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誤解

僕の誕生日が二度過ぎていった。

 

もちろん、女性は誕生日を祝うことがなかったが、その日の晩御飯は必ず手作りをしていた。


有給を消化するのも決まって同じ日だったが、どこかへ行くこともなく一人ぼーっと休日を過ごしていた。

ミケが嬉しそうに部屋中を歩き回る半面で、女性が表情を曇らせてカレンダーを眺めているのは、見るに耐えないものだった。

 

もう時期、寒い冬が明けて出会いの季節が訪れる。


姿を隠した虫たちが徐々に顔を出して、裸になった木がピンク色の衣装を羽織る。

世間の人々は、気温が上がって服を着た桜の木を横目に、薄着で賑やかな集まりを楽しむようになる。

 

門を出た先には、幸せと経験で溢れているはずだ。


すぐ背後に別れを中心とした悲しみがあったとしても、それはそれだと割り切って新しいものを受け入れるのが普通だ。

 

それが、普通のはずだ。


「……寒い」

 

女性が呟く。


数年前に買った部屋着を身につけて、エアコンのリモコンに手を伸ばしている。


『だね』

 

女性の傍らに腰を下ろして小さく呟く。

もちろん言葉は音にならない。

 

僕たちは、その悲しみを何年も受け入れることができずにいた。


何度春を迎えても、心は変わらず冬のままである。

真冬の中、一人でその場に放り出された人間がどれほど孤独に苛まれるのかは、想像し難いものではない。


『風邪だけは引かないようにね』

 

彼女の背中に毛布を掛けてあげたくなる。


仕事で疲れて小さくなったその背中を、少しでも守ってあげたいと思うのは死んだ後でも不思議なことではないはずだ。


「会社の懇親会、行きたくないなぁ」

 

冬を通りこせば、女性が働いている会社にもたくさんの新人が入ってくる。


コミュニケーションを取るのが得意な人間や、一人でいることを好む人間など様々な人がいるのだろう。


『嫌なら行かなくてもいいんじゃない? 会社で会った時に挨拶しておけばいいよ』

 

昔から、女性はお酒を飲むのが得意ではなかった。

コンビニのお酒を一缶飲むだけで、顔を真っ赤にしてしまう。

一気飲みをさせられでもしたら倒れてしまうかもしれない。


「ミケはどう思う?」

 

ミケを抱き上げて膝に乗せ、前足をそっと掴んで上下させる。


ミケは困惑した表情で女性を見ながら、後ろ足をピンと伸ばしていた。

まるで嫌々太鼓を叩かされているみたいだ。


「……はぁ」

 

女性がため息をついて、手の動きを止める。


嫌がっていたはずのミケも、主人が突然顔色を変えたからか、呆気に取られた顔でキョロキョロとしている。


「あの人がいたら、『行かないでもいいんじゃない?』って言ってくれるのかな」

 

女性の言葉を聞いて、僕は苦笑いすることしかできなかった。


「……二人でお酒飲むときは、楽しかったな」


『僕も楽しかったよ』


「嫌なことがあるといつも付き合ってくれたもんなぁ……」

 

月のように光るダウンライトを見上げて、女性が呟く。

 

年に数回だが、女性は会社で嫌なことがあると二人分のお酒を購入して帰ってきた。


弱いのにも関わらず勢いよく飲んで、変に酔っ払いながら顔を真っ赤にして笑っていた。

 

買ってくるお酒は、きまって梅酒とぶどうサワーだった。

 

帰ってくるなり僕にぶどうサワーを渡して、「今日さー」と何気ない言葉を皮切りに女性は梅酒の蓋を開ける。

 

三年経った今でも、その情景はすぐに思い浮かべることができた。


「一人で飲んでると、理不尽なクレームも部長のセクハラも全部、あなたが忘れさせてくれたんだなーって実感するんだよね。辛い話もくだらない話も、嫌な顔ひとつしないで聞いてくれたもん……」

 

女性が口を閉じると、部屋の中がしんと静まり返った。

肌寒い季節ということもあって、窓の外から騒音が聞こえてくることはない。

 

しばらくして女性が足を動かすと、ミケはひと鳴きして彼女の膝から飛び降りた。

 

女性は膝を抱え込んで顔を埋めると、グッと腕に力を入れた。


真っ白な彼女の肌に、爪の痕がついてしまいそうだ。


「……全然、楽しくない」

 

女性の肩が震えているのがわかった。

 

丸まった背中がどんどん小さくなっていく。


「……一番辛いことは、お酒を飲んでも忘れられない」

 

溢れ出した感情は、女性の声をも枯らしていった。


「……あなたがいないと……嫌なこと全然忘れられない」

 

女性が言った後、カランッと音が鳴った。

 

ミケが前足で空き缶を蹴飛ばした音だ。

 

蹴飛ばされたその空き缶は、二日前に仕事帰りの女性が買ってきたぶどうサワーの缶だった。


「……忘れていくのは、あなたの手の大きさとか匂いとか、声とかばっかりで。大切なものばっかりなくなってくの」

 

女性は顔を伏せたまま横に倒れて、強い力で自分の前髪を引っ張っていた。


スルスルと髪から手を解くと、指と指の間には何本もの毛が絡まっていた。


「……写真じゃわからない大切なことを忘れるのが怖い…………生きていたあなたを忘れてしまうと思うと、寂しくて辛くて仕方がないの」

 

女性の顔は、抜けた髪の毛と崩れた化粧でグシャグシャになっていた。頬には、抜け落ちた髪の毛が張り付いている。


『僕だって寂しいよ。それに辛い』


悲しそうな女性を見るたびに、一刻も早く未練を晴らして成仏したくなった。

 

女性がどんな状況になって追い込まれても、声すらかけることが出来ない。


出来ることと言えば、僕という足枷をつけた彼女の苦しむ姿を、ただじっと眺めていることだけだ。

 

だからこそ、なぜ自分がこの状態でこの部屋に縛られているのかが気になっていた。


彼女が悲しむくらいならば、いっそ僕のことを忘れて誰かと幸せになって欲しかった。

僕も彼女も、お互いの存在を思い出の一つだと流せればどれほど楽になれるだろうか。


『幸せにするのは僕だと思ってた』


女性に伝わらない思いを打ち明ける。

 

彼女を幸せにするのも、そうするための準備もとっくに出来ていた。


もし僕が死んでいなければ、きっと幸せな家庭を築けていたはずだ。

 

だというのに、今の彼女の中の僕は、負の感情が発生する原因にしかなっていない。


僕という記憶が邪魔をして、彼女は前へと進めないでいる。


『どうしたらいいんだろうね、僕たち』

 

女性の横に腰を下ろし、グシャグシャになった頭を撫でる。


感触が一切伝わっていない彼女は、ただ涙を流しているだけだった。


「……また、あの大きな手で撫でて欲しい」

 

僕の手をスルリと抜けて、女性の腕が天上へと伸びていく。


僕は彼女に合わせるように、腰を上げてゆっくりと手を近づけていった。

 

まるで手を握っているみたいに、二人の手が重なり合っている。

体温すら伝わることはなかったが、少しだけ彼女に近づくことができたような気になれる。

 

ただの気休めでしかない動きにも、きっと何かの意味があると信じて何度も行なっていた。


『……結局、君が好きなんだ』

 

何度も消えたいと思っても、ふとしたところで女性に寄り添ってしまう。


同じ行動をして、接点を作りたいと思ってしまう。

 

認知されなくなっても、僕は目の前にいる君が大好きだった。

 

自分でも、気持ちが矛盾していることくらいはわかる。

苦しそうな彼女の前から消えたいと考える半面で、その女性を愛し続けたいとも思ってしまう。

 

考えることと受け取る感情は、いつだって対角線状にいた。

女性の姿ははっきりと見えるのに、たどり着くまでの距離は果てしなく長い。


『好きで好きでしょうがないんだ』

 

目頭が熱くなるように思えたが、僕の目から涙は流れなかった。


そっと頬の下に手を当てようとしても、手と自分の肌が触れ合うことはない。

僕は、自分自身にすらも触れることができなくなっていた。


「今でも、あなたが大好きでしょうがない」


『……そんなに言わなくたって、ちゃんと伝わってるよ』

 

目を背けて膝を伸ばし、女性との距離を取る。

 

僕を愛する女性の姿を見ていることはできなかった。


「…………ミケ」

 

しゃがれた声で言葉をこぼす女性を見て、心を慰撫するようにミケが鳴き声を発する。

 

寂しさと切なさが混じり合う女性の顔に、淡い笑顔が灯ったのがわかった。


『……お前のおかげだな』

 

しゃがみこみ、足元で寝転がるミケに手を伸ばす。

ミケはまるで僕の姿が見えているかのように反応すると、上体を起こして視線を上げていった。


『ありがと、ミケ』

 

背を撫でるように手を動かすと、ミケは目を閉じて体を横たわらせた。

撫でられた背中で、僕の存在を認識しているように見える。

 

ミケに存在を認識された気分になって、僕は何度も黒い毛が生えた背中を撫でていた。


『珍しいね、そんな気持ちいい?』

 

伝わっていないとわかっていても、ミケの動きが懐かしいものだったのでつい嬉しくなった。


ミケに救われていたのは、彼女だけではなかった。

 

お腹をなでればお腹を向けて、背中をなでれば背筋を伸ばす。

僕がまだ生きていた頃、ミケを可愛がっていた時も同じような反応をしていた気がする。


「ミケ、どうしたの……?」

 

ご機嫌な様子で何度も鳴くミケを見て、女性はとっさに上体を起こした。


「……もしかして」

 

女性が立ち上がり、ミケの視線の先を見る。

まるで彼女が僕を認知して、顔を合わせてくれたみたいだった。


「そこにいるの?」


女性がそう言ったのは、ミケが甘える鳴き声を出していたからだろう。


この鳴き声を発して体をゴロンとさせるのは、僕と女性の前でだけだった。


『……いるよ、ここに』

 

とっさに返答して、女性との距離を詰める。

止まっているはずの心臓が、早くなったような気がした。


『何年間もずっと、君にそばにいる』

 

腰を上げて歩みを進め、女性との距離を縮めていく。

彼女の瞳はしっかりと僕を捉えて離さなかった。


「……本当?」


『本当だよ』

 

女性の背中に手を回して、身体中に力を込める。


しかし、霊体になっている僕は、彼女を抱きしめることができなかった。


『……やっと、伝わった』


「……なんて。私、馬鹿だな」

 

僕たち二人の声は、綺麗に重なり合って静寂の中に溶けていった。

 

女性が微かな笑みを浮かべて呟いた後、小さくため息をついて一歩前に踏み出す。

僕の体をスルリと抜けて、毛繕いするミケとの距離を詰めていった。


「何言ってるんだろうね」

 

女性がミケを抱き上げる。


「いるわけないよね」


『……いるよ? こんなにも近くにいる』


「ミケも、あの人がいなくなって寂しいんだよね」


『すぐ近くにいるんだよ。ずっとずっと、この部屋にいるんだよ』


「ごめんね、仕事に行ってる間、一人にしちゃうもんね」


『君が泣いた夜も、酔って潰れた朝も僕はここにいたよ』


「休日はいっぱい遊んであげるから、許してね」


『見えないだけで、ずっとそばにいる』

 

肩に手を伸ばして呼びかけても、僕を認識することはない。


『……だから……振り返ってくれよ』

 

どんなに語りかけても、話が噛み合うことはなかった。

 

ミケは女性の腕の中から飛び出すと、大きく伸びをして再び毛繕いを始める。

僕たち人間と違って、猫はとても呑気な生き物だった。


「……霊感があれば、私にも見えたのかな」

 

僕に背中を向けたまま、彼女は冗談交じりに呟いた。

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