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忘却

何度も移り変わる季節の中で、様々な変化が訪れた。

 

僕が死んでから二度目のオリンピックが開かれ、経済や文化に大きな影響を与えた。

 

二人で見ていたドラマが三期を迎えて、予想もしなかったハッピーエンドを迎えた。

 

好きだったインディーズバンドがアルバムを発売して、その名を世間に知らしめた。

 

たったの数年で、世間は目紛しく姿を変えていった。

当時はその変化を感じることができなかったが、こうして振り返ってみると文化の発展や変化が手に取るようにわかる。

 

過ぎゆく時間は、生きる人々とその周囲の環境に膨大な影響を与えたのだ。

過去に置かれた記憶はいずれ薄れていき、新たな思い出によって上書きされていく。

 

それは心を持った誰しもが持つ権利のようなものであって、例に漏れる人間など存在していないようだった。


『……今日も遅いな』

 

薄暗い部屋の中で、僕は膝を抱え込んで座っていた。

少し開いた窓の隙間から、音を立てて風が忍び込んでくる。

 

もう時期、時計の針が二十三時を示す。

約十五時間、僕は女性の姿を見ていなかった。


年老いたミケは、窓際で体を丸くして目を閉じている。

部屋の角にピッタリとくっついて、そこは自分の特等席だと言わんばかりの様子でどっしりとかまえている。


一年ほど前から、ミケがじっとしていることが多くなった。

 

先月、十回目誕生日を迎えたので、人間に例えると五十代半ばくらいだろうか。

活発に歩き回っていた若い頃の面影は、もうほとんど見ることができなくなっていた。

 

立ち上がり、ミケの元へと向かって行く。


霊体であるがゆえに、歩いているというよりかは滑っているような感覚だった。


『今日も遅いねー』

 

撫でながら話しかけても、ミケが起き上がることはない。

鬱陶しそうな表情で、態勢を変えずにこちらを見ている。


『……もう慣れちゃったのか?』

 

女性の帰宅が遅くなったのは、二ヶ月ほど前から始まったことだった。

家の外でお酒を飲むことが増えたのか、家の中には空き缶が一つも転がっていない。

 

週末、遅い時には日が昇ってから帰宅する。


帰ってこなかった日は未だにないが、それでも数年前と比べると相当な変化だった。


「ただいまー」

 

十二時を過ぎた頃、部屋に明かりが灯り、玄関の先から女性が姿を見せた。


頬を染めて歩く彼女の足取りは、フラフラとしている。


「ちょっと飲みすぎちゃったぁー」

 

女性が使い古したカバンを投げ捨て、カーペットの上にゴロンと寝転ぶ。

いい具合に出来上がっているのか、表情筋が少しだけ緩んでいた。


『そのまま寝たら、二日酔いひどくなっちゃうよ』

 

女性に向けて声をかける。

 

女性は反応を示すことないまま、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「……誰かと飲むのも悪くないなぁ」


『楽しいのはいいけど、ほどほどにね』

 

もし僕が生きていたならば、コップに水を入れて彼女へと差し出していただろう。

 

数年前と比較して、女性はお酒に強くなったのかもしれない。


僕が知っている梅酒で酔ってしまう姿は、もうどこにも見受けられなかった。

 

女性は口元を綻ばせながらスマートフォンを操作している。

「まだかなー」と独り言を呟きながら、体を左右に倒して目を細めている。

 

ピコンと音を鳴らす女性のスマートフォンを、僕はじっと眺めていた。


他人のスマートフォンを覗き見る行為が卑猥なことだとわかっていても、目を離すことができなかった。

 

女性の笑顔を見るたびに心が締め付けられる。


僕という存在が消えてしまうのかと怯えながら、その内容に目を通してしまう。


『……よかったね、本当に』

 

聞こえないとわかっていても、気持ちと反対のことを口にしてしまう。


あくまで傍観者でいることで、平静を保とうとしていることなどとっくにわかっていた。


「……こんな時間にごめんね」

 

女性がスマートフォンを耳に当てて、相手の顔色を伺うように小さく呟いた。


「……うん、いつもありがとう」

 

首を上下させながら、女性が次々に言葉を発していく。


少し黙って返答をして、時折柔らかい笑顔を見せる。

静かに始まった二人の会話は、十分も経った頃には笑い声で満ち溢れていた。


「でさ、新人の子が––––」

 

聞いたこともなかった話題を、女性はさらりと口にする。

 

まるでラジオのトークを聞いているみたいだ。

 

スタジオには女性と話し相手がいて、薄暗い部屋の中で僕はその会話を聞いている。


二人とも、ラジオを誰が聞いているのかなど知る由もないのだった。


「……うん、じゃあまたね」

 

かれこれ一時間以上は通話していただろうか。

女性は部屋の時計をチラと見て、スマートフォンを耳から離していった。


「優しい人だな」

 

女性が満足げな表情でスマートフォンを床に置き、小さく呟いた。

 

僕と出会った時の女性も、きっとこんな様子だったのだろう。

 

そんな姿を見ているのが、微笑ましくて心地よくて、寂しかった。


「あ、ミケ」

 

ミケが尻尾を立てて、女性の周囲をウロウロとしていた。


「ご飯あげてなかったね、ごめんね」

 

女性は立ち上がると、お皿にキャットフードを盛ってコトンと床に置いた。

それを見たミケは小さく鳴き声を発した後、ゆっくりと体を動かしてご飯を口に含んでいった。


「……どうしてだろうね」

 

ミケの頭を撫でながら、女性が呟く。


「どっちも大切な人なのに、記憶が薄れていくの」

 

小さく笑って言う女性は、なぜか少しだけ寂しそうだった。


「ずっと怯えてたはずなのに、実際に小さくなってしまうとあんまり実感がわかないんだ」

 

女性は、テレビの前に置いてある埃の被った写真を見ていた。

十年以上も前の僕の姿が、そこには映されている。


「最近気がついたんだけどね、一番は一つしか持てないんだよ。二つ持ってると、片方が大きくなって、もう片方がその分小さくなっていっちゃうから」


『そうだね』

 

女性の言葉がこちらに向いていないとわかっていても、つい頷いてしまう。

話しかけられていたミケは、女性の気持ちも僕の気持ちも知らずに食べることに夢中になっていた。


「良いことなのか悪いことなのか、嬉しいことなのか寂しいことなのか、全然わからないや」

 

『良いことに決まってるよ』とは到底言えなかった。

 

女性にとっては良いことで、僕にとっては寂しいことだ。


女性の幸せを願っているのは建前ではなかったが、望んでいると言えば嘘になる。

結局のところ、女性の中で小さくなっていく僕を見ているのが嫌で怖くて寂しいだけだ。


「……でもね、悲しいけど、一つだけわかることがあるの」

 

立ち上がり、テレビの前へと向かっていく。

ゆっくりと腰を下ろして、テレビの前の写真を手に取った。


「数年前よりは全然寂しいと思わなくなった。一人静かな部屋で横になっても、真っ暗闇に体が溶けていくことが怖くなくなったの」


『それは良かったよ』


「今じゃあの人と話してても罪悪感が湧かなくて。早く家に帰ろうって思わなくなった」

 

表面を伏せるようにして写真を置き、ゆっくりと立ち上がる。

 

ミケは相変わらず、口元を汚してご飯を食べていた。


「……これって、前に進んだってことなんだと思う」


『うん』

 

笑顔を作って、僕は機械的に何度も頷いた。


「太陽が昇るたびに、思い出が薄れていく。その分、誰かを好きになっていくのがわかるの」


『……うん』


「もう声も思い出せないけど、切なさみたいなのはあんまり感じなくて。むしろ明日会社であの人に会えることが楽しみなんだよね」


『…………うん』


ぐっと感情を押し殺してでも、僕は頷くほかなかった。

動きを止めてその言葉の意味を理解してしまえば、立っていることすらもできなくなってしまう。


「辛くなすぎて、とても辛いの」


『ごめんね、僕のせいだ』

 

女性の独り言は、死んだ僕に対しての懺悔か、もしくは、愛を誓った相手に対しての別れの言葉かもしれない。

 

涙ひとつ流さない女性の顔が、言葉の真意を示していた。


「ずっと好きでいられなくてごめんね」


『気にしてないよ』

 

––––辛いけど、君が謝る必要なんてない。


「……大好きだったはずなのに」


『いずれは忘れないといけないことだから』

 

––––––寂しいけど、仕方がないことだから。


「写真で見ないと、笑った顔も思い出せなくなってるの」


『……十年前のことだもん。しょうがないよ』

 

––––––––君がどんなに変わっても、僕はいつだって忘れたことない。


「……人って、変わるんだね」


『ありがとう、変わってくれて』

 

女性と向かい合って、手を伸ばす。

僕の手のひらは女性を捉えなかったが、その代わりに窓の隙間から吹き抜けた風が彼女の頭を撫でた。


『……僕を忘れてくれて、ありがとう』

 

僕の言葉に応じるように、女性が小さなため息をついて腰を上げる。

 

僕は前に進む女性を避けて、その後を目で追っていた。

 

女性は床に指先をついてしゃがみ込むと、ミケへと視線を落として小さく微笑む。


「ミケも随分大きくなったね」

 

そう言って笑う女性の横顔は、とても幸せそうだった。

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