も成仏したいと思った。
「……今になってみれば、無責任だし身勝手だなって思う。亡くなったあの人がくれた大切な思い出に布を被せて、真っ暗になった世界で自己嫌悪に陥って」
夏希がアルバムの上にそっと手を置き、小さく微笑む。
「……こんなにもたくさんの思い出を作ってくれたのに」
きっと、その言葉は僕へと向けられたものなのだろう。
死んで初めて、夏希が僕に微笑んでくれた気がした。
「だから、彼との思い出を悪いものにしないためにも、私は前に進むことに決めた。きっと、天国にいるあの人もそんな私は見たくないと思うから」
「……そっか」
「うん。だから……」
夏希が手のひらを床につき、足を滑らせて後ろへと下がる。
ちょうど人一人分が入れるほどの空間が、夏希とテーブルの間に出来上がった。
「どうか、よろしくお願いします」
夏希は両手の指先を床につけると、ゆっくりと頭を下げてそう呟いた。