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孤独

ジメジメとした部屋の中で、僕は一人立ち尽くしていた。

光ひとつない暗がりの奥で、冷蔵庫が音を立ててその存在を示している。

 

部屋に飾られている写真立ての中に、僕の姿はない。

本棚に置かれている本は、知らない作者のものばかりだ。

 

シンクの中には二人分の弁当箱が水につけた状態で置いてあり、カレンダーには僕とは関係のない日付に二重丸がつけられている。

机の上の花瓶に刺されたピンク色の花の名前は、何と言うのだろう。


『……今頃、何してるんだろう』

 

部屋の至る場所に視線を写しながら、ポツリと呟く。

音にならない言葉だと言うのに、部屋中に声が響いているように思えた。

 

物が減ったせいで、部屋が広くなったように思える。


ぽっかりと空いた窓際は、髪の毛の一本も落ちていないくらい綺麗になっていた。


『変わったね』

 

棚の上に飾られた写真を見て、自然と言葉が出る。

 

僕が死んだ時に比べて、女性もだいぶ歳を取った。

笑った表情にはシワが増えているし、着る服の好みも自然と年相応のものになっていた。

僕とのデートで着ていたお気に入りのワンピースは、きっとケースに入れてクローゼットの奥に保管してあるのだろう。


『楽しんでいるといいな』

 

観光地ではしゃぐ女性の姿を想像する。


彼女の隣でピースするのは、写真で見た背が高く誠実そうな男性だ。

 

女性が好きになった相手だから、きっといい人だろう。

 

僕には関係ないけれど、相手は真面目で女性を本気で愛してくれる人がいい。


『……僕じゃなくても、君が幸せになれればいい』

 

本心だった。


僕は女性が笑っている顔が一番好きだったし、泣いている姿を前にして何度も目を背けたくなった。

 

だから、現状は僕の望み通りにいっている。

 

ただ、その相手が自分ではなくなってしまっただけだ。


『本当に、僕の知らないものが増えた』

 

両手を後ろに回して、低い位置で重ね合わせて歩いていく。

棚の上に飾ってある小さな壷や真っ黒な招き猫など、どこで買ったのか検討も置物が部屋中に飾られていた。


『その幸せが一生崩れないで欲しい』

 

キッチンに入って足を止めた僕は、シンクの隣に置かれた小棚の上にある写真立てをじっと眺めていた。


『……楽しそうだ』

 

そこにも、僕が会ったことのない男性の姿は映されている。

二人で手を組んで、幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 

そんな女性の姿を見て、僕の喉が熱くなっていった。


脳で処理できる感覚は、事実と反していなくてもそれと似た感覚を発生させることができるらしい。

 

生きていようと死んでいようと、悲しくなると喉がクッと閉まるのは変わらない。


『……やっぱり、君は笑ってる方がいいよ』

 

十年前の女性に戻ってもらいたくはない。


前を向いた彼女が再び俯いている姿を見て、耐え難い気持ちに陥るのだけは嫌だった。

 

幸せは弾けやすく、その分生きる意味を感じさせてくれる。


幸せが傍らにあるだけで人間はとてつもない活力を生み出すのだと知ったのは、女性が立ち直ってからのことだ。

 

女性を見守ってきて、気がついたことがあった。


命は続かず、ふとしたところで消えてしまうこと。

 

人は一人では生きられず、一人になることもできないこと。

 

永遠に続く愛などは存在せず、だからこそ愛し合い続けることができるのだということ。


『どうして、今になってわかったんだろう』

 

もっと早く気づいていればよかったのだ。

 

言葉が伝わるうちに、もっと気持ちを伝えておけばよかったのだ。

 

僕には未練があって、だからこそこの場所に縛られている。

十一年ほど気がつくのが早ければ、僕は何にもならずに成仏していたはずだ。

 

展示物を眺めるように、部屋中に視線を巡らせながら歩を進めていく。

 

リビングの出入り口の前に立つと、茶色のクローゼットが目に入った。


冬物の服や二人で遊んだゲームなどがその中には収納されている。

 

クローゼットの扉に手を伸ばしても、僕の手は取っ手を掴むことができない。


そうだとわかっていても、クローゼットの前に立つたびに開きたくなってしまう。


『一度くらい、触れられてもいいはずだ』

 

誰にも見られていないのだから、奇跡が起こったとしても不思議ではない。


『全てを失ったんだから、せめてこれくらい』

 

十年以上、密かに思い続けている。

 

大切な人を失ったのだから、少しくらい大目に見てくれてもいいじゃないかと。


『……どうして掴めないんだよ』

 

何度繰り返しても、扉が開くことはない。

 

不条理で理不尽な事象を前にした僕は、為す術を失ってただ文句を言うことしかできなくなっていた。

 

何度繰り返しても風が立つことすらもない。

 

まるで、クローゼットが思い出を忘れさせるため、僕の侵入を拒んでいるようだった。


『……どうしてだよ』

 

止まったはずの心臓が、激しく動いているように感じられた。

動悸に襲われて、目眩と吐き気が身体中を襲う。

 

僕の思い出や気持ちがこの中に閉じ込められたまま、何処かに行ってしまうような気がしてならなかった。

造り上げた数年間の思い出が、僕を置いて女性とともに消えてしまうように思えた。

 

せめて、一度くらいは僕にも幸せを分けてくれてもいいじゃないか。

 

心の中で願っても、クローゼットは開かなかった。

 

触れられない、消えていく、忘れられていく。

 

そんな僕に、存在している意味があるのだろうか。

実体として存在できない中途半端で醜い存在を、この世で彷徨わせている意味はどこにあるのだろうか。


『…………成仏させてくれよ』

 

クローゼットの扉を開けなければ意味がない。

 

握ることができない手なんて、存在している意味がない。


『…………夏希(なつき)

 

名前を呟くと、生きていた頃の数々の思い出が脳裏に浮かび上がった。


霊体になって触れられないと知ったあの日から、二度と口にしないと決めていた女性の名前を言葉にしてしまった。

 

僕の気持ちの容量も気にかけずに、様々な記憶が目紛しく脳を支配していく。

喜怒哀楽を示す女性の表情や寄り添うような声質、握った手の暖かさまでもが鮮明に思い出されていく。


『………………夏希』

 

喉の奥に詰まった思いを吐き出すように、何度も、何度も、その名前を言葉にする。


その度に、時間をかけて築き上げた夏希と僕との間の壁にヒビが入っていく。

 

感情を殺して作り上げた建前が、音を立てて崩れ落ちていく。


『……夏希……夏希…………っ!』

 

本当は、僕が幸せにしたかった。

 

ずっとずっと、この部屋で笑っていて欲しかった。

 

女性の思い出には、必ず僕の姿が映っていて欲しかった。

 

大きかったり小さかったりする願望が、止まる事なく湧き出していくばかりだ。


愛した人間が幸せになることが僕にとっても幸せだなんて、口が裂けても言えなくなっていた。

 

踏み荒らされた花壇のように、僕の心はグシャグシャになってしまっている。


全部嘘だった。

 

綺麗事を言えばいつかは救われると思って、感情の一つも入れずに口にしていただけだ。

 

傍観者へと回ることで、夏希と自分の接点を少しでも維持しようとしていただけだ。

 

大切な人との接点が完全に切れるのが怖くて、あたかも自分からその立場へと回ったようにしていただけだった。


『……結局僕は』

 

喉の奥に力を込めて、無意識のうちにこみ上げる言葉をどうにか塞き止めようとする。


『…………僕は』

 

しかし、意に反して、言葉が喉の奥から引っ張り出されていった。

 

締め付けていた気持ちは、彼女の名前一つで意識を取り戻してしまったみたいだ。


『……死んでも、夏希のことが一番大切なんだ』

 

一人になった部屋の中で、僕は触れることのできないクローゼットに手を伸ばしながら、音にならない言葉を叫んでいた。

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