仏花
髪の毛を切ってから、首元が涼しくなった。
これほど髪の毛をバッサリと切ったのは、彼に出会う一年前が最後だろう。
横になったお線香の先から煙が伸びている。
クラゲの触手にも似たその煙の先には、愛していた男性の名前が彫られた墓跡が立っている。
雨の水滴が残る仏花が太陽の光を浴びて、キラキラと光っていた。
地面にできた水たまりの上には、散った葉っぱが二枚だけ浮いている。
彼に別れを告げに来たというのに、広がる世界は輝いていた。
目を閉じて手のひらを合わせると、十二年前のこの日の記憶が蘇ってくる。
同棲して迎えた三度目の彼の誕生日は、安いマンションの一室でカットケーキを食べただけだったが、今でも鮮明に記憶に残っていた。
彼を失って数日の間、二人分の料理を作ってしまうことが何度もあった。
使い終えたお皿を手に取って言う、「僕がやるから、テレビでも見て休んでて」といったセリフはもうずっと聞けていない。
未練が完全に消えたと言ってしまえば、自分にも彼にも嘘をつくことになる。
夢の中で彼とあった日の朝は、身体中が汗まみれになってしまうし、誕生日と同じ賞味期限を目にすれば、彼の名前が脳裏に浮かぶ。
好きなものを見れば買いたくなるし、彼が苦手な食材を使うこともそう多くはない。
積み重ねた長い時間が、私の心を引き留めていた。
数々の思い出の前では、理屈や理論や男性の魅力なんてものは無力なのだと、痛いほど理解させられた。
声や顔や身長が似ていても、過ごした時間がなければそれは彼とは言えないのだろう。
そんな私に、あの人は言葉をかけてくれた。
遠くも近くもない絶妙な距離からかけられた言葉が、彼を失って凍ってしまった私の気持ちをゆっくりと溶かしていったのは数日前のことだ。
『それでも、一緒にいたい』
私は、その言葉に弱いのだと思う。
私の呪いを解いたのもまた、呪いをかけたものと同じ実態をしていた。
「……さよなら、またね」
ゆっくりと目を開き、重ねた手を下ろす。
私の言葉は、彼にちゃんと届いているだろうか。
「……そうだ、久しぶりにコーヒーでも買って帰ろうかな」
ブツブツと独り言を呟きながら、私はお墓を後にした。